呉地方総監部で殉職自衛官追悼式に参列した翌日は、
自衛隊記念日に伴い行われる感謝状贈呈式と懇親会が予定されています。
昨日羽田空港に到着したときには豪雨の降る荒天で、出がけに
一旦部屋に戻ってレインコートを羽織ってきたわけですが、
追悼式の間、お天気は曇り気味といえなんとか持ちこたえました。
さらに夜には降り出し、次の早朝にもまだ降り続いていたため、
傘をトランクから出して用意していたら、開始時刻前には抜けるような青空が!
今回は練習艦隊のお迎えから始まって、雨の方が回避してくれているという感じ。
昔はわたしが呉に行くと必ず雨が降るというジンクスがあったのですが、
ついにこれを克服する日がやってきたようです。
少しだけ早めにホテルを出て、アレイからすこじまに車を走らせました。
昔からの赤煉瓦の倉庫街が残されている街並みと、潜水艦基地。
呉に車で来ると必ず一度はここに立ち寄ることにしています。
このレンガの建物はかつての呉海軍造兵廠、呉海軍工廠のさらに前身が
ここにあった1897~1903(明治30~36)年建てられたものばかりです。
窓枠などはアルミサッシに変えられていますが、基本昔のまま。
かつては海軍工廠の電気部がここを使用していたということです。
煉瓦の建物の並びには普通にコンビニがあるのが日本らしいですが、
このコンビニのウィンドウにこんなポスターが貼ってありました。
劇画「アルキメデスの大戦」
が映画化されるという話は実は昔に関係者から聞いていたのですが、
私がアメリカにいる間に公開も終わっていたので驚きました。
で、山本五十六が舘ひろしですって・・・(ざわざわ)
映画化されたら笑福亭鶴瓶そっくりの造船会社社長鶴辺清は
絶対本人が演じるだろうと思っていたら、やはりそうでした。
不思議な縁というのか、鶴瓶さんのお舅にあたる人は、
戦艦大和の菊花紋章の金箔を貼る仕事をしたらしいですね。
コンビニに車を止めさせてもらい、水のボトルなど買ってから、
写真を撮るために道を渡ってアレイからすこじまの桟橋前にきました。
アレイとは英語のAlley(細い道)の意味があり、「からすこじま」は
昔ここ呉浦にあった周囲3~40mの小さな島の名前だそうです。
烏小島は大正時代に魚雷発射訓練場として埋立てられて無くなりましたが
名前だけがこのように残されています。
この桟橋は「男たちの大和」の大和出航のシーンのロケが行われました。
映画のセットとして警衛ボックスが立っていましたね。
桟橋にはれレールの跡のようなくぼみが突堤の先まで続いています。
映画では、この先にあるポンツーンから大和乗員が船に乗り込んでいました。
潜水艦のむこうにみえるのは潜水艦救難艦「ちはや」です。
潜水艦救難艦はDSRVを内臓するためのウェルを内部に持つので
前から見ると艦橋の幅が広く、ほとんど船殻と同じなのが特徴です。
この日は土曜日なので、流石の潜水艦もお休みなのでしょうか。
岸壁には当直らしい士官と海曹がいますね。
4隻が係留されていますが、全部「しお」型です。
これも「しお」。
川重で建造されたことを表す丸いセイルのドアを開けていると、
ここが耳とか目とかにみえて可愛らしいです(萌)
「かが」のこちら側の艦番号229は護衛艦「あぶくま」です。
航行中の民間船は呉の貨物船、「山城丸」。
潜水艦の向こうに見えている2隻は掃海艇だと思いますが、
だとすれば「あいしま」「みやじま」でしょうか。
ところでわたしはその奥の艦影と番号をみて驚きました。
二日前、横須賀で遠洋航海からの帰国をお迎えしたばかりの「かしま」です。
帰国行事をおこなった次の日1日で横須賀から母港に戻っていたのね。
二日前に見たばかりなのにこんなすぐに再会できるとは。
ここからは見えませんが、同じ練習艦隊の「いなづま」も一緒に帰ってきて
呉港のどこかに錨をおろしているのでしょう。
アレイからすこじまで艦ウォッチを堪能していたら、ちょうど良い時間となり、
