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サラエボ事件・なぜ皇太子妃は暗殺されたのか〜ウィーン軍事史博物館

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ウィーン軍事史博物館のサラエボ事件関係の展示について、
前半では事件が起こるに至った背景と、事件そのものの経緯を
絡めながらご紹介してきました。

後半では、博物館展示の写真から、もう一度事件発生前に戻ります。

フランツ・フェルディナンド皇太子夫妻の訪問を迎えるため、
大きな花束が用意され、贈呈係の少女が受け取っているところです。

サラエボ側の役人たちは全てトルコ帽を着用し、フラワーガールも
トルコ風のバルーンのようなシルエットのパンツを履いています。
どういう関係で抜擢されたかわかりませんが、可愛いですね。

皇太子夫妻の車列に手榴弾が投げ込まれましたが夫妻は難を逃れ、
皇太子の車はスピードを上げて現場から走り去ったため、歓迎のために待っていた
これらの人々が、事件の発生によって待たされることにはなりませんでした。

市庁舎前に博物館に今日展示されている車が到着しました。
運転席にいる運転手は、動画によるとこの後車を降りて、
爆発の影響がないか車体を調べていたようです。

比較のためもう一度車の写真を上げておきます。
今回確認のために「映像の世紀」の車の映像を見たところ、
ただ車がポツンと隅に置いてあるだけで、今のような演出は
全くありませんでした。

現場では気づかなかったのが痛恨の極みですが、この車体には
後部に弾痕の跡が残されています。

その後フランツ・フェルディナンドは、爆弾によって負傷した人々を見舞うため
歓迎会の後の予定を変更して病院に向かうことにしました。

このことが、皇太子本人が射殺されるきっかけを作ることになります。

視聴者の階段を上っていく皇太子夫妻。
運転手は点検のために運転席から立ち上がっています。

歓迎会が終わり、サラエボ側は先ほど起こったばかりの暗殺未遂に対し
なんの危機感もなく、対処しないまま、皇太子は出発することになりました。

博物館に展示されていたこの写真には、ドイツ語で

「暗殺の5分前、市庁舎を退去」

とあります。

DER MOMENT DES ATTENTATES「暗殺の瞬間」

とキャプションがありますが、犯人の姿は写真では確認できません。

右からゾフィー妃、隣がフランツ・フェルディナンド皇太子、
その左がこの直前車を停めさせたポティオレク総督。

運転手にコースの変更を伝え忘れたのは他ならぬこのおっさんだったのですが、
前の二台が川沿いをまっすぐ行ってしまったのに、この車だけが右折したため、
車をバックさせて二台のあとを追いかけるように伝えていました。

車は完全に停止した状態で、この近くのカフェで食事をしていた犯人にすれば
まさに天佑天助とでもいうべき千載一遇のチャンスだったのです。

もう一度写真をみてください。

近くに立っている人の中には、まだ異変に気づいていない人もいますが、
至近距離の二人の紳士が凝視しているのは犯人の姿であろうと思われます。

おそらく犯人のプリンツィプは今まさに車に銃を持って駆け寄り、
ステップに足をかけようとしているのに違いありません。
それを思わせるのが、総督の被っている帽子の房で、激しく揺れており、
これは総督が不審者の接近に気付いて反応したことを意味しています。

弾痕のありありと残る車のフロントガラス、そして犯人が使った銃。
制帽と真ん中のものは何かわかりません。
(説明部分の文字がぶれていて判読不可能でした)

博物館HPより。

フロントグラスを取り外したのは、おそらくですが、
移動の際にガラスそのものが破損してしまう可能性を考慮してのことでしょう。

過去何度か飛び石事故でフロントガラスを取り替えたことのある経験からいうと、
亀裂の入った面の大きなガラスは、少し車体がねじれたくらいの圧がかかっても
いとも簡単に全損してしまうものなのです。

プリンツィプが撃った銃弾は一発は妃の腹部、二発目は皇太子の頸部を傷つけ、
本人はそのあと自分を撃って自殺するつもりが取り押さえられたとありますが、
車体左側、そしてこのガラスに残る弾痕から見る限り、犯人は
銃を撃ちながら車に近づいていったということかもしれません。

博物館では公開されていないようでしたが、HPにこんなものもあります。

暗殺されたときに皇太子が身につけていた白いシャツです。
袖口以外は白いところがないくらい血で染められています。

関連画像

前回見ていただいた軍服の血のシミは、年月を経て薄れてしまっていますが、
事件直後に撮られた写真によると、こんな状態でした。

事件でほぼ即死したゾフィー妃、そしてしばらくは意識を保っていたものの、
次第に混濁し、死亡に至った皇太子、二人の遺体は、総督公邸に安置されています。

二人とも清拭され、衣装も着替えさせられて、まるで寝ているようです。
皇太子が着替えるための代わりの軍服も即座に用意されたのでしょう。
その胸には、暗殺の時と同じ勲章が清拭されて付けられています。

