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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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カーネギーサイエンスセンターのUSS「レクィン」〜ピッツバーグ滞在

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ピッツバーグに着いて何日目かにローカルニュース&情報番組を
見るともなく見ていると、女性のレポーターがライブで

「カーネギーサイエンスセンターで展示されている潜水艦」

を紹介していました。

「これは行かねば・・・・・!」

わたしは色めき立ったのですが、わたしが色めきたてばたつほど
反比例して行く気がなくなるらしいMKは

「え〜〜〜〜⤵️」

とやる気のない返事をするのです。
しかしこの滞在でどこに行くにも運転するのはこのわたし。
わたしこそが主導権を握っているので、なんなら
彼をホテルに放ったらかしででも見に行ったる!と
わたしは虎視淡々そのチャンスをうかがいました。

そして、滞在もあと1日となった最後の日曜日、

「今日いきたいところある?」

「別にないかな」

「じゃサイエンスセンター行こう。
『マミー』(ミイラ)ってのもやってるみたいだし、
潜水艦とマミー見たらさっさと出てくればいい」

有無を言わさず車をカーネギーサイエンスセンターに向けました。

写真に写っている人が半袖を着ていますが、この日のピッツバーグは
何が起こったのか気味が悪いほど暖かい日で、気温は20度近く。

この少し前には夜外を歩いただけで耳が千切れそうに寒かったのに
なんとも不思議な感じです。

気温が高くなると、とたんにアメリカ人は半袖半ズボンで外に繰り出します。

一般にアメリカの家屋というのは寒冷地ほど内部は暖かく、
外で雪が降っていても家の中ではTシャツで過ごす人が多いのですが、
外が少しでも暖かくなると、部屋着のままで外にでてきてしまうのです。

なんでも日本人とは寒さを感じる皮膚感覚が違うらしいんですが
Tシャツが彼らの民族衣装となってしまったのもそのせいかと(笑)

 

カーネギーサイエンスセンターはいくつかあるカーネギー博物館の一つで、
1991年に設立されました。
子供向けの展示が多いですが、もちろん大人も楽しめます。

この日は日曜だったので駐車場は混雑気味でしたが、それでも
すぐに止めることができました。
駐車場は館内で一律料金(8ドルくらい)を払います。

 

吹き抜けの大きなラウンジに面したガラス窓の向こうに
わたしの目的である潜水艦が見えました。

「わーい、見に行こう!」

階段を降りようとしたら、そこに悲しいお知らせがありました。

「潜水艦は本日公開しておりません」

日曜日だっていうのに?

「雨が降って川の水の流れが早くなって揺れるからとか?」

いずれにしても、いつもは公開している内部の見学は
雨天の場合は中止になるらしいことがわかりました。

しかし、近くに行くことくらいはできそうです。
階段を降りていくと、潜水艦関係の資料が展示されていました。

そういえばテレビの中継もここから行われていた気がします。

まず、潜水服ですが、古色蒼然としたこの仕様は、

Mark V

という1916年に開発されたスーツで、なんと
1964年まで使われたというロングランでした。

深海作業を行う時に用いられたもので、素材はゴム引きの綿キャンバス、
真鍮のヘルメット、手袋そしてウェイトブーツ(錘靴)など。

ダイバーはこの下に保温のためにウールのボディスーツを着用しました。
(それでも全くと言って良いほど保温にならなかったと思います)

また、錘としてウェイトのあるベルトも装着していました。

余談ですが、この防水スーツのキャンバス布を発明したのは
チャールズ・マッキントッシュというスコットランドの化学者です。

マッキントッシュというコートのブランド名はこの名前から取られました。

① シグナルガン(信号銃)

照明弾、発煙弾を発射する銃です。

ところで、ディープパープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」って
モントルー・ジャズフェスティバルで観光客の一人が信号銃で撃った照明弾が
カジノに引火して燃えているのを目撃してその光景を歌ったものですってね。

「どこかの馬鹿がフレアガンで地面に火をつけた」
「スモークオンザウォーター、ファイアーインザスカイ」

そういやこんな歌詞でしたわ。
ロック史上一番有名なイントロを持つこの曲の誕生にになったのだから、
「どこかの馬鹿」の犯罪行為にも功績という一面があったわけだ。

② USS「レクィン」のデッキ

当時の潜水艦のデッキに使われた木材は密で重く、
万が一戦闘で破壊された時にも浮いてこないくらいのものでした。

沈んだ潜水艦の位置がわかるようにするという意図で、
わざと浮きやすい素材を使うこともありました。

③ Mk3、Mod 0 六分儀(セクスタント)