自衛隊記念日式典会場である呉教育隊に移動しました。
この建物は旧海軍時代からのもので、おそらくは倉庫だったのだと思いますが、
今でも使っているのかどうかはわかりませんでした。
ここに来るたびについ写真を撮ってしまう旧兵舎跡。
呉鎮守府開庁と同時に創設された呉海兵団の兵舎として建てられ、
戦後の進駐軍による接収を経て、変換された後は自衛隊が使用し、
東京オリンピックの年には水泳チームの強化合宿宿舎になったりしました。
その後は呉地方隊史料館として一般にも公開されていましたが、
平成16年の台風18号に被災し、建物は破損してしまいます。
明治38年の芸予地震でも昭和20年の呉大空襲でも被災したものの、
持ち堪えていた建物が、老朽化もあってついに保存不可能になってしまいました。
しばらく被災した建物はそのまま放置されていたようですが、
平成20年になって海上自衛隊の機動施設隊の手で解体撤去されました。
その際、入り口の部分だけを建築当時と同じ場所に残すことが決まり、
往時をしのぶよすがとしてその姿を留めています。
受付では懇親会の会費三千円を支払い、入場します。
昔は無料でしたが、確か今年の4月1日付けで飲食を伴う会は料金徴収になりました。
これについては様々な意見があると思いますが、かねがね
自衛隊のお振舞いによる飲食については、豪華であればあるほど、
税金でここまでしていいのかな〜?と心配だったわたしとしては賛成です。
壇上には政治家などが座り、前方に自衛官という式典会場の配置です。
来賓より自衛官を前に、追悼行事で献花の順番を先に、という
「自衛官ファースト」の傾向は少なくともわたしが呉地方隊で定点観測する限り、
ここ最近顕著になってきていますが、自衛隊内で行う行事において
主体はあくまでも自衛官となるわけで、来賓はそれを見てもらうために招待する、
という本来の趣旨を考えると、これも正しいと思います。
式典が始まりましたが、いかんせんわたしのところからは
自衛官の頭越しにこのような光景が垣間見えるだけでした。
杉本呉地方総監は、挨拶冒頭、台風19号の犠牲者に対し哀悼を捧げられました。
大きな災害があると、式典やそれに続く祝賀会は全て謹慎ムードになり、
乾杯も自粛、おめでとうも禁句となってしまうのが昨今の風潮ですね。
もちろん災害発災と同時に大量の人員を現地に派遣し、今もまだ被災地で
活動を続けているという自衛隊側のこういう配慮はもっともですが、
一方、日本のようにしょっちゅう災害の起こっている国では
いちいち自粛していたらきりがないんじゃないか、と思ったりもしました。
それはともかく、杉本総監は、我が国を取り巻く安全保障状況について
「差し迫った脅威」「力を用いた一方的な現状変更」という言葉を用い、
ますます海上自衛隊の日頃の備えと即応力が問われていることを強調しました。
また、杉本総監によると、令和元年の今年は呉鎮守府が開庁して130年目。
海上自衛隊呉地方総監部は、そのちょうど半分の長さにあたる
65年前に誕生したという節目の年なのだそうです。
ちょうど半分といっても、実は終戦から10年間は進駐軍が駐留していたので、
内訳は
海軍=55年、進駐軍=10年、自衛隊=65年
となります。
自衛隊はいつの間にか旧海軍の歴史を超えたんですね。
自衛隊記念日の恒例行事として、自衛隊に貢献のあった一般人に
感謝状が贈られる表彰式が行われます。
今年は「呉海自カレー」事業が、自衛隊の広報に多大な貢献があった、
ということで表彰されていました。
この追悼式の前日も呉ではカレーフェスタが行われいてたようです。
そして最後に呉音楽隊が演奏を行いました。
一曲目の「海をゆく」は歌なしの演奏でしたが、
♫ おお 堂々の海上自衛隊(じえいたい)
の部分では、周りから一緒に歌う小さな声が聴こえてきました。
式典が終了すると、隣の体育館に移動し、通常は祝賀会になりますが、