ゾフィー・ホテク(1868〜1914)

は、チェコの貴族出身で、ハプスブルグ-テシェン家の妃の女官でした。
二人がチェコのプラハで出会ったとき、フランツ31歳、ゾフィー26歳。

恋に落ちた二人がテシェン家の別荘でこっそりと逢っていた頃、
ちょうど帝位継承者であった彼の父親、カール・ルードヴィヒが病死してしまいました。

順序からいって次の帝位継承順位はフランツ・フェルディナンドとなるのですが、
ちょうどこの頃、内緒にしていた二人の恋愛は、テシェン家の妃に怪しまれ、
フェルディナンドが時計の裏に仕込んでいたゾフィーの写真を見つけられてしまい、

「おのれ、わたしの娘を狙っていたと思っていたのに、よりによって女官とは!」

と大騒ぎになってしまいます。

ゾフィーの身分を問題視したヨーゼフ一世は、フェルディナンドに向かって

「廃位か結婚か、どちらかを選べ」

と迫ったそうですが、彼は、どちらも手放さない、と断言しました。

もしこのとき彼が帝位を諦めていたら、その時は彼の弟に話がいったはずですが、
フェルディナンド、どうもこの弟が嫌いだったらしく、
(自分の宮殿より弟の方が大きな所に住んでる!あいつムカつく、とか、
本人が帝位に野心はないといったのに、それを鼻であしらうとか)
弟への対抗心から帝位に執着したと言う考え方もできますね。


結局彼は、ゾフィーがダメなら誰とも結婚しない、といって意志を貫き、
1900年6月28日、結婚を強行しました。

ところで、6月28日といえば、1914年のこの日はなんだったでしょうか。
そう、サラエボで二人が暗殺されたまさにその日です。

 二人は結婚記念日に共に命を絶たれたことになります。


さて、皇帝のヨーゼフ一世は結婚を許したものの、結婚式への出席を拒否し、
彼の側の親族にもそれを禁止したため、結局二人の結婚式は、写真の通り、
ゾフィー側の関係者だけの、あまりにもささやかな式となりました。

しかも、彼らはヨーゼフ一世から、結婚は許すが、ゾフィーを皇族扱いしないこと、
生まれた子供には決して帝位を継がせないこと、という約束をさせられていました。
皇太子夫妻としての公式行事に参加することも禁止です。

 

そんなヨーゼフ一世が事件について第一報を聞いたときの第一声は、

「恐ろしいことだ。全能の神に逆らって報いなしには済まない。
余が不幸にも支えられなかった古い秩序を、より高い力が立て直して下さった。」

というものであったといわれています。

つまり、彼らの貴賤結婚は「神に対して逆らうこと」と同等であり、
二人揃って殺されたことは、その「報い」であると皇帝は言い切ったのです。

さらには、身分の低いゾフィーとフェルディナンドが結婚することによって
古い秩序が破壊され、自分はそれを止めることはできなかったが、
神の下した罰によって彼らは破滅し、古い秩序は取り戻されたのだ、と、
聞きようによってはまるで暗殺を喜んでいるようにも取れる発言です。

たとえそうでなくとも、彼らの道を外れた行いに対し天罰が降った、
とヨーゼフ一世が考えていたことは確かなところでしょう。

 

ちなみにフェルディナンド大公が死亡することによって次期皇帝の座には、
彼が毛嫌いしていた(に違いない)弟のカール一世が指名されました。

詰め寄る兄に『自分は帝位への野望はない』と言ったのに、信じてもらえなかった
このカール一世ですが、本当に野望どころかやる気もなかったようで、
ヨーゼフ一世崩御後、オーストリア=ハンガリー皇帝になるも、すぐに国事不関与を宣言し、
その日のうちに自ら宮殿を去り、最後のハプスブルグ皇帝となってしまいました。

ハプスブルグ家がオーストリアから去っていく絵の最後には
ヨーゼフ1世に続いてカール一世が振り返りながら退場していく姿が・・。

ただしこれはカール一世のやる気の問題ではなく、時代の趨勢ということでもありました。

もしヨーゼフ1世がフランツ・フェルディナンドの貴賤結婚を許し、
その子どもたちに帝位を継がせる可能性を与えていたとしても、
遅かれ早かれハプスブルグ家の帝国は、世界の帝国主義とともに崩壊していたのです。

ゾフィー妃の私物もいくつか展示されています。
手書きのメモが添えられたかつては色鮮やかだったであろう押し花。
白いレースはハンカチでしょうか、スカーフでしょうか。

