以前ここで大正13年度の帝国海軍遠洋練習航海について、
新橋の古本市で手に入れた記念アルバムを元にお話ししたことがあります。
それを買った古本屋の主人が、何万円もする旧軍の写真集をほとんど
即決でお買い上げしたわたしを、戦史研究家か、あるいは
ノンフィクション作家だとでも勘違いしたのか、
他のブースを物色し立ち読みしているわたしのところにこっそりやってきて、
横から
「もしよろしかったらこんなのもありますが・・・・」
と差し出したのが、この写真集、
「軍艦香取征戦記念」
でした。
「買ってくれるんなら半額にしますよ」
という巧みなセールストークについ乗せられ、こちらも
その場でお買い上げとなったわけですが、新シリーズとして
この写真集をご紹介していくことにしました。
前回の練習航海アルバムの写真をブログ用にアップしたとき、
一枚一枚ファクシミリ機でキャプチャして、それを取り込み、
写真ソフトで加工するという面倒な方法でやっていたのですが、
「香取」のアルバムになかなか手をつけられなかったのは、
この作業をするのが家でないとならず、さらに面倒臭すぎて、
億劫が勝ってしまっていたことにあります。
ところが、今回それをやろうとしていたところ、帰国していた息子が、
「カムスキャナー」というデータ読み込みソフトを使用すると
iPadから写真を撮ることでデータ化し、取り込むことができる、と
教えてくれました。
コピー機に挟めないくらい大きな地図のようなものでも、
椅子の上に立つとかして、全体をとにかく撮影さえできれば、
歪みも修正でき、写真としての色もそのまま残すことができます。
「はあー便利になったものだのう」
感心しながらパシャパシャやっていたら、MK、
「でもさ、なんかこないだ撮影してデータにする道具買ってなかったっけ?」
あーそういえばスタンドライト型オーバーヘッドスキャナ買って、
ソフトのダウンロードをしないまま放置してたんでした。
「あれ、ダウンロード用のCDがサイズ小さくて」
「オンラインでダウンロードできるはずだけど」
でも、こんな簡単な方法でスキャンできるのがわかったら、
今更面倒くさいセッティングなんてする気も起こらないよね。
まあただ、どんな贔屓目に見ても画質はそんなに良くありません。
本シリーズ掲載の写真で、画像が甘いものがあったら、それは
このスキャナで撮ったものだとご理解くださいますようお願い申し上げます。
それはともかく、そういう理由で中身を無事ダウンロードし、
ここで紹介していくことになったわけです。
ここでもう一度アルバムの写真を見ていただくと、黒地に金文字が打たれた
大変立派な紙を使用してはいますが、綴じ方はページに穴を開け、
当時は黄色であったらしい紐で結わえて束ねるという手作業です。
黒の表紙は、エンボス加工がしており、それは椰子の木に島という、
「香取」が「征戦」を行なった南の島をあしらったデザインとなっています。
さて、ところで今更ですが、ここでいう「征戦」とはなんでしょうか。
いきなりですが、アルバム巻末には、
「大戦日誌」
なる年表があります。
大正3年(1914年)6月28日
墺国皇太子および同妃塞国一兇漢の為めに射殺さる
そう、つい最近ウィーン軍事史博物館で見た資料をもとに
ここでも詳しくお話ししたばかりのサラエボ事件ですね。
つまり「香取」が第一次世界大戦に征戦したという記録なのです。
塞国はセルビアのことで、セルビアは
塞爾維亜
塞爾維
塞耳維
塞爾浜
などと漢字表記されます。
ところで、どうしてオーストリア皇太子がセルビアで暗殺されると、
それが世界規模の大戦になるのか、不思議ではありませんでしたか?
