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サラエボ事件・なぜ皇太子夫妻は暗殺されたのか〜ウィーン軍事史博物館

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ウィーン軍事史博物館の中でもっとも有名で注目を集める展示、
それは間違いなくサラエボ事件関連のものでしょう。

「サラエボ」と名付けられたこのコーナーには、皇帝の後継者だった
フランツ・フェルディナンド皇太子が皇太子妃と共に暗殺されたときに乗っていた、

1911年式グラーフ&シュティフト 28/32 PS
「ドッペルフェートン」

が展示されています。

車は石畳を模した展示スペースに、壁全体を当時の写真で囲まれた状態で
展示されており、誰もが足を止め食い入るように説明文を読んでいました。

わたしも、あの、第一次世界大戦のきっかけとなった重大事件が
この車の上で一瞬のうちに行われたことが、何か信じられない気持ちで
タイヤの汚れやどこかに傷がないかなど、細部を凝視しました。

さて、サラエボ事件が皇太子夫妻暗殺事件で、それが第一次世界大戦の
引き金となった、ということはどなたもご存知だと思いますが、
そのディティールについて、展示物をご紹介しながらお話ししていくことにします。

そもそも、オーストリア皇太子夫妻はなぜ暗殺されなくてはいけなかったのでしょうか。

オーストリア皇太子夫妻、フランツ・フェルディナンドとゾフィー・ホテク。
先日お話しした「最後の皇帝」ヨーゼフ一世(エリーザベトの夫)とは
弟の子、つまり伯父と甥という関係になります。

これもお話しましたが、ヨーゼフ一世の息子は30歳にして自死、つまり
女性と無理心中してしまったため、ヨーゼフ一世の後の皇位継承者は、
皇帝の弟であるカール・ルードヴィヒに指名されました。

ところが、カール・ルードヴィヒは、皇太子になって7年後に病死したため、
その息子であるフランツ・フェルディナンドが皇太子になったのです。

 

ここで、当時のオーストリア=ハンガリー帝国と、事件の起こった
現ボスニア=ヘルツェゴビナの関係はどうだったかについて触れておきましょう。

まず、ハプスブルグ帝国軍の最高司令官にして天才軍人、プリンツ・オイゲンは、
1697年にこの地を襲撃の末制圧しており、ほとんど壊滅状態になった国土は、
長らく復興することさえできない状態が続いていました。

これだけでもオーストリアに対する反感が育つには十分な理由ですが、
1850年台には正式に?オーストリア=ハンガリー帝国に統治されています。

ボスニア=ヘルツェゴビナは民族的にスラブ系で、どちらかというと
ゲルマン系よりオーストリアの天敵であるロシア寄りになっていたので、
火種がくすぶる原因はもともとあったのです。

帝国側から見ると路面電車を敷設するなどのインフラ整備を行ったり、
融和的な政府によって、併合は表面上うまく行っているようでしたが、
軍隊も議会も取り上げた状態がテンプレである統治という形態について、
された方が全面的にそれを良しとするとは限リません。

いまだに統治した国のうち一つに絶賛一千年恨まれ中のわたしたち日本人が
身につまされている歴史のあるあるですが、それだけではありません。

フランツ・フェルディナンドは、即位後にボスニアをハンガリーと同じく帝国にして、
オーストリア=ハンガリーの「二重帝国」を「三重帝国」にしたい考えだったので、
反オーストリアの民族派にとっては、抹殺すべき人物と目されていたのです。

皇太子夫妻がサラエボ訪問を行ったのは、ヨーゼフ一世の命にによるもので、
予定されていたボスニアでの軍事演習を視察するのが目的でした。

このとき、皇太子である大公が「軍人として」軍事演習の視察に行った、
ということはこの事件を知る上で重要な情報ですので、頭に置いておいてください。


この写真は、夫妻がセルビア市庁舎に到着した時のものです。
この後、市庁舎内で何事もなかったかのように歓迎会が行われたのですが、
実は、この直前、皇太子暗殺を目的としたテロはすでに起こっていたのでした。

英語でも説明してくれているので助かります。

皇太子夫妻を乗せた車は画面左手から市庁舎に向かい緑色の矢印の通りに進んで、
10分後、画面左手の「チュムリヤ」という橋の黒丸の地点に差し掛かったとき
待機していた暗殺グループが車列に向かって爆弾を投げました。

皇太子夫妻の車を狙って、民族主義者の暗殺グループのうち、
チャブリノビッチという20歳の青年が(のち獄死)投擲したもので、
狙いは外れましたが爆発し、後続の車に乗っていた人が負傷します。

皇太子夫妻の車はそのままスピードを上げて現地を離れ、
残りの暗殺グループは何もすることができませんでした。
車はその後赤で印された市庁舎に向かい、予定通り歓迎式典が行われました。

式典では何事もなかったかのように祝辞が始まったため、当然ながら皇太子は
なんでこんなことがあったのに普通に祝辞などやっているのか、という調子で
市長の挨拶を遮ってテロに言及したそうですが、ゾフィー妃に
耳打ちされて黙ってしまったということです。


