横須賀で練習艦隊の帰国をお迎えした翌日、わたしは4時起きして
朝一番の広島行きANAに乗り込み、そこからはえぐり込むように、
殉職自衛官の追悼式、呉地方総監部の自衛隊記念日式典、そして
江田島の第一術科学校でのオータムフェスタを全てこなすという、
自衛隊追っかけイベントを全てこなしました。
そのツァーの合間を縫って練習艦隊帰国行事の写真現像とブログの
二日分をなんとか仕上げることができましたが、そこで気力が尽きたため、
広島での行事については家に帰ってきてやっと着手できたしだいです。
コメントへのお返事も滞ってしまい、大変申し訳ありません。
ところで、ツァー移動中に知人の元自衛官が、前回のブログ最後の記述、
「練習艦隊解散後の赴任地までの交通費は自費かどうか?」
について元経理補給幹部であるその方の同僚に聞いてくださったのですが、
その返事は
「時代により種々解釈はあるものの、解散〜休暇先は私的なので支給なし、
休暇〜赴任地は支給されるというのが基本である」
ということだったそうです。
「じゃつまり普通に支給されていて、わたしがお話を伺った方の息子さんは、
たまたま横須賀勤務なので出なかったってことなんですかね?」
と聞くと、そうではないかとの答え。
ところがunknownさんにいただいたコメントは、こうでしたよね。
unknownさんもどなたか中の人に聞いてくださったようでしたが、
「遠洋航海が終わった時点で休暇で、明けに着任という扱い」
「だから任地まで自腹」
つまりこちらは遠洋航海〜任地の移動は「休暇に行って帰ってきただけ」という解釈。
でも、聞いたところによると解散地の横須賀から任地までは即日移動らしいですから、
つまりそこに休暇はまったく挟まれていないということになりませんか?
だいたいごく普通に考えても佐世保や北海道(函館にも基地がありますからね)まで
自腹ってのは、あまりにも関東圏勤務の人に比べ不公平すぎない?
いくら釣った魚に餌はやらない自衛隊でもこれはないのではないかという気がします。
ちなみにunknownさんはご自身のことについては
「昔は遠洋航海が終わった時点で発令で、旅費はもらえた気がします」
とおっしゃっていますが、この元自衛官氏は
「私自身ですが、確かにこの時期は給料と手当てが手付かずで残っている、
生涯でもっともリッチな時ですので、
赴任旅費がどうこうなんて気にもしてませんでしたねー(๑・̑◡・̑๑)」←文字化け済
つまりこちらは全く覚えていないというわけですわ。
これだけ情報が錯綜していて当事者の記憶が曖昧な事例も珍しいんですが、
この件を明確にする中の人のタレコミがぜひ欲しいところです。
さて、一連の自衛隊記念日行事が開始されるのは今年は10月25日。
わたしが20年前、三日三晩聖路加の出産室で過ごした末、(普通は1日)
外に出るのを嫌がる息子を七転八倒しながらなんとか世に送り出した日ですが、
そんなことはどうでもよろしい。
この日はかつて日本海軍が初めて組織的な特攻隊を出撃させた日で、
初の特攻隊長関大尉の故郷松山市でいわゆる五軍神の慰霊式が行われます。
5月の金比羅神社で行われた掃海隊殉職者追悼式に参加したとき、
慰霊式の執行役?をなさっている元海将とお近づきになったご縁で、
10月25日にはぜひ参列させていただきたいと思っていたのですが、
今年は自衛隊殉職者追悼式と重なったのでそちらは見送ることになりました。
今回は長丁場で江田島訪問の予定もあるので、荷物の置き場や交通の便等、
様々なことを勘案した結果、レンタカーを借りての呉入りです。
呉地方総監部の表門、つまり海側の方のゲートを通るとき、
「追悼式出席なのですが、レンタカーなのでナンバー告知してません」
というと、それだけであっさり入れてくれました。
横須賀はその点厳しくて、事前にナンバーを通知していない車両は
絶対に入れてくれません(そう招待状に書いてあった)。
今回わたしは、練習艦隊帰国行事のために届ける車のナンバーを、
アメリカにいるときにTOに聞かれ、寝起きだったためか、