それを考察する前に年表を見てみましょう。
ここには事件1ヶ月後からの世界の動きが実に端的に書き表されています。
7月28日 オーストリア、セルビアに宣戦す
8月1日 ドイツ、ロシアに対し宣戦す
8月2日 ロシア、ドイツに対し宣戦す
8月4日 イギリス、ドイツに対し宣戦す
8月9日 セルビア、ドイツに対し宣戦す
8月10日 フランス、オーストリアに対し宣戦す
8月13日 イギリス、オーストリアに対し宣戦す
8月15日 帝国、ドイツに対し最後通牒を送る
8月23日 日独交戦状態に入る
帝国とはもちろん我が大日本帝国のことです。
一応参戦前に通牒を送って確認をしているわけですね。
ここでもお話ししたように、皇太子の貴賤結婚に反対し、暗殺されたことを
『神による秩序の回復』とまで言ったオーストリア皇帝ヨーゼフ二世でしたが、
皇太子暗殺に対しては筋として?報復のため宣戦布告を行いました。
これはわかります。
問題はサラエボ事件から三日後になぜドイツがロシアに宣戦したかです。
これは、ロシアが領土的野心を持つセルビアを支持する側に立ち、
ニコライ二世はオーストリアに対して兵士を総動員したことに端を発しており、
ドイツはこれを取りやめるよう要求して断られ、武力で報復をすることにしたのです。
そしてそんなドイツに対立する形でイギリスが参戦、と、
瞬く間にワールドワイドな規模になってしまったわけですが、
もっとわかりやすくいうと、この対戦の構図は
「ドイツ・オーストリア対英仏米日露その他大勢」
ということでいいと思います。
当時は国同士がなんらかの形で同盟となっていましたから、
ヨーロッパ中が呼応する形で名乗りを上げていったのは自然の成り行きでした。
それは日本についても言えることでした。
今これを製作しているニューヨークの家には、Huluなどのネット番組が見られる
ROKUというテレビを導入してくれているので、おかげでわたしは久しぶりに
どこかの中国人がアップした「映像の世紀」「新映像の世紀」を通して観ました。
(いちいち中国語字幕が入っているのがうざいんですが、中国が映像に映ると
途端にシーン・・となってしまうのが露骨でちょっと笑えます)
そして気がついたのですが、もう20年以上前に制作された元祖たる
「映像の世紀」では、日本が第一次世界大戦に参加した理由を
「中国の青島での権益が目的だった」
としか説明していないのです。
今回久しぶりに観て、昔はなんの疑問も感じず言葉どおり受け取っていたこの部分が
明らかに大事な事実を意図的に伝えていないのに気がつきました。
それだけでなく「映像の世紀」制作陣は、日本の第一次大戦参戦が、あたかも
中国大陸だけに向けて行われたことしか伝えていませんが、ことの経緯を見ると、
決してそれが「中国の権益が第一目的」ではないことが見えてくるのですが。
それはこういうことです。
当初、日本は遠いところで始まったこの紛争に高みの見物だったのですが、
戦闘が始まり、ドイツ軍が無制限潜水艦作戦と称して、
Uボートで連合国の輸送船をそれこそ無制限に攻撃し始めるようになると、
手を焼いた英国が日英同盟の締結国である日本に、
輸送船の護衛作戦に参入するように、と再三要請をしてきたのです。
ところで、湾岸戦争の時、お金だけ出して日本は汗をかかない、と非難されたとか、
感謝広告に日本だけ国名がなかったとかいう話がありましたね。
あの日本に対する冷たい扱いは、実は裏でアメリカが画策していたいう噂もありますが、
その真偽はともかく、国家が自分の国と関係ないところで起こっている戦争について