目視で現在位置を知ることができる六分儀。
現在の艦船にはGPSが搭載されていますが、どんな船も
必ず停電したり衛星がダウンする可能性を踏まえて
この六分儀を搭載しており、使うことができるようになっています。

④ 非常灯

潜水艦のパワーがダウンした時にも使える非常灯。
大抵はフラッシュライトよりも明るく広範囲に照らすことができました。

⑤ クォーターマスター(操舵手)のスパイグラス(一番右)

潜水艦が海上を航行している時最もよく使われるのがこれ。
完全防水で滑りにくいグリップを持ち、皮とゴムでカバーされていました。

⑥ 潜水艦徽章 ペナント など

「レクィン」とはサメを意味しますが、それをあしらったパッチ、
その他いろいろは、かつての「レクィン」乗員からの寄付です。

⑦ 「レクィン」のワードルームにあった灰皿

艦長や士官の居住区を「ワードルーム」といいますが、そこにあった灰皿です。
70年間行方不明でしたが、最近元乗員が倉庫で見つけたのだとか。

っていうか自分で盗っておいて忘れてたんと違うんか〜い!

⑧ ライオネルコーポレーション テレグラフキー タイプJ36

汽車会社のライオネルが第二次世界大戦中の個人アイテムとして
開発したテレグラフキー。

 

海を模したブルーのガラスごしに展示された潜水艦模型。
まずこちらは

USS H-1(SS−28)

アメリカ海軍最初の潜水艦であり、シーウルフと名付けられました。

1911年に就役し、哨戒任務にあたっていましたが、1920年、
マグダレナ湾沖の浅瀬で座礁し、脱出した艦長始め
4名が岸に泳ぎ着くまでに死亡し、その後艦体は沈没しました。

つい最近の2019年、艦体がバハカリフォルニアの南で確認されています。

そしてこちらは、

USS「ピッツバーグ」(SSN−730)

アメリカ海軍のロサンゼルス級原子力潜水艦の33番艦。
艦名はもちろんここペンシルベニア州ピッツバーグにちなみます。
この名前を持つアメリカ海軍で4隻目の艦となりました。

1983年進水、1985年11月に就役。

2002年には地中海に展開するため出撃し、「イラクの自由作戦」で
トマホークを発射し、2003年4月27日に帰投しています。

母港はコネチカット州のグロトンで、昨年2019年8月退役しました。

モニターでは「レクィン」の内部紹介ビデオが放映されていました。

1968年に海軍から除籍になったとあります。
これは魚雷チューブだと思います。

1969年に無力化され、予備訓練艦として、フロリダの
セント・ピータースバーグに係留されました。

クルーメスのテーブルにはバックギャモンなどのゲーム盤プリントが。
モニターはおそらく見学者のためのものでしょう。
展示されている場所が場所だけに、内部見学もかなり期待できそうです。

こんどピッツバーグにもし行くことがあれば、必ず見てきます。

ちょうどこのピッツバーグ滞在の頃、アメリカで見た駆逐艦の
爆雷についてのエントリを制作していたので、一眼でわかりました。
さらに、帰ってきてから(今更のようですが)、あの名作

「眼下の敵」(The Enemy Below)

を観たもので、尚更タイムリーです。

Mk.9 Mod 3 Depth Charge

という型番で、もちろん艦上から落とすタイプの対潜兵器。
爆発する深度を設定でき、ターゲットに「 爆発的ショックウェーブ」
を与えるというものです。(つまり直接当たらなくても良い)

このタイプは投下してから海中を速く落下するため
シェイプを研究開発されたことが説明されています。

こちらは潜水艦が搭載する魚雷を解剖して置いてありました。

「レクィン」のアンカーチェーンの一部。
アンカーのタイプは「シャンク」、フルーク型だったそうです。

外に出てみました。
サイエンスセンターはピッツバーグ市内を流れるオハイオ川に面しています。
向こうに黄色いブリッジが見えてきますが、そこから川は
以前飛行機が飲み込まれたと書いたモノンガヒラ川に名前を変えます。

ピッツバーグは川に囲まれていて、市内中心地には
どこから来るのにも橋を渡らなければなりません。
しかもその橋は必ず前に横たわる山をぶちぬいたトンネルとつながっているので、
特に朝夕の通勤時間、高速道路は猛烈に渋滞します。