忘れないように海軍記念日と同じに設定した527をなぜか528と口走ってしまい、
横須賀基地で名簿とナンバーの照合をしていた警衛の自衛官に
「(ナンバーが)一つ多いですね」
と笑われ、つい、
「人に書類を任せたもので・・・」
ととっさにTOのせいにして誤魔化しましたが、名簿の名前はかろうじて
間違っていなかったため、追い返されることにはなりませんでした。
まあ、横須賀と違って、呉にはそこまでピリピリするほどの脅威もない、
ということなんだと思います。
入場後は自衛官の指示に従ってグラウンドに駐車します。
停めたのは呉教育隊の訓練で使うカッターのデリックが並ぶ岸壁でした。
真っ先に気がついたのは、長らくここからの眺めにいやでも入り込んできた
ピンクの巨大船が完成したらしく、いなくなっていたことです。
残る1隻はまともな色の船に隠れて煙突しか見えません。
あれはワン・グラース、ワン・コルンバという14,000トンクラスのコンテナ船でしたが、
あんな大きなものでも半年くらいで完成してしまうと聞いて驚いたものです。
会場の慰霊碑前にはテントがしつらえてあり、その横にはすでに
参列するためにだけそこにいる自衛官たちが整列しています。
立ってじっとしているのも仕事とはいえすごいなあと思いながら
ぶらぶらと彼らの後ろを歩いてテント下に行こうとしたら、
「先に受付をお済ませください!」
と追いかけてきた自衛官に声をかけられました。
ちょうどわたしの座っている席の横の一団は、こんな早くから待機して
式の進行に沿って敬礼したり気をつけしたりしていましたが、
つまり2時間近く同じ場所で立ち続けていたことになります。
その間、普通の人のように決して体の芯がぐらぐらしたりせず、
さすがは日常鍛えているだけのことはあると内心感嘆しました。
来賓席には政治家、歴代呉地方総監、水交会や家族会のトップ、
防衛団体代表、そして基地モニターの代表などが前から順に座ります。
今年出席された歴代地方総監は、30代谷氏、31代山田氏、34代道家氏、
43代池氏といった方々でした。
いつもお顔を拝見する方が見えなかったりしましたが、それはこの日、
自衛隊記念日行事がいろんなところで行われていたためです。
ほとんどの元司令官は何箇所かを週末に転々とされたのではなかったでしょうか。
殉職自衛官追悼式の式次第はこのようになっています。
殉職隊員の霊名を記した礼名簿は、式の最初に呉地方総監が奉安し、
式の間慰霊碑の前に座していただいている状態で、最後に降納を行います。
呉地方総監は恒例の追悼文を捧げますが、その文中にある
「尊い任務を遂行して亡くなられた自衛官は、家庭にあっては
掛け替えのない夫であり、兄弟であり、そして御子息でした」
という一節を聞くと、いつも胸にこみ上げるものを感じます。
まるで隠し撮りしたみたいですが、そうではありません。
わたしは現地の写真を撮るためにカメラを一応持参していたものの、
式の最中の撮影は厳に慎み、席を立つ度に座席に置いていましたが、
献花で立ち上がり席に置いたときにシャッターが切れたらしく、
あとで見たらこんな写真が撮れていました。
席についてから、自衛官から耳栓を渡されました。
「弔銃発射のとき大きな音がしますので・・・」
おお、なんという心遣い。
しかし、まわりの元自衛官のお歴々は、
「こんなの要らないよね」
といってほとんどが使用されていませんでした。
わたしも何度か弔銃発射を経験しているので、根拠なく大丈夫な気がして
使わなかったのですが、最初の一発目、衝撃の凄さに思わず飛び上がりそうになり、
甘く見ていたことを思い知らされました。
弔銃発射は伝統に則って、まず「命ヲ捨テテ」が捧げ銃の状態で演奏され、
そのあと同じメロディがアップテンポで繰り返されるのと交互に
空砲が合計三度発射されます。
続いて「慰安する」という曲が始まると呉地方総監杉本海将が献花を行い、
全員が一人ずつ前に出て霊前に白菊をたむけていきます。
献花の順番は、地方総監に続き遺族の方々、政治家、歴代総監。
