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レルヒ少佐のスキー〜ウィーン軍事史博物館

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ウィーン軍事史博物館はホールごとにテーマが決まっており、
それでいうとナポレオン戦争に次いでハプスブルグ家の三代に亘る資料、
その次には、

「ラデツキーのホール」

があります。
ただし、わたしはここでなぜか呆然としてしまい、写真を全く撮っていません。
これだけ膨大な資料があると、取捨選択にも大変な集中力がいるのですが、
ナポレオン戦争で緊張が途切れてしまったものと思われます。

なので、ちょっとだけ説明しておきますと、ラデツキーというのは
あの「ラデツキー行進曲」のラデツキーです。

どちらかというとこのシュトラウスの行進曲ばかりが有名ですが、
ここオーストリアでは東郷平八郎並みに知られた軍人なのです。

いや、陸軍だから乃木希典か。

Radetzky-von-radetz.jpg

ヨハン・ヨーゼフ・ヴェンツェル・フォン・ラデツキー伯爵。

ヨハン・シュトラウス1世が1848年に作曲した『ラデツキー行進曲』は、
北イタリアの独立運動の鎮圧に向かうラデツキー将軍を称えて作曲されました。

また、ウィンナーシュニッツェルは、ラデツキーがミラノから持ち帰った
「ミラノ風カツレツ」が元になっているんだとか。

このホールには、ラデツキーの退位証明書などが展示されています。

 

続いては「フランツ・ヨーゼフ1世のホール」です。
ヨーゼフ二世についてお話しした日に挙げた絵に登場していた少年、
覚えておられますか。

白馬に乗ったのがヨーゼフ二世、左端の灰色のジャケットが、
のちのフランツ・ヨーゼフ一世です。
このヨーゼフ一世の子供、フランツ・カールを父親として生まれたのが
フランツ・ヨーゼフでした。

つまり、ヨーゼフ一世の孫なので、最初はフランツ・ヨーゼフ二世と名乗りましたが、
皇帝の座についてから1世とあらためました。

えらくイケメンですが、オーストリアの青年にはこういうタイプが多い(マジ)
のを今回確認した私に言わせると、本当にこんなだった可能性は高いです。

ただし、前にも書きましたように、オーストリア青年の美貌は
歳をとると割と跡形も無くなって普通になってしまう、いわば
瞬間芸みたいな儚いものである模様(ロシア女性もこんな感じかも)。

Emperor Francis Joseph.jpg

晩年のフランツ・ヨーゼフ一世。
息子のルドルフは30歳で愛人と心中してしまいますし、皇位継承者であった
フランツ・フェルディナントはサラエボ事件で暗殺されています。

このフランツ・ヨーゼフ一世の嫁というのが、あのエリーザベトでした。
この肖像画家はデッサン力に少々問題があるような気がするのですが、
まあ、それはさておき、皇帝夫妻は誰もが認める美男美女のカップルだったわけです。

このエリーザベト皇后も後年無政府主義者にやはり暗殺されていますから、
もうフランツ・ヨーゼフ一世、お祓いが必要なレベルで周りの人が
次々と、しかも普通でない理由で死んでいったことになります。

戦争には負け続け、皇太子にも皇后にも先立たれ、民族問題にも悩まされ・・。
しかしその忍耐と不屈の精神、そして温厚にして誠実な人柄から、
晩年には帝国内のすべての民族に慕われ、治世期間が長かったことから、
「最後の皇帝」と呼ばれています。

フランツ・ヨーゼフ時代のK.u. K、つまり
オーストリア=ハンガリー帝国軍の双眼鏡とケースです。

ヨーゼフ一世の時代、ウィーンは大改造計画によって都市から
旧城壁が撤去され、国内では大々的な鉄道敷設工事が行われました。
これは1896年に撮られた敷設工事現場です。

軍隊で使用していたであろう当時の携帯電話。

ちなみに、フランツ・ヨーゼフ一世という人は、18歳で戴冠し、
長い間帝国のトップにあったとせいなのか、保守的で、新しいもの、すなわち
「文明の利器」である機械にアレルギーを示し、拒否し続けました。

自動車については77歳の時に、イギリス王エドワード7世の求めに応じて
1度だけ彼と同乗したことがあるそうですが、電話は1度も使っていません。

今ならさしずめどんなに言われても携帯を持ちたがらなかったり、
インターネットを拒否する爺さん婆さんみたいなものですか。

ただし、電信機だけは気に入ったのか、どのようなことも電報で通信し、
シェーンブルン宮殿の他の部屋への連絡にも使っていたとか。

1900年当時の最新型カメラです。
フランツ・ヨーゼフ一世には写真による肖像が残されていますし、
なんなら亡くなってベッドに横たわっている写真もあるくらいなので、
写真は全く拒否していなかったようですが。

こうなるとどこからOKでどこからダメなのか、基準がわかりませんね。

自動車もダメなら、きっと飛行機などは機会があったとしても
決して乗ろうとはしなかったでしょう。

説明の写真を撮り損なったのですが、この時代にオーストリアでも
飛行機の開発が行われていたようです。

いきなり現れたのがスキーの展示。
なんとなく興味を惹かれて近づいていくと、わたしたち日本人にとって
馴染みのある名前が写真に記されていました。

Major Theodor Edler von Lerch

このスペルでぴんと来なければ、

レルヒ少佐

ではどうでしょうか。

 