ギリギリまで静観を決め込むのは、国家としてまったく普通の態度だと思います。
しかし、その戦争に巻き込まれているのが同盟を結んだ国となると話は別です。
同盟国が危害を加えられたとあらば、トランプ大統領に言われるまでもなく
双務的義務を果たすべく、こちらも血を流す覚悟を決めなくてはいけません。
その覚悟がないなら最初から同盟など結んではいけないし、日本はアメリカと
同盟国である以上、アメリカに守ってもらうだけというのは「契約違反」となります。
アメリカ側がこの現状に言及したことは、日本がアメリカに守られながら、
その一方で、
「アメリカの戦争に巻き込まれる!」
などという国内の意見を利して実質軍隊の手足を自ら縛ってきた戦後体制を、
あらためて正す、そのための憲法改正のきっかけになっていくのかもしれません。
話を元に戻しましょう。
野党や左派、メディアやアンチ安倍な人たちから散々非難されたことが
記憶に新しい集団的自衛権ですが、皆さんは、この第一次世界大戦において、
当時の日本がいわゆる集団的自衛権による出動を要請され、当初これを断って
連合国から非難されていたという史実があったのをご存知だったでしょうか。
サラエボ事件後、欧州中が宣戦布告のエンドレスサークル状態になった時、
日本はイギリスから陸軍のヨーロッパ戦線への投入を要請されましたが、
先ほども言いましたようにこのときはこれを断っています。
もしこの時に日本政府が陸軍派兵を行なっていたら、
「西部戦線異常なし」
の日本版が誰か日本の文学者によって書かれたかもしれません。
第一次世界大戦の陸戦はわたしたち日本人にとって遠い世界の出来事のようですが、
当時の政府の対応次第では当事者となっていた可能性もあったということなのです。
しかしそれだけではありません。
ドイツのUボートに手を焼いたイギリスは、なんと日本に対し、
「金剛型戦艦をイギリス軍に貸せ」
と言ってきて、日本はこれをはねのけているのです。
個人的に腹がたつのは、「第三戦隊を派遣せよ」ではなく、
「金剛型を貸せ」という上から目線のイギリスの態度ですね(笑)
これらを建造したのは確かにイギリスのヴィッカースでしたが、だからと言って
我々が使うから貸せ、というのはあまりにも日本に対し失礼と言えます。
もっともイギリス海軍、帝国海軍のことは大東亜戦争が始まって
「レパルス」「プリンス・オブ・ウェールズ」がマレー沖で
沈められるまで見くびり切っていたと思われるので、仕方ないでしょう。
このとき陸軍と金剛型の貸与を断ったことは、日英同盟の観点から
連合国、イギリス側からおそらく非難されたと思われます(調べてません)。
しかし、結局のところ、同盟の契約を無視することなどできなくなり、
ついに日本はドイツに宣戦布告を行い、参戦することを余儀なくされました。
なぜドイツかというと、イギリスがドイツと戦争していたからです。
ちなみに、今世紀に入って新たに制作された「新・映像の世紀」でも、
サラエボ事件を扱っていますが、続く各国の参戦についての説明において、
連鎖的に各国が参戦に雪崩を打って突入したことは、
「列強は安全保障のため軍事同盟を結んでいた。
イギリスはフランスとロシア、ドイツはオーストリア、オスマン帝国と結び、
二大陣営に分かれた。
政争を望まない他の国々も、軍事同盟に縛られ、
30カ国を超える国々が戦火に巻き込まれていく」(ナレーション)
なるほど、戦火の拡大は軍事同盟の縛りがあったからで、
望まない国も参戦せざるを得なかったと・・・。
わかってるじゃん!
