さて、「とうりゅう」命名・進水式のご報告も終わりましたので
江田島のオータムフェスタの続きと参ります。
観覧席に座っていた招待客は、術科学校学生館へと案内されました。
中でなにかあるというのではなく、懇親会会場が行われる食堂には
この中を通り抜けるのが近道なのです。
わたしもこの中に入るのは初めての経験です。
この学生館は、平成17年にそれまでの旧西生徒館と呼ばれていたものを
全面的に建て替えたものですが、やはり旧兵学校の関係者から
自分たちの思い出の西生徒館を壊して作り変えることに対しては
かなりの反発があったと言われています。
それらの意見と、歴史的な価値などを勘案した結果、建て替えられたものは
一見以前の建物と変わらないそっくりなものとなりました。
生徒館の廊下には、術科学校開校時の歴史的な写真が展示されていて、
かつての術科学校の様子をしのぶことができますが、この、
昭和31年5月16日に行われた術科学校開校式の写真には、
昭和13年に竣工した西生徒館が写っています。
現在の写真と細部を是非見比べてみてください。
窓枠は木製、建物の屋上はかつて洗濯物干場があったそうですが、
そこから人がひとり式典の様子を眺めているのが確認できます。
術科学校は昭和31年江田島に移転してくるまで横須賀にあり、
正式に「第一術科学校」と言う名称になったのは1958年(昭和33年)
のことなので、この写真のキャプションは「第一」のない
「術科学校開校式」
となっているのに注意です。
訓示を行っているのは第二代海上幕僚長・長澤浩海将。
海軍兵学校49期卒の長澤海将にとって、術科学校が自分の赴任中に
古巣である江田島に帰ってくることは望外の喜びだったのではないでしょうか。
ついでに、後ろに写っているアメリカ海軍の軍人ですが、
おそらく当時第7艦隊司令であった、
スチュアート・H・インガーソル中将(1898〜1983)
ではないかと思われます。
インガーソル中将はここでも散々お話ししたことがある、
ハルゼー&マケインコンビが指揮して無謀にも台風に二度も突っ込んだ
あのハルゼー艦隊の軽空母「モントレー」の艦長だった人物です。
このときインガーソル中将は、台風で大破した「モントレー」艦長として
総員退艦の指揮官命令に背いた上で必死の修復作業を指示し、
結果、艦と貴重な人命を救うという英雄的行為を成し遂げ、
その功績に対して十字勲章を授与されています。
同じ日の術科学校にて、国旗掲揚の様子。
台上はおそらく術科学校校長だと思われます。
このときの術科学校長、小國寛之輔海将補は海軍機関学校卒でした。
術科学校なので適任として任命されたのだとおもいますが、
機関卒士官が校長になるなど、兵学校時代には考えられなかったことです。
同じ日の祝宴では、なんとびっくり、大講堂で飲食をしています。
当時はこれだけの人数が一挙に集まることができる場所が
ここしかなかったということなのかもしれません。
席についている招待客はここに写っている限りでは全員男性。
立食ではなくテーブルに配膳される形式の食事のようですが、
ところどころにいるスカートを履いた女性はウェイトレスでしょうか。
それから、皆が座っている長椅子は、海軍兵学校の食堂で
学生たちが食事をしていたのと同じものだと思われます。
昔の大講堂の照明はいまのようなものではなく、
吊り下げ式のボールランプであったこともわかりますね。
この日は江田島の商店街を音楽隊を先頭に行進したようです。
長らく占領軍が駐留していた江田島ですが、これをみて
現地の人々は、
「兵学校が帰ってきた」
と歓迎したのでしょうか。
当時は道路がまだ舗装されていなかったらしいのもわかります。
この写真に写っているのはここかなと思ったのですがどうでしょう。
さて、誘導されるままに第一術科学校の中を歩いていきます。
先ほど喇叭行進をしていた航海科の女子隊員たちが
二列に隊列を組んで引き揚げていく後ろ姿です。
この右側は四方を囲まれた中庭テラスになっていて、
どこかでみたことがあると思ったら、防衛大学校でした。
防大ではここで棒倒しの最後の練習をしていましたっけ。
会場はいつもの食堂です。
前回は観桜会のときにここで宴会が行われました。
ここでも自衛隊記念行事に伴う懇親会となっています。
そしてこの横断幕なんですけど、どうみても毛筆の手書きに見えます。
観桜会の時にも
「得意分野は洋菓子です」
という女性の給養員が平成最後の桜をモチーフにした
四角いケーキをひろうしてくれたのですが、今回は
なぜかダンボをプリントしたケーキとブルーのケーキ。
なぜダンボか、なぜブルーかについての説明は特になく、