右側にあるレルヒ少佐の写真の下には、

「Instruktionsoffizier in kaiserl, japanischer Army.」

「Er fuhr in japan den modernen schilauf ein.」

とあり、日本陸軍のスキー指導員として日本に行き、
近代スキーを指導した、と書いてあります。

左側のスキーを履いた四人は全員が日本女性であり、写真の説明によると、

「レルヒの生徒だった陸軍将校の妻たち」

だそうです。
皆スキーを履いて、ストックは一本だけ構えていますが、
レルヒ少佐が日本に伝授したのは、この一本杖の手法でした。

Theodor Edler von Lerch.jpg

レルヒ少佐がなぜ日本でスキーを教えることになったかというと、
そもそものきっかけはあの

八甲田山雪中行軍遭難事件(1902年)

でした。

日露戦争で大国ロシアに勝った日本の軍事力には、当時世界中が注目し、
オーストリア=ハンガリー帝国でも、日本陸軍を研究するため、
交換将校という形でレルヒ少佐は日本に滞在していたのです。

レルヒ少佐がインスブルックの部隊で参謀をしていた頃、スキー術の研究をしており、
本国では有名なスキーヤーであることを知った陸軍は、彼を教師に陸軍に
スキーの技術を導入することを企画しました。

当時、八甲田山事件ののショックがまだ陸軍内に尾を引いており、
あのような事故が再び起こったとき、スキーを活用すれば何らかの形で
最悪の状況は防げるかもしれない、と考えたのです。

そして1912年、1月12日。

日本で初めてのスキー教室がこの日に開催されました。

場所は現在の新潟県上越市、生徒はのちに日本スキー連盟の会長になる
鶴見宜信大尉はじめ、14名の陸軍軍人で、この14名はその後
指導員となってレルヒ少佐直伝のスキー技術を陸軍に伝授しました。

ウィーン軍事史博物館には、レルヒ少佐が実際に使用していたスキー用具が
このように展示されています。

日本に教えたのは一本杖の方法でしたが、それは地形を考慮した結果で、
レルヒ少佐本人は二本のストックを使って滑っていたようです。

束ねたロープの左側にあるのが一本杖スキーで使う道具ですね。
日本で言うところのカンジキ、雪上履があります。

面白いのは、このカンジキ、日本では縄文時代から使われていているそうですが、
その原理と形はオーストリア製と全く違いがないことです。

スキー靴を止める器具の部分を拡大してみました。

こちらスキー靴。
レルヒ少佐の足は結構大きかったようです。
スキー板と靴は、布のベルトで止めたんですね。

これはオーストリア陸軍のスキー部隊のフル装備。
スキーを持ち、背中にはカンジキを背負っています。

というわけで、意外なところで日本に関係のある人物を見て嬉しくなったのですが、
さらに今回調べてみて、驚愕の事実が判明しました。

2009年、スキー発祥100周年を翌年に控えたこの年、
新潟県観光キャンペーンのゆるキャラ、レルヒさんが爆誕していたのです。

レルヒさんオフィシャルサイト

身長は270センチメートルで、各地のゆるキャラの中でもっとも背が高く、
キモカワイイをウリにして結構グッズも売れているそうです。

100周年記念キャンペーン終了後は、「元祖スキー天国新潟」である
新潟県PRキャラクターとして日本国内各地で宣伝活動も行うレルヒさん。

また、2012年2月に新潟市内在住の小学生女子3人組からなるユニット、
「シュプール音楽隊」によるCD「レルヒさんのうた」も生まれました。

レルヒさんのうた

全部真面目に聴いたら脳髄が溶けそうなゆるさですが、
途中に、オーストリア式ということで、男性はチロリアンハット、
女性は矢絣の袴姿でスキーを履いて一本杖を持っている写真があり、
これなどは歴史を忠実に再現している(つもりだ)と思われます。

ちなみに、レルヒが初めて日本でスキーを教えたことになっている
1月12日は、「スキーの日」となっていて、イベントも行われているようです。

 

というわけで日本スキーの父でもあるレルヒ少佐ですが、
帰国した後の消息も少しお伝えしておきましょう。

レルヒ少佐、まず帰国後勃発した第一次世界大戦に陸軍軍人として参加します。
しかし西部戦線に向かう途中の戦闘で負傷し、退役を余儀なくされ、
その後は日本を題材にした公演を行ったり軍事評論などをして
糊口をしのぎますが、やはり敗戦国となったオーストリアでは
軍人の恩給も出ず、晩年は貧困に苦しんだ、というのです。

日本はまさかレルヒ少佐がそんな状態になっているとは夢にも思わず、
昭和5年、レルヒ少佐が最初にスキーの指導を行なった高田で
「スキー発祥記念碑」を建立する運びになり、本人を除幕式に招待したのですが、

「身体の具合が思わしくなく、日本に行くのは財政的に厳しい」

という理由で来日を断って来たのです。

驚いた日本人、関係者にお見舞金を募り、同年、当時の金額で1600円
(現在の貨幣価値で600〜800万円相当)をレルヒに寄付しますと、
レルヒからは、礼状とともに自筆の油絵と水彩画が送られてきました。


日本では恩人として尊敬され、慕われていたのに、本国に帰ってから
特に評価されずに不幸な晩年を送ったというのは、横須賀のドック建設に
尽力した、フランソワ・レオンス・ヴェルニーを思わせます。


レルヒ少佐が(最終階級は少将)日本に滞在していたのは、
長い76年の生涯のたった3年間でした(41歳〜44歳)が、
その短い期間に受けた恩義を日本はそれからもずっと忘れず、
100年経ってもゆるキャラまで作って()功績を讃え続けているのです。

もし時空を超えて、レルヒ少佐の名前が「レルヒさん」として
今でも日本人に愛されていることを知ったら、彼は一体どう思うでしょうか。

 

続く。

 

 

 


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