さて、第一次世界大戦に参戦した日本がマリアナ諸島に派遣した「香取」。
わたしが偶然手にした写真集は、戦争が終結し、帰還した「香取」乗員
総員に記念として配られたものであったと思われます。
名簿の最初には、大正3年11月30日現在のものであるとあり、
これは「香取」が日本に帰国する5日前のステイタス、つまり
まさに征戦に参加したメンバーの名前が刻まれているとしています。
配られた何百冊もの「征戦記念写真集」のうち、失われることなく
令和の世になって奇しくもわたしの手元にやってきたこの一冊は、
間違いなく第一次世界大戦に参加した「誰か」が所有していたものです。
そして、わたしはその持ち主の手掛かりがうっすらとわかる書き込みを
辛うじて二箇所、見つけることができました。
まず、士官の名簿、楠岡準一中尉の名前の上に、
「分隊士」
と鉛筆で書かれています。
海軍の艦船は、何名かごとの分隊に分けられ、士官が
分隊士という名称の指揮官として割り振られていました。
楠岡中尉はガンルーム士官の最先任なので、おそらく、
彼の担当は第一分隊であったと想像されます。
つまりこの写真集の持ち主はこの中にいるということになりますね。
それにしても、海軍軍人に限らず、昔の人は写真を撮るとき
なぜか全くレンズと明後日の方を見る人が多いですね。
この写真でもなぜか前列の下士官が皆それをやっています。
こういう写真で笑うのはご法度だったらしく、誰一人として
楽しそうにしている人はいませんが、よくよく見ると、左下に
背中の後ろから手を回して、水兵さんを抱きかかえている
下士官がいたりします。(どちらも真顔)
第8分隊の人数を数えてみると、きっちり50名でした。
それにしてもこの分隊、誰一人としてレンズの方向を見ていないんですが、
特に二列目の下士官グループは、示し合わせたように海の方を向いています。
男がレンズを見てましてやにっこり笑う、なんてかっこ悪い、
という感覚の時代だったのかもしれません。
この第11分隊は38名、特に下士官グループの顔の角度が徹底してます(笑)
たまに海を見ていない人が(前列真ん中、二列目右から三人目)いますが、
その二人はなぜか全く逆の方向を見ていたりして・・・。
どういう意味があったんでしょうか。
それはともかく、分隊は全部で11あります。
士官次室士官、ガンルーム士官、つまり中尉と少尉は11人。
彼らが11個分隊の分隊士となったということでもあります。
そして、あの東郷平八郎元帥の息子、東郷實少尉が
分隊士を務めたのは、この第11分隊だったはずです。
写真集の最初にある乗員名簿は、これが即ち階級順となっています。
艦長から東郷少尉までの士官に続いては
「機関長」
として、機関中佐大須賀久以下機関将校7名。
「軍医長」
として軍医中監、中軍医、少軍医。
軍医の場合は、一般で言われているように「軍医中佐」ではなく
軍医中監、軍医中尉、軍医少尉ではなく中軍医、少軍医といいます。
そして
「主計長」
として海軍主計中監、軍医と同じように中主計、少主計。
それらが全部紹介されてから、初めて下士官となります。
い
下士官の最高位、准士官として写真に写っているのは15名。
この中で勲章の数が多いのが兵科、機関科の兵曹長で、
全部で五名いました。
あとは上等兵曹、そして機関兵曹です。
持ち主が、兵学校出の士官より特務士官を深く尊敬していたのでは、
と思われる書き込みが准士官室の写真にありました。
特務士官各位(兵曹長)
熟練技術者
とわざわざ言わずもがなの解説をしているのを見て、
なんとなくそんな気がしただけですが・・・。
准士官、特務士官は、いずれも下士官兵から昇進した、
いわゆる「叩き上げ」の士官です。
叩き上げという言葉が泥臭すぎるというなら、現場で経験を積んだ
専門性を持ったベテランとでも言いましょうか。
軍艦の運用には高度な専門知識が各部に求められます。
装備品、機関、兵器のどの扱いも、「熟練技術者」が実質的な
運用の要(かなめ)となって初めて全てが上手く回るわけですが、
残念ながら帝国海軍は兵学校偏重が行き過ぎて、特務士官を
「スペシャル」からきた「スペ公」などという蔑称で呼び、
下に見る傾向があったのは恥ずべき因習だったと言えましょう。
その点アメリカ海軍は、CPOを完璧に士官とは別の、
専門技術集団として扱い、それなりの待遇と地位を与えていたので、
逆にCPOの方が実権を握ってブイブイ言わせていたようですね。
「ミッドウェイ」にもCPOのアイランドがちゃんとあって、そこは
彼らが逆に士官を揶揄して言うところの
「シルバーのフォークとナイフとナプキンでマナーのお稽古」
をするような仰々しさはないものの、彼らのプライドを満たすに十分な
立派な設備が用意されていましたし、そこにあった「クレド」?には、
ということまで書かれていたものです。
「ミッドウェイ」のシステムは戦後のものですが、戦前もまた同じく、
戦艦「マサチューセッツ」には、CPOだけが使用できる特別食堂があり、
そこではちゃんと給仕がついてシルバーとナプキンで食事ができました。
やはり彼らの軍艦における待遇は大変良かったということを表します。
我が日本海軍のCPO、兵曹長、先任伍長は、その専門性の高さでいうと、
少尉や中尉が赤子とすれば大人というくらいの実力差でしたが、
袖に桜が三つつくこの軍服を着ているだけで軍隊では下級となります。
名簿の順番はこのあと、
一等兵曹 二等兵曹 三等兵曹
一等機関兵曹 二等機関兵曹 三頭機関兵曹
一等看護手 三等看護手
一等筆記 二等筆記 三等筆記
一等厨宰 二等厨宰 三等厨宰
一等水兵 二等水兵 三等水兵 四等水兵
二等木工 三等木工
一等機関兵 二等機関兵 三等機関兵 四等機関兵
一等看護 二等看護
一等主計 二等主計 三等主計 四等主計
従僕 給仕 剃夫 割烹
一番下は民間人だと思われます。
理髪師のことを剃夫と言ったんですね。
ところで、阿部豊監督の映画「戦艦大和」で、出撃に際し、
「大和」を降ろされた年配の下士官に、若い士官が
「親父のような年齢のお前に命令することになってしまったが、
これも軍隊だ。許せ」
声をかけられた下士官は涙を堪えながら敬礼し、
「武運長久をお祈りいたします」
と答えるシーンがあります。
わたしが選ぶ戦争映画の名セリフのうちの一つですが、
これほど、士官と下士官における階級と実力経験のねじれという矛盾のなかに
生まれた互いへの尊敬と愛情を表す切ない会話はまたとないのではないでしょうか。
しかし、実際においてはそのような美しい関係は理想論に過ぎず、
士官が父親のような年齢の下士官を「スペ公」と呼ぶような
蔑視とそれに対する反感などが日常的に渦巻いていたのかもしれません。
この写真集の持ち主が、わざわざ特務士官の集合写真にこのように書き込んだのは、
やはり彼にもそういう海軍のあり方に対する反発があったからかもしれない、
と考えても、あながち間違いではないという気がします。
続く。