 

これも説明を撮影しなかったので何かわかりませんが、手編みのレースで作ったものです。

ところで、ゾフィーがフランツ・フェルディナンドと結婚する条件の一つに

「公の場に二人で出席してはいけない」

というものがあった、と先ほど説明しましたね。

身分の卑しい彼女が夫の一族からはまるでいない人のように扱われるのは既定路線でしたが、
それでは今回、なぜ二人は公的行事に一緒に現れたのでしょうか。

本来ならばゾフィーの帯同は許されなかったのですから、暗殺があったとしても
少なくとも彼女は暗殺されることもなかったはずなのです。

 

ヨーロッパ貴族の常として、フランツ・フェルディナンドは軍人でもありました。
この日も、サラエボに赴いたその理由は、軍人の立場で軍隊を閲兵することです。
彼はこの頃、ヨーゼフ一世に変わり、軍の最高指導者の立場にいたのです。

そして、暗黙の了解というか、抜け穴と言うべきなのか、ゾフィーは
皇太子としての大公とは同行出来ませんでしたが、ただ、

「夫が軍人として公務に参加するときだけ」

一緒に歩き、共に並んで立つことがなんとか許されていたのです。


わたしの想像ですが、二人は結婚記念日に当たるこの日、煩いウィーンを離れ、
晴れて夫婦揃って公務に出席することを心から喜んでいたに違いありません。

そして、昼間の公務が終了した後には、14回目の結婚記念日を祝うための
二人きりの祝宴を囲むつもりをしていたのではなかったでしょうか。

二人は晩年まで仲睦まじい夫婦でした。
この時、ゾフィー妃は46歳でしたが、懐妊していたとも言われています。

海軍の軍服を着用した皇太子

軍人としてのフランツ・フェルディナンドは、当時の陸軍優位の帝国軍で
唯一海軍の増強を提唱していた人物で、そのこともあって、暗殺された後の遺体は

戦艦フィリブス・ウニティス (SMS Viribus Unitis) 

に乗せられ、海路でイタリアのトリエステまで運ばれました。

そのあとは特別列車でウィーンまで運ばれているので、海路を乗せたのは
全くの遠回りとなるのですが、海軍が彼に敬意を表したということなのでしょう。

事件の後のことについても少し書いておきます。
この写真は、日本のウィキでは暗殺直後に撮られたもので、捕まっているのは
犯人のガブリロ・プリンツィプであるかのように説明されていますが、
軍事博物館によると、これは後日、プリンツィプの学校の友人である
フェルディナンド(フェルド)ベーアが逮捕されているところだそうです。

犯人グループのうち、5名が絞首刑の判決を受けましたが、
皇太子夫妻を撃ったプリンツィプはまだ20歳になっていなかったlこともあり、
懲役20年の刑を科され、テレジェンスタットで獄死しました。

オーストリア=ハンガリーから見ると殺人者ですが、セルビアから見ると
彼らの行為は英雄的で、今でもプリンツィプの記念碑がどこかにあるそうです。

これも我々日本人には既視感のある光景ですね。

暗殺事件が起こって数時間後から、反セルビア暴動が連鎖的に発生しました。

暗殺当日の夜は、セルビア系住民に対する虐殺も行われたと言いますが、なんと
それらの暴力行為は、直接間接的に暗殺を後押ししたとわたしが断言するところの

ポティオレク総督本人によって組織され、また扇動されていた

と言われています。

このおっさん、最初から最後まで怪しすぎね?

さらに、サラエボ市の警察は暴動を抑制するために何一つ動きませんでした。
そのためサラエボ市では暴動初日に2人のセルビア人が殺害され、
1000件に及ぶ住宅、店舗、学校、施設は破壊されるがままでした。

ベルタ・フェリツィタス・ゾフィー・フライフラウ・フォン・ズットナー
(Bertha Felicitas Sophie Freifrau von Suttner, 1843- 1914)

は、オーストリアの小説家です。
急進的な平和主義者で、ノーベル平和賞を受賞した最初の女性でした。

ズットナーは1889年に小説「Die Waffen nieder!(武器を捨てよ!)」
を発表し、平和活動の先駆者となりました。

このコーナーでは、急進的な平和主義者だった彼女が死んだのは、
サラエボの事件のわずか一週間前だったこと、ゆえに彼女は
それが世界的な大戦につながることも知らずに世を去った、とあります。

 

サラエボ事件が、つまり一発の銃弾が世界大戦のきっかけとなった、とは
よく言われることですが、それは具体的にどういうことなのでしょうか。

 

次回は、少し視点を変えて、我が日本の海軍が第一次世界大戦に参加した
という視点からお話ししてみたいと思います。

 

続く。




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