パイロットハウス(操舵室)とCICのある02レベルを見学し、
さらに最上階に上がった駆逐艦「スレーター」の見学ツァーは、
もう一度スーパーストラクチャーデッキ(上部構造物デッキ)を
歩くことになりました。
下に降りるのは梯子式のラッタルです。
ここにはベントの他、ボートダビッド、中央にスタック(煙突)があり、
両舷には機関銃の銃座が物々しく並んでいます。
中央に見えるのは3インチローディング(装填)マシーンだそうです。
「スレーター」にはもともと、この装填機の後方に
三連装の魚雷発射マウントがあったといわれています。
しかし、第二次世界大戦後期ごろには、水上艦よりも
駆逐艦にとって差し迫った脅威は航空機の攻撃ということになっており、
魚雷発射管は、慣熟航行(シェイクダウン・クルーズ)の直後に
4基の40ミリ対空砲に換装されました。
これは、煙突の後方にある20ミリ連装砲の左舷側マウントです。
真珠湾攻撃前までは、対空防衛に利用できる唯一の重機関銃は
ブローニングM2重機関銃でしたが、射程と火力が不足していました。
これに代わるには火力は高く、しかし手で扱うには十分に軽い銃が必要でした。
このために選択されたのがスイス・エリコン社の20mm砲です。
この砲は当時すでにイギリスで使用されており、戦前の段階で
米海軍での採用が検討されていたものです。
最終的に、1940年11月、米国内での生産が承認されました。
銃座の足元を覗き込んでみると、コードのようなものがぐるぐる巻きになっています。
これがもともとのものなのか、電源コードなのか(違うと思う)
材質を確かめる術がないのでわかりませんでした。
20ミリ砲はブローニングの代用品として熱狂的に迎えられました。
しかし、最初の数ヶ月はすぐに置き換えるための生産が間に合わず、
ほとんどの対空戦は古いブローニングに依存せざるを得ませんでした。
各マウントには、4名の乗員が配置されていました。
「砲手」「サイト(レンジ)」「セッター」「バレルに一人の装填」
です。
この銃はもともとスイスでエリコン社によって設計されたため、
メートル法で設定されており、アメリカ人のため仕様変更しました。
ちなみにこれが20ミリエリコン銃の図ですが、
ブリーチの上に二つのドラムマガジンが装着されているのを見てください。
マウントの後ろにあるロッカーにドラムが収納されています。
内部には60発弾薬が装填されている丸いドラム缶です。
この20ミリは「スレーター」に搭載された最も小さな対空砲です。
このケースに収納されているのは20ミリの「バレル」ですが、
20ミリ砲は1バレルあたり毎分450発射できました。
長時間発射(約240発)したあとは、素手でさわれないほど熱くなるので、
アスベストの手袋を着用した装填手がバレルを交換しました。
熱くなったバレルは、銃座の横に溶接された冷却タンクに入れ、
予備のバレルと交換されます。
導入当初、これらは単装で装備され、リング状の照準器で
狙いをつけて撃っていたのですが、1942年以降、
精度が高まり、1945年には連装でのマウントが標準になります。
煙突より後尾をみると、そこには人員輸送用の「鳥籠」がありました。
艦と艦の間で人を送るときにはこれに乗るんですよ。
一応シートベルトはついてますが、座席はツルツルしてそうだし、
海が荒れているときにロープ一本で運ばれるのは怖いと思います。
しかし、20mmのキャリアはかなり短いものでした。
1942〜44年半ばまで並外れた成功を収めたわけですが、
その衰退の原因は、彼らが「カミカゼ」と呼ぶところの特攻隊です。
体当たり攻撃の前には、20mmはもはやさして有効ではなくなり、
実際にそれを体験した誰もがそのことを感じていました。
しかし、20mmがなくなってしまうことはありませんでした。
理由は偏に的を迎撃しているという乗員の心理的安心感に尽きます。
かつての「スレーター」艦上で空を見つめる20ミリ砲撃手。
1944年の写真です。
というわけで連装と4連装銃がいくつかの艦に取り付けられました。
1945年のV-Jデイ(対日戦勝利)の段階で、「スレーター」は
これらの連装砲マウントを9基(パイロットハウスの前方に3基、
この01デッキレベルに4基、艦尾に2基)備えた状態でした。
しかし最初の頃は、パイロットハウスの前方と01デッキに4基ずつ
単装砲があっただけで、これらは、特攻隊に対して無力でした。
これは、相手を認め発砲したときには、体当たりするつもりの特攻機は
すでに接近しデッキに激突する体勢であったため、
たとえ銃弾がヒットしたとしても何らの防御にもならなかったのです。
「スレーター」上部構造物デッキには、20ミリのほかに
40ミリ連装砲のマウントが左右に1基づつ2基備えてあります。
1944年に引き渡しされたとき、「スレーター」はこの01レベルの
上部構造物階後部にMk51ディレクターとともに40ミリ砲を
1基だけを搭載していました。
最初は煙突のすぐ後ろに魚雷発射管が置かれていました。
1944年6月、慣熟航行(シェイクダウンクルーズ)の直後、