歓迎の式典が終わりました。
ここで、皇太子が爆弾事件の負傷者を見舞うと言い出したため、
黄色の線を通って病院に行くというルートに変更されました。

ところが、皇太子夫妻の車の運転手にその連絡をするのを忘れた人がいて、
車は本来のコース(紫)に右折して行ってしまったのです。

それが運命が決まった瞬間でした。

皇太子夫妻の車に同乗していたセルビア軍総督が、それに気づき、
車を停めさせたのが、運の悪いことに、暗殺グループの一人だった

ガブリロ・プリンツィプ

が諦めて食事をしていたカフェの前(🔴地点)だったのでした。

 (ちなみに食べていたのはサンドウィッチだったということです)

ここでもう少し時間を戻します。

この写真は、市庁舎から出て車に乗り込もうとしている大公夫妻ですが、
先ほどのテロ未遂の後なので、表情は堅いことが見てとれます。

ここで、不幸につながる偶然の連続と見えるこの事件が、
ある意味防げた事故であり、人災であったと思われる部分について述べます。

 

このとき、ボスニア側では、帝国に融和的な国民を刺激するとして、
もともと要人警護を目に見えて手薄にしていたとうことがありました。

しかし現実に皇太子を狙うという凶悪なテロが起こったのですから、本来ならば
そのあとの予定は全部中止にして残党の暗殺計画に対処するべきだったのです。

ところが、このとき、ボスニア側のポティオレク総督は、事件の再発を心配し、
市庁舎に止まるべきだと進言した大公の侍従に、

「サラエボは暗殺者だらけとでもお思いですか?」と言って議論を終わらせた(wiki)

というのです。

Potiorek oskar fzm 1853 1933 photo2.jpgポティオレク総督

それにしても、このオスカル・ポティオレクという総督なんですが、
どうも、この人のやることなすこと事件の発生を後押ししているんですよね。

どういうことかというと、

● 皇太子夫妻の訪問に対して厳重な警備を行おうとしなかった

● 最初のテロ事件が起こった後も、警備を増援しなかった
理由は、「演習の途中なので兵士がちゃんとした制服を着ていない」というもの

● 車のルートが変更になったことを運転手に伝えるのを忘れた
前の二台を追いかけさせるため車を停めさせたらそれが犯人の前

 

最後のは偶然というか至極当然の行動だとしても、これだけ重なると、
この人の責任も問われてしかるべきでは、って気がしませんか?

総督が何か一つ危機管理に留意していただけで、この事故は起こらず、
従ってその後の世界の運命は全く違ったものになっていたことになります。

事件が起こった瞬間を描いた当時の新聞の挿絵です。
皇太子が首を抑え、ゾフィー妃の腹部に銃弾が当たった瞬間を描いたものです。

犯人のプリンツィプが、車に駆け寄って発砲していますが、
目の前で停止した車の踏み板に乗って、まさに至近距離からー
外しようのないくらいの距離からー銃撃したという説もあります。

皇太子の着ていた軍服は絵のような白ではなく、青色です。

博物館には、暗殺当時皇太子が着用していた軍服が一式飾られています。

暗殺は6月であったことと、すぐに上がった写真が白黒だったため、
挿絵画家は色を判別することができず、とりあえず夏服を描いたのでしょう。

首を抑えていたことからもわかるように、銃弾は皇太子の頸静脈に当たりました。
軍服の内側のカラーには頸部からの出血の跡がはっきりと見え、さらに
銃弾がかすったと思われる傷と血のシミがまだ残されています。

犯人は続いて皇太子妃ゾフィーの腹に一発を撃ちましたが、これは意図してではなく、
同乗していた総督を狙ったが外れたものだと裁判で述べたそうです。

博物館公式HPより。
軍服の裂け目は袖にまで至っています。

軍服だけでなく、皇太子が身につけていた装飾品のほとんどが展示されています。
左にある緑色の羽は、大公が被っていた帽子の飾りですが、
百年以上経ってこれだけ色を残しているということは、当時は
鮮やかな緑色をしていたのでしょう。

そして、透明の板に乗せられた軍服の下の寝台ですが、これは
皇太子が銃撃を受けた後、寝かされ、息を引き取ったものです。

赤い生地なのでよくわかりませんでしたが、おそらくはここにも
血液の染みが見られるのに違いありません。

それを見せるため、このような展示方法を取っているのでしょう。

大公が着用していたのはK.u.K アーミー、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍の
将軍の軍服となります。

わたしが驚嘆したのは、寝台の足元に置かれた皇太子着用の靴。
その皮がなんとも滑らかそうな、仕立ての良さがありありと表れているブーツで、
今でもちょっと手入れしたら普通に履くことができそうなくらいです。

皇太子は銃弾を受けたのが静脈だったせいで即死せず、銃弾を腹部に受け、
すぐに意識を失った妃に向かって、

「ゾフィー、ゾフィー!死んでは駄目だ。子供たちのために生きてくれ」

と声をかけて、自分自身については

「大したことはない」

となんども答えていたそうですが、総督公邸に到着してから10分後、
意識混濁のまま亡くなりました。

ということはこの寝台の上でまさに息を引き取ったのかもしれません。
そして、もしかしたら皇太子は自分が亡くなるとは最後まで
思わないまま、二度と意識が戻らなかったのではないでしょうか。

 

さて、次回はゾフィー妃のことについてもお話ししてみたいと思います。

続く。

 

 


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