ニューヨーク州のエンパイアステート航空科学博物館展示シリーズ、
最終回です。
ご覧の通り、この日の博物館には見学者は皆無ではありませんが、
少なくとも露天にある航空機展示を見ていたのはわたしたちだけ。
つまり何をしても見られることすらないという状態です。
基本航空機はお触りし放題ということになっていますが、
作業中の区域はご覧のように立ち入り禁止になっています。
博物館は夏季期間中は月曜定休ですが、冬場
(レイバーデイからファーザーズデイまでの期間)
は金曜から日曜までの週三日しか営業していません。
おそらくこの地域も冬場は降雪で人があまり来ないのでしょう。
おそらく現役で使われているトラックだと思いますが、
形が古いのでここがGEの実験飛行場だった頃のものかもしれません。
スーパーマリーン シミター(Supermarine Scimitar)
駐機場でも一際目立っていたのはロイヤルネイビーの
艦上戦闘攻撃機、シミターでした。
もちろんアメリカでこの機体を見るのは初めてです。
偶然だと思いますが、前回紹介したMiG三兄弟も、このシミターも
後退翼を持っており、その採用は、戦後になって流出した
ナチスドイツの後退翼に関する研究結果から取り入れたものでした。
ここでは基本艦載機は翼をたたんだ状態で展示されており、
それが一眼でわかるようになっています。
艦攻なので機体は大型ですが、単座です。
迎撃機、地上攻撃機、そして偵察と多機能にわたるミッションをこなす
マルチロールとして設計され、初飛行は1954年のことでした。
スーパーマリーンというのは艦船に詳しければご存知の、
あのヴィッカース社の航空機部門で、第二次世界大戦中の
伝説の名機、スピットファイアを作った会社でもあります。
シミターを開発したのを最後にヴィッカーズに吸収されました。
1958年に運用が始まった当時、シミターは、
同時代の航空機の中でも時代の先をいく先端でした。
イギリス海軍機史上、最初に後退翼単座を取り入れ、
これも史上初となる、核兵器搭載能力を有した爆撃機でもあります。
2つのロールスロイスエイボンターボジェットを搭載した
シミターの最大速度は1174km/hで、航続距離は2250km以上。
空母搭載型戦闘機としては実際見てもわかるように比較的大きく、
最大離陸重量は17トンという力持ちでした。
シミターの離陸の仕組みは非常にユニークでした。
カタパルトでブライドルを取り付けられると、(現場の説明のスペルが
なぜか” braidal"になっていた)テールスキッドに載せられると、
前輪がデッキから完全に離れたとたん、より高い迎え角になりました。
シミターはパイロットに人気のある非常に有能な打撃戦闘機でしたが、
滅多にないはずの事故での高い損失率に苦しめられています。
その理由はこの大型でパワフルな機体を、比較的小型の空母しか持たない
ロイヤルネイビーの艦隊で運用することの相性の悪さにつきました。
その結果、生産された76機のうち39機、つまり50%以上が、
空母への着艦事故で失われることになりました。
まさにそのときのニュース映像が見つかったので貼っておきます。
A Supermarine Scimitar aircraft falls into the Atlantic Ocean while landing aboar...HD Stock Footage
1958年から、シミターの空対空迎撃の任務は、デハビランド社の
シーヴィクセン(Sea Vixen)に置き換えられ始めました。
「海の女狐」シーヴィクセン、これはまるでペロハチいやなんでもない。
その後まもなく、ブラックバーン・バッカニアが
艦隊航空部隊の主要爆撃機として登場しています。
武装は、内部に30 mm砲を装備していました。
対空戦闘のために、アメリカ製AIM-9サイドワインダーミサイルを
4基、翼の下のパイロンに搭載することができ、
地上攻撃には4000kg爆弾か無誘導ミサイルを搭載することができました。
ESAMのシミターは、世界に現存する3機のうちの貴重な一つです。
グラマンF-14トムキャット
「後退翼はドイツの技術をアメリカが戦後没収して開発された」
と何度も書いてきましたが、F-14トムキャットを特徴づけたのは