そういうわけでここでは空港に行く時間が全く読めません。
飛行機に乗る前には必ず橋の向こう側の空港近くのホテルに泊まるようにしています。

艦尾が係留されている大きなブイは、サイエンスセンターオリジナル。
川の深度がわかるようになっているようです。

潜水艦見学のために特別に制作されたらしい長いラッタル。

中学生のグループが潜水艦を覗き込んでいました。

ものすごく堅牢そうなしっかりしたラッタルです。
おそらく子供や老人なども見学できるよう配慮したのでしょう。

USS「レクィン」SS-481 「テンチ」級
1945−1968

海軍初のレーダーピケット潜水艦に乗艦いただき、
80人の乗員が専門的スキルと、ユーモアと、類稀なる創意工夫で
荒々しい冒険的な艦上生活をいかに刻んでいったかを、
そして冷戦時代の防衛やその科学的ミッションについてを学んでください!
その中のいくつかの知恵は今日にも活かされています。

展示にあたって塗装を引き受けたのがPPGペイント社。
本社をここピッツバーグに置ガラス製品・化学製品・塗料の製造会社大手です。
日本にもPPGジャパンという名前で進出しています。

自社の宣伝かたがた、この塗装にどれくらいの時間や手間がかかり、
どれくらいの塗料を要したかについて説明されています。

それによると塗料は全部で240ガロン(908リットル)、
労働述べ時間960時間。

そのおかげで毎年「レクィン」には平均15万5千人の来訪者があるということです。

わたしもその一人になりたかったのですが、残念です。

1945年4月に就役した時には、まだ対日戦争真っ只中だったので、
「レクィン」は、当時計画されていた九州侵攻作戦である

ダウンフォール作戦

に投入され、沿岸攻撃などで上陸支援を行うという予定をしていました。
そのためロケットランチャーなどの重武装を積んでいたということです。

他のこの時期に建造された多くの艦船と同じく、
彼女もまた日本と戦うために生まれたということなんですが、
幸いなことに就役して4ヶ月で戦争は終了しました。

彼女が終戦までの4ヶ月間なにをしていたかというと、
それは「退屈な任務」であるソナー学校の訓練艦でした。

その後レーダー哨戒潜水艦への転換が行われました。
このため、後方の魚雷発射管4門は取り除かれ、
5インチ艦砲と後部甲板の対空砲も同様に撤去されています。

ところで2代目艦長となったのはジョージ・L・ストリート三世中佐といいまして、

ストリート中佐は大戦中の功績で名誉勲章を受章していますが、
当ブログ「サブマリナーの肖像」シリーズで取り上げた人です。


終戦後は西大西洋での作戦活動を再開し、1947年には北極圏を横断しています。
(『アドルフに告ぐ』じゃないけどこのタイプでは寒かっただろうて)

1948年に船体分類記号が SSR-481 (レーダー哨戒潜水艦)となり、
レーダーピケット改修を施されました。

1953年には近代化オーバーホールが行われ、この近代化で
最後の対空砲は撤去されることになりました。

 

1959年全てのレーダー設備が撤去され、船体が流線型化、
「フリート・シュノーケル改修」が施されると同時に、船体番号は
「SS-481」 へと再変更され、退役まで通常の攻撃潜水艦として従事しました。

「レクゥイン」は1963年9月20日5,000回目の潜航を達成しています。

その後、1968年5月28日、行方不明となった原子力潜水艦「スコーピオン」
(USS Scorpion, SSN-589)
 の探索に参加したのち実験潜水艦となり、
不活性化、そして退役、海軍予備役兵の訓練艦となっていました。

そして最後の最後に IXSS-481 (雑役潜水艦)に艦種変更されています。
雑役潜水艦というのが何をするのかわからないのですが、文字通り
訓練から何からなんでもやっていたのかもしれません。

除籍後「レクィン」はフロリダ州タンパで観光名所にされていましたが、
援助および資金不足のため公開は取りやめられ、4年間桟橋で放置されていました。

1990年、ジョン・ヘインズ・三世上院議員(もちろんあのハインツの三代目)が
この潜水艦をカーネギー・サイエンス・センターで展示する上院議案を提出。

彼女は一旦タンパの造船所でリペアを行い、ルイジアナ州バトンルージュから
艀に乗ってミシシッピ川およびオハイオ川を遡上しピッツバーグにやってきました。

そしてカーネギー・サイエンス・センターに到着し、現在に至るまで
博物館の展示品として公開されています。

 

余談ですがヘインズ上院議員は、「レクィン」がピッツバーグにやってきた
その半年後、飛行機事故で現役のままわずか52歳の生涯を閉じました。

 

続く。


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