最後までどう言う意味が込められていたのかわかりませんでした。
もしアナウンスされていたのにわたしが聞いていないだけなら
どうもすみません<(_ _)>
まず第一術科学校長丸澤海将補がご挨拶。
「先ほどの観閲行進をみながら、三十?年前を思い出しておりました。
その時指揮隊長だったのが渡邊剛次郎という男でした」
おお、丸澤海将補は横須賀地方総監と同期でいらっしゃいましたか。
続いて恒例の給養員紹介コーナー。
宴会の料理にも基地柄がでるといいますか、江田島は
呉とは全く違う路線で、海に囲まれた地ならではの刺身舟盛りは基本として、
焼きそばとかコロッケパン?みたいな庶民的なお料理も顔を見せます。
ちなみに、舟盛りのこちらにあるお盆の上の白いものは、
大根のツマというのか、網大根といわれる飾り切りしたもので、
それがなぜかラップがかかったままごろんと置いてあるので、
まわりの人たちが
「これ、なんなんですかねー」
「大根ですか」
(大根なのかどうかもわからない形状だった)
「なんでこんなところにあるんでしょう」
「きっと刺身の乾きどめにするつもりがかけ忘れたんでは?」
などと話題にし、すっかり会話のきっかけと成り果てていました。
刺身のツマなので刺身と一緒に食するためのものであるはずですが、
どうもこの網大根、一切れが大きくて、誰も食べるものと思わず、
最後までラップのかかったまま放置されておりました。
お話ししていた自衛官が屋台からカレーをとってきてくれました。
第一術科学校カレーは、大豆とジャコが入っているのが特色です。
味というより主に食感に歯応えを与えるために混入しているようですが、
これがまたいけるんだ。
会場入り口に展示してあったケーキもいつの間にか切り分けられ、
これも持ってきていただいたのでいただいてみました。
ホームメイド風で(ってホームメイドなんですけど)おいしかったです。
会の締めの挨拶をされたのは幹部候補生学校長大判海将補。
前第一術科学校長だった中畑海将とは防大の同期だそうです。
この間政治家の挨拶が行われたのですが、その中に
河合克之法務大臣の妻、河合案里氏がおられました。
河合氏が出席できなかったので代理で挨拶をしたようですが、
皆さんもごぞんじのように、その直後、河合氏は他ならぬこの
案里氏の公職選挙法違反に責任を取る形で法相を辞任しています。
「政権への打撃か?」
などとマスコミと野党が任命責任ガーで大騒ぎしていますが、
その理由はというと、ウグイス嬢に二倍の日当を払っていたというもの。
規則を破ったからといわれればそれまでですが、現実問題として
今時既定の何千円かで1日いいウグイス嬢が雇えるんでしょうか。
現政権が安倍一強で崩す手立てがないので、牙城を案里ならぬアリの一穴から
(だれうま)法務大臣を辞任させ、その調子でとにかく閣僚を三人刺して
「政権に打撃を与えたい」といういずこからの悪意のある意図を感じさせませんか。
まあ、その辺りの政治的な裏読みはともかく、少なくともこの日、
壇上で挨拶をしていた案里氏の様子からは、自分が原因で
夫が危機に陥っていることにたいする動揺のようなものは微塵も感じられず、
つまり公職選挙法の話が出たのはこの後だったのだろうと思われます。
ちなみに週刊文春がこの問題を報じたのは10月30日、
河井克行氏が法相を辞任したのが10月31日、オータムフェスタは11月27日でした。
さて、懇親会も終わり、6時半から始まる花火大会までには
まだ間があるということで、わたしはまた外を散策してみました。
懇親会の出席者の一人から、江田島は海からの風が吹くので
昼間は暑くても花火大会の時は寒いかもしれない、と伺い、
車の中に置いてあったコートを取りに行こうと思いつき歩き出すと、
国旗掲揚台の下に自衛官が整列していました。
国旗降下の日没時間が近づいていたのです。
最前列には先ほど喇叭行進を行ったのかもしれない
航海科の海士君たちが喇叭譜「君が代」を吹鳴するために控えます。
しかし、今更ですがやはり若い人たちのセーラー服姿はいいものですね。
幹部・海曹の制服は時代とともに変化していっていますが、
海士のセーラー服だけはそれこそ海軍時代からほとんど変化しておらず、
それなのにいつ見ても時代から取り残された古臭い印象が全くありません。
服飾のデザインとしても完璧ということなんだと思います。
掲揚台の下には当直の海曹が国旗を降ろすために索を持って控えています。
この日、令和元年11月27日の日没時刻は1723。
それまでの、待っている我々にはとてつもなく長く感じられる何分間か、
彼らは微動だにせず発動の時刻を待っています。
続く。