魚雷発射管は取り外され、同じ場所に40ミリ砲のマウントを
4基設置して、対空戦に備えることになりました。
これは1945年に太平洋に進出するに先駆けて
行った訓練で標的艦を務める「スレーター」艦上です。
ここには換装された40ミリ砲マウントが写っています。
コンピュータサイト持つMK51銃統制装置を備えた
2つのツインマウントに置き換えられているのが確認できます。
アメリカ海軍の優れた点は、絶えず問題点を洗い出し、アップデートを常に繰り返し、
変化する脅威に対応するためには労を惜しまなかったというところでしょう。
裏側から見た40ミリのマウント。
ラックがあって、そこに40ミリ銃弾が設置されているのがお分かりでしょうか。
弾薬は、鋼鉄の防壁である「ガンタブ」に溶接されたラックに保持されていました。
弾薬が使い果たされると、それらは下階から補充されます。
ただし、40ミリは多くの特攻機がが標的にダイビングしてくるとき、
それを衝突するのを止めるほどの破壊力があったかというとそれは疑問です。
オリジナルの40ミリ単装砲はスェーデンのボフォース社製です。
おそらく第二次世界大戦中の軍艦が採用した武器としては、
最も効率的で有効な近接防空兵器として評価されるものでしょう。
最初にこれを採用したのはアメリカ陸軍で、1937年に
バレル式の空冷バージョンを検討しました。
1940年、アメリカの三大自動車メーカーの一つである
クライスラーコーポレーションが、アメリカで使用するために
これらの銃の製造を請け負いました。
ツインバレル使用のサンプルはフィンランドを経由して
スェーデンから到着し、イギリス軍とオランダ軍の仕様を踏襲したものを
ヨークロック&セーフ社が海軍ように製造することになりましたが、
どういうわけか1941年6月になるまで、肝心の
スェーデンからの正式なライセンスをうけていうけていませんでした。
その問題は(おそらく)解決され、1942年に、最初の連装ボフォースが
生産を開始し、4月には4連装バージョンも登場しました。
ボフォース銃は瞬く間にアメリカ海軍の艦隊全体に普及し始めましたが、
1944年の中頃までは需要が満たされた状態ではありませんでした。
「スレーター」も、45年5月までそれを待っていたということになります。
砲弾を手にして説明する解説員。
連装40ミリのそれぞれは、1バレルあたり毎分160発、有効射程約4000ヤードです。
マウントでは7名の乗員(指揮官、照準、トレーナー、第1装填二人×2)
構成されていました。
第二次世界大戦最後の9ヶ月の神風特攻との攻防まで、
40ミリ砲は全ての近接防空先頭に有効であることが証明されました。
装填から射撃までの過程を説明してくれています。
さて、40ミリが特攻に対してそれほど有効ではなかったと書きましたが、
それでは何が効果的であったかというとそれは、VT(近接信管)です。
これは、砲弾が目標物に命中しなくとも一定の近傍範囲内に達すれば
起爆させられる信管のことで、近くで砲弾を炸裂させることで
目標物にダメージを与えることができるというものでした。
これで特攻機への命中率を飛躍的に向上させることができました。
最大の長所は目標に直撃しなくてもその近くで爆発することにより、
砲弾を炸裂させ目標物に対しダメージを与えることができる点にあります。
現在の正式な呼称は "Proximity fuze"といいます。
「VT信管」(Variable-Time fuze) というのはアメリカ軍の情報秘匿通称からきた
名称ですが、
「兵器局VセクションのT計画で開発された信管」
ということからではないかという説もあります。
また「マジック・ヒューズ」という呼称することもあったようです。
40ミリは近接ヒューズの電子回路を処理するには小さすぎたため、
76ミリ銃は破壊的な発射体を処理できる最小の武器でした。
それにもかかわらず、ボフォース40ミリは、日本が降伏する瞬間まで
小型船舶の主要な近接対空兵器として主役だったのです。
この上部構造物階には、もう一つの武器が艦尾に向かって設置されています。
主砲となる50ミリ砲で、使用される弾薬の最大水平範囲は約12,000ヤードで、
最大天井範囲は約21,000フィートです。
「スレーター」の砲の照準器は銃の左側にあります。
ここにあるものは戦後の修正を受けており、上部構造物階上部にある統制機の制御下で
自動的に移動できるようになっています。
ここにある銃のほとんどは展示の際にどこからか調達してきて
取り付けられたものばかりです。
ですから由来はわからないのですが、どの艦船に搭載されていても
その銃が1945年の終戦までの間、そのターゲットにしていたのが
実はほかでもない日本の特攻機であり、彼らにとってその脅威は
艦体の武器システムを変えなくてはいけないものでもあったということを
いまさならがらアメリカ人の中に混じってかんがえてしまったわたしでした。
艦尾にたって艦首側を望む。
さて、この後ツァーはもう一度メインデッキに降りていくことになりました。
続く。