ところが、日本についてはこうです。
「日本はイギリスとの同盟を理由に連合国として参戦。」
「映像の世紀」を制作したのって、本当に日本人なんですかね。
なんなんでしょうか、この一行に感じる違和感。
他の国には「望まない」という情緒的な言葉すら使って、軍事同盟に縛られ
参戦せざるを得なかった、と同情的に言いながら、日本だけは
『軍事同盟を中国大陸の権益を得るための口実にした』とでも言いたげです。
最近のNHKについてその左傾化、反日本的な態度を糾弾する人も、
「NHKにはいい番組もある」ということを付け足すのが常です。
わたしもそれは否定しませんが、少なくとも彼らが挙げるいい番組に
この「映像の世紀シリーズ」は入れるべきではないと思います。
歴史的事実を伝えているようで、彼らの意図はある方向への誘導は明らか、
特に日本が登場する箇所には中立とは言えない視点の”歪み”が目につきます。
もし、昔この番組を観ていい番組だと思っていた人がいたら、もう一度
youtubeで観てみてください。
もしわたしの感じたように、前回気がつかなかったNHKの巧妙な、一種の
「角度」に気がつくことがあったら、この期間にあなたを変えたものは、
それはおそらくインターネットという新たなツールのもたらした情報です。
8月23日 宣戦の詔書発せらる
さて、ドイツと交戦することになった日本、開戦4日後には
あの第二艦隊が出動し、早速膠州湾(山東省)を閉鎖。
陸軍が上陸してドイツの租借地だった即墨区を占領することに成功しました。
我らが軍艦「香取」が出動したのはこの頃、9月19日です。
「香取」の任務は、マリアナ諸島サイパンを占領することでした。
年表によるとマリアナ群島占領は10月14日となっていまんす。
このアルバムは、まさにその一連の出征を、無事勝利を収めて帰ってきてから
思い出の写真を編集し参加者に配られた記念品であった、というわけです。
ついでにこの年表について、最後まで説明しておくと、
10月19日 「高千穂」敵駆逐艦「エス」九十号の水雷を受け沈没す
防護巡洋艦「高千穂」は、あの映画にもなった「青島攻略戦」において、
当時すでに老朽艦でありながら参加し、補給用の魚雷を輸送している時に
小型駆逐艇「S90」に魚雷2発を受け、轟沈しました。
「高千穂」は海軍創設以来、敵との交戦で最初に沈没した軍艦になりました。
11月1日 南米チリコロネル沖において、独艦隊のため
英艦「グッドホープ」「モンマス」の両艦撃沈せらる
グッドホープ
いわゆる「コロネル沖海戦」です。
「グッドホープ」を指揮していたのは、あの
マキシミリアン・フォン・シュペー中将
でした。
11月9日 敵巡洋艦「エムデン」、英艦「シドニー」のために
インド洋ココス島に撃破せらる
「エムデン」艦長 カール・フォン・ミュラー
この頃のドイツ軍の士官は皆名前に「フォン」がついていますが、
貴族でなかった者も戦功を挙げ貴族を叙されることもありました。
「エムデン」は「シドニー」からのフルボッコ状態になり、
ミュラー艦長は「エムデン」をわざと座礁させ白旗を揚げました。
座礁したボロボロの「エムデン」。
そして日本における第一次世界大戦派出は終わりました。
12月4日 加藤定吉第二艦隊司令長官東京に凱旋す
12月5日 香取着
12月8日 栃内司令官東京に凱旋す
第二特務艦隊は任務において多くの戦死者を出し、しかも
敵に怯まず任務を遂行したため、英議会ではこれを称えて
『万歳」が日本語で行われ、英国人をして彼らを
「地中海の守護神」
と呼ばしめた、という事実はもちろん「映像の世紀」では決して扱われません。
彼らにとって日本の戦争は領土拡大と権益獲得のための野心だけが理由であり、
国際貢献を認められ世界に賞賛されたなどという事実はおそらく都合が悪いのでしょう。
同日 スタディ中将の率いる英国艦隊はフォークランド島沖において
独艦「シャルンフォールスト」「グナイゼナウ」「ライプチヒ」を撃沈す
いわゆるフォークランド沖海戦です。
沈没する「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」。
コロネル沖海戦でイギリス軍に打ち勝ったシュペー大佐は
やはり同じ海戦に参加していた二人の息子と共に戦死しました。
この海戦で「シャルンホルスト」の乗員は全員が戦死しています。
さて、この年表は、キャプチャしなかった次のページの
12月8日 青島攻撃軍司令官神尾中将東京に凱旋す
で終わっています。
続く。