後退翼をさらに可動式にした可変後退翼で、その技術は、元々
ドイツが「メッサーシュミット P1101」のために研究していたものです。
1945年4月29日、ちょうどヒトラーが自決する1日前のこと、
アメリカ軍歩兵部隊がババリアン地方の
「オーバーアマーガウ」の施設群を発見しました。
放置された研究機は連合軍の皆さんの撮影スポットに(笑)
可変翼の研究はじめ、関係文書が接収されましたが、肝心な部分は
処分されたり、マイクロフィルムに撮影されてフランスに渡ってしまったため、
機体そのものをアメリカに送り、ベル・エアクラフト社が
あのベルX-5を作ったのです。
当博物館のエアパーク配置図は、航空機のシルエットで
展示位置を示していますが、F-14のシルエットはこの、
もう一つの可変翼である主翼付け根のグローブベーンを展開開いた
デルタ形をしています。
上から見られないのでなんとも言えませんが、この状態は
デルタ形に翼を広げているのではないでしょうか。
グローブペーンとはこれはマッハ1.4以上になると
主翼付け根前縁から展開される小さな翼です。
超音速飛行で揚力中心が後退するのを打ち消すためのものでしたが、
その後飛行特性にほとんど影響を与えないことがわかり、
廃止されています。(前にも書きましたね)
トムキャットの命名は、当初グラマンとしてはF-14に
「シーキャット」(ナマズ)と付けようとしていたそうですが、
この採用を推していたトム・コノリー大将に敬意を表して
トムの猫(Tom's cat)→トムキャット
となったというのが正しいところのようです。
トムキャットの一部。(さてどこでしょう)
A-7Eコルセア(Corsair )
コルセアについてはこれまで何度も書いているので、
ここには「いた」と言うことだけご報告します。
というか、せっかくここ独自の説明があるのに
赤いテープで近づけないようになっていました。
まあ誰もいなかったので写真を撮るためだけに
入っても差し支えなかったとは思いますが、
そこはそれ、日本人としてはそれがどうしてもできません。
初めて見るただものでない黒い機体、これは
ノースロップ F-5E タイガー(Tiger)
1950年代の後半に普及したシンプルで安価な戦闘機で、
海外の空軍にも輸出されました。
初飛行は1959年、F-5は世界の航空史でも最も多く、
広く世界30か国に向けて4000機が生産されています。
操縦が安易で整備が簡単でシンプル、そして安い、多用途。
F-5は実に25年間にわたって生産され続け、
いろんなシーンで活躍し続けました。
オリジナルのF-5は実に「ノーマルな」音速機で、
単純なアビオニクス、ジェネラル・エレクトリックのJ-85
ツインターボジェットエンジンを搭載し、余計なものはなく、
あっさりマッハ1.6の速度を出すことができました。
ここにあるEは1972年にデビューした最も発展したタイプで、
武装は20ミリ砲2基とAIMー9サイドワインダー空対空ミサイル、
そして対地攻撃のために7,000lbs爆弾をパイロンに5基積むことができました。
F-5は、小型で優れた操縦性を備えているため、
空対空戦闘の攻撃側練習機としても理想的でした。
米海軍での位置付けは決して対空戦闘機ではありませんでしたが、
海軍はあまりの操作性の良さに、F-5Eの小さな戦闘機隊を作っています。
アメリカ海軍の多くのパイロットが、より重く、より複雑な
F-4およびF-14、そして今はF / A-18の操縦訓練において
Fー5先生を相手にドッグファイティングスキルを磨いたのです。
ESAMのF-5は1974年に建造され、2007年に就役し、
米海軍の攻撃中隊第13飛行隊の航空機として
ファロンネバダ海軍航空基地で勤務しました。
ところで、伝説の航空機であることに加えて、このF-5は
映画「トップガン」で、ソビエト軍のMiGに扮して
スクリーン上でもその伝説を残しています。
同じ黒でも、こちらは打って変わってずんぐりとした、
ダグラス F-3D スカイナイト(Skyknight)
しかしこう見えても「F」とついているだけあって、
双座で双発の、立派な戦闘機です。
1952年から運用が始まり、当初海兵隊の陸上基地用でしたが
海軍で空母運用されることになりました。