そのあとが例年と少し違っていて、部隊指揮官、幹部、海曹、海士代表と
自衛官が一般人より先になっていました。
そして呉音楽隊の追悼演奏では、一曲目の「海ゆかば」のあと、
トランペット奏者が「巡検ラッパ」を吹鳴しました。
アナポリスの見学記で、アメリカの巡検ラッパである
「タップス(TAPS)」の響きを聴くとき、候補生たちは誰しも
この国を思い、この国のために戦って斃れた命について思いを馳せる、
という卒業生の言葉を紹介したことがあります。
自衛官たちもまた、この三音で構成された静かなメロディを聴くとき
生きている自分と彼岸の人々を繋ぐ同じ防人としての思いを想起するのかもしれません。
巡検ラッパはラストトーンが途切れると同時に行進曲「軍艦」へと変わりました。
国旗が降下されてから、最後に遺族の代表の方が挨拶をされました。
代表に立たれたのは去年と同じ女性です。
「国を守るという尊い任務のためとはいえ、愛するものを失ったことは
筆舌に尽くし難い悲しみがございました」
「皆様のお力をいただき、悲しみを乗り越え、元気に生きていきます」
挨拶の中の言葉も、去年とおそらく寸分違わぬ同じものでありましたが、
却ってそれが何年経とうと身内の死が風化することなど決してないのだという
遺族の方々のやるせない思いを表している気がしました。
そして令和元年度の追悼式が終了しました。
遺族の方々は歴代地方総監、呉地方総監部幹部とともに記念写真を撮り、
その後は一緒に昼食を囲む会が催されたそうです。
わたしはホテルのチェックインまで時間があったので、
知人を呉駅まで送って行ってからクレイトンホテルで昼食を取りました。
クレイトンホテルは海自とのコラボメニューが充実しています。
その前日横須賀港でお出迎えした「かしま」カレーは豪華な牛タンカレー。
ヘリ搭載型護衛艦「かが」カレーはビーフカレーですが、なんと
それにカツが乗っているというこれでもかの力技カレー。
味の調整を「愚直たれ」で行うことになっています。
そうそう、その「愚直たれ」ですが、「かが」の味調整としても、
がんすバーガーのソースとしてもまだまだ現役です。
「愚直たれ」は、その生みの親である池太郎元呉地方総監によると、
なんと、今年になってから商標登録されていたのです。
これによると、出願されたのは池総監が在任中の2018年12月19日、
商標登録は今年の7月12日、権利者は呉地方総監部とあります。
海軍が商標登録を行うなど、世界ではどうだか知りませんが、少なくとも
我が国では鎮守府開庁以来の歴史でも初めてのことに違いありません。
というわけで、最初はがんすバーガーを食べようと思ったのですが、
この衝撃的な写真とコンセプトに激しく惹かれたわたしは、
海自とは関係ありそうでなさそうなクレイトンホテルオリジナルの
潜水艦カレーを頼んでしまいました。
運ばれてきたものを見て思わず絶句した(って一人でしたが)ほど、
そのビジュアルは潜水艦と海を忠実に再現していました。
潜水艦は黒い、黒いは潜水艦、潜水艦は沈む、沈むは潜水艦。
といわれるくらい黒いのが当たり前の潜水艦ですが、まさかイカ墨で
これを実際に表現してしまうとは。
そして、海は海でもこれは絶対にフィジーとか地中海とかだろー、
というくらい、エメラルドグリーンを通り越してマラカイト色の海。
この色の正体は最後までわからなかったのですが、食べてみると味は
いわゆるココナッツの効いたタイカレーです。
青い海には泳ぐちりめんじゃこまでいるという念の入れよう。
で、意外なことですが、この潜水艦カレー、マジでおいしかったです。
インスタ映えどころではないインパクトなので、もし皆様、
クレイトンホテルのCôte d'Azurで昼を食べることがあったら、
ぜひこのマラカイトカレー、試してみてください。
あ、おやつなら愚直たれ使用がんすバーガーをオススメですよ!←配慮
カフェ入り口には「華麗なる愚直たれ」ポスターを始め、各種海自シリーズ認定証などが。
呉という街が海自とともにあるということを改めて実感させていただきました。
続く。