今年は「懇親会」として、乾杯も献杯もないまま開式となりました。
が、自衛隊側の配慮にもかかわらず(笑)壇上で挨拶をした来賓も、
紹介された来賓も、普通に「おめでとうございます!」と叫んでいました。
いつも料理が豪華なことで定評のある呉地方隊の懇親会ですが、
舟盛り(鯛のお頭つき)は最前列のテーブルだけです。
それでも練習艦隊の関西寄港艦上レセプションとは違い、舟盛りはもちろん、
料理が空になるのを最後まで見ることはありませんでした。
元海上自衛隊出身者や支援者、関係者ばかりの会場のせいか、食べ物より
本来の目的である社交が中心という、日本のパーティでは稀な例となり、
わたしもこの日は元から顔見知りの方、思いがけず再会した方、
初めてご挨拶させていただいた方と話すうち、あっという間に時間が経ちました。
とはいえ、やっぱり外せないのが海軍カレーの味見ですよね。
この日会場で振る舞われたのはとてもまろやかな味のビーフカレーでした。
配膳してくれていた自衛官は、わたしがカメラを向けると
おたまを持つ手をピタリと止めてポーズ?してくれました。
この日会場には特別に借りてきたという呉の歴史写真パネルが展示されていました。
昔の写真と海軍の歴史には目のないわたし、狂喜です。
まず130年前の開庁時の軍港全図と呉鎮守府オープニングスタッフ。
現在の呉地方総監部のあるところにはかつて亀山神社がありましたが、
鎮守府建設のため遷座したという歴史があります。
左下が開庁当時の鎮守府庁舎です。
今の中通を知っていると、海軍のあった昔の呉の方が
よっぽど街として賑わっていたのではないかと思われます。
人が車に乗らず全員歩いているのでそうみえるだけかもしれませんが。
現在の庁舎が完成したのは1907年(明治40年)のことです。
当時の庁舎には地下があったという話ですが、今はどうなってるのかな。
呉在住の人にはこの写真が今のどこかわかるのでしょう。
海軍だけでなく、東洋でもトップクラスの規模を誇る
海軍工廠があったのですから、街も繁栄していたと思われます。
今も残る「大和の大屋根」建造中の貴重な写真(右上)。
繁華街では水兵さんが肩で風を切るように歩いていました。
街中に海軍旗がはためく「海軍の街」の様子が偲ばれます。
終戦間際の数次にわたる大空襲で呉は壊滅的な被害を受けました。
長らく閉鎖されていましたが、池呉地方総監時代に整備され、
一般に公開された呉鎮守府の地下壕は、英連邦占領時代、
電話交換所と通信連隊の司令部として使用されていました。
占領後に使用するため、連合軍は海軍の建物をほとんど破壊しませんでした。
左下の緑の部分は呉地方総監部のグラウンドと同じ場所でしょうか。
壇上で挨拶される杉本呉地方総監。
歴代地方総監や水交会元会長が紹介されました。
ここにいる紳士方のほとんどはかつての海上自衛隊の将官です。
左に見切れているのが今メディアでご活躍中、「伊藤提督」ご夫妻。
その右側も元呉地方総監です。
ところでわたしは杉本地方総監にご挨拶する機会に、兼ねてから気になっていた
「杉本総監の楽器歴」
について伺ってみました。
前回の呉地方総監部主宰観桜会で、自衛艦旗降納の際、
喇叭譜「君が代」を女性海曹と一緒に演奏して皆を驚かせた杉本海将ですが、
もし全くラッパの経験がなかったらあんな無謀なことを思いつくまい、
とわたしは当時から確信があったので、そこのところを確かめてみたのです。
結果はビンゴ。
やはり杉本海将、小学校4年から5年まで、吹奏楽部で
トランペットを吹いていたことがあると白状?されました。
「(あれに懲りずに)こっそり練習してまたチャレンジしてください!」
と心の底から力一杯激励させていただきましたが、さて、
地方総監の強権発動によって、杉本海将がラッパ手の仕事を奪う日は
果たして再びやってくるのでしょうか。
乞うご期待。
続く。