第二次世界大戦中およびその後は、
航空機のの設計、推進、および航空電子工学が
急速に拡大していた期間でした
最初の空中捜索レーダーの1つを装備したスカイナイトは、
APQ-35火器管制レーダーで夜間も敵機を迎撃できたため、
その乗組員とともに「ナイトファイター」と呼ばれていました。
第二次世界大戦中に導入されたこれらの初期のレーダーは大きく、
そのためより大きな戦闘機を必要とすることになります。
製造されたのは237機のみでしたが、F-3Dは朝鮮戦争中に
夜間戦闘機としてある程度の成功を収め、北朝鮮の標的への夜間襲撃で
米国B-29爆撃機の護衛として頻繁に使用され、MiG-15とも交戦しています。
そして1952年11月2日夕刻、北朝鮮上空で、スカイナイトの乗組員は
ソビエトが建造した最初の夜間戦闘機と交戦し、勝利を達成しました。
F-3Dは1960年代初頭まで運用され、ベトナム戦争中には
電子戦機としての任務も果たしています。
ただし2基のウェスティングハウス J34ターボジェットは
ややパワー不足と見なされ、最高速度は965km/hでした。
武装に関しては、スカイナイトは機首の下に
4つの20mm大砲を装備していました。
ESAMのスカイナイトは、伝説のグラマンF-14トムキャット戦闘機用に
開発された空中レーダーのテストに使用され、実際に
ゼネラルエレクトリック・フライトテストセンター(現在のESAM)
のスケネクタディ空港から実際に飛行されたことがあります。
ところで、「タイガー」のコクピットを撮るために
上がった階段からこんな景色が見下ろせます。
いつになるのかわからないとはいえ、展示のために
ボランティアが作業を続けているのだと思われますが・・・。
これが何かは、そこから離れたところに転がっている
ノーズを見てわかりました。
なんとこの針のようなノーズはコンコルドじゃありませんか!
コンコルドの特徴であるデルタウィングは影も形もありません。
もしかしたらこれもその一部なのかもしれませんが、
まったくどこの部分か想像もつきませぬ。
おそらくコンコルドのパーツが散乱しているんだと思います。
その向こうに、車輪のない状態で展示されているのは・・・
ジェネラルダイナミクスFー102 デルタ ダガー
冷戦が始まり、アメリカは、ソ連の核武装爆撃機要撃の目的で、
新型迎撃機の検討に着手しました。
ペーパークリップ作戦で引き抜いてきたドイツ人技術者、
リピッシュのコンセプトをとりいれたデルタ翼の戦闘機です。
固定機銃はなく、AIM-4 ファルコン空対空ミサイルを搭載し、
空対空ロケット弾24発を発射機に搭載することが可能でした。
デルタ翼機の特徴として燃料搭載量が大きく、超音速機としては
空中給油の援助なしでも滞空時間が長く哨戒任務には適しましたが、
加速性・上昇力に劣り、ドッグファイトは厳に禁じられていたそうです。
空戦ができない戦闘機なんて。
水平飛行で音速を突破できない戦闘機なんて。
空軍は失望しました。(そらそうだ)
そのため改良も行いましたが、結果は思わしくなく・・・。
結局当初の目論みである実用戦闘機との兼務は放棄され、
単座型と同じアビオニクスは搭載せず、慣熟飛行の訓練用になりました。
そんな感じだったので、後継のF-106が配備されるようになると、
早々に同盟国に供与されるようになりましたが、ただ1か国、
トルコ空軍のF-102は1974年のキプロス島侵攻作戦中に起きた
ギリシャ空軍との戦闘で、2機のF-5戦闘機を撃墜する戦果をあげた、
ということになっているそうです。
ただし、ギリシャ空軍側にはF-5の損失記録は無いそうです。
まあ空戦の世界には古今東西よくある話ですね。
その後アメリカ空軍に残っていたF-102は、200機以上が
PQM-102A無人標的機として次々と撃ち落とされ、
消費されて完全に姿を消しました(-人-)
というわけで、ESAMの全ての展示機の紹介を終わりました。
ニューヨークから3時間の場所ながら、ちゃんとした展示がされ、
ボランティアによるイベント活動なども細々とながら
着実に続いているというこの地方博物館に敬意を表しつつ、
シリーズを終わります。
コンコルドが展示されるころ、もう一度見に行ってみようかな。