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戦時における科学技術の発達とマンハッタン計画〜ウェストポイント軍事博物館

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陸軍士官学校、ウェストポイントの軍事博物館の展示をご紹介しています。

 

第一次世界大戦後に起こった退役軍人たちのデモ、ボーナスマーチは
第二次世界大戦の勃発によって完全に収束することになります。

国民はまた新たな戦争に向かって歩み出したのでした。
戦争と戦争の間に起こったボーナスマーチ以外に、アメリカでは
着々と次の戦争に備えて戦時体制が整えられていきました。

 

予備将校訓練隊(ROTC)


予備将校訓練課程(Reserve Officers Training Corps)ROTC

一般大学を卒業した者が任官し将校になる精度、予備将校制度は、
アメリカでは1800年代後期には制定されていましたが、1918年、
私立の陸軍士官学校を前身として設立された大学に
将校養成のカリキュラムが制定されたときから本格的になりました。

 

わが日本では、普通大学を卒業後、自衛隊入隊してから幹部候補生となり、
訓練を経て士官将校になるわけですが、アメリカでは少し違います。

特定の州立・私立大学のなかに士官教育課程があるのです。

このカリキュラムを終了すれば、海軍士官学校、陸軍士官学校卒と同様
卒業と同時に任官することができ、大学の卒業式には、
立派な士官の制服を着て帽子投げなんかもできちゃうというわけです。

 

息子の留学している大学でも、入学式のガイダンス期間、陸海空軍が
ブースを構えて、日本の地本に相当する軍人が受付をしているのを見ましたが、
四軍ともに予備学生はSTEM(科学、技術、エンジニアリング、数学)
を専攻していることが合衆国国民であることの次に採用前提条件となります。
特に原子力専攻の学生は喉から手がでるほど欲しいようです。

そのとき(息子は全くの対象外にもかかわらず)パンフレットを取ってきたので
わたしも知ったのですが、もし予備学生プログラムを選択した学生は、在学中
学費の一部又は全額を国が払ってくれる上、奨学金数百ドルを受け取れるのです。

大学の成績を維持しつつ、陸海空海兵隊の訓練を受ける義務が生じるとはいえ、
学費を負担してくれる予備士官育成過程は平時でも人気がありますが、
特に911などの国家的危機があると、任官志望者が増える傾向なのだとか。

 

現在のアメリカ軍における一般大卒の士官は40%と多く、
優秀であれば最高指揮官になるのにも何の障害もありません。

ちなみに、ROTC出身の有名な人物にはカーチス・ルメイ、コリン・パウエル、
ジェームズ・マティス、ドナルド・ラムズフェルドなどがいます。

訓練を受ける一般大学軍事課程の学生たち。

ROTC在学中の候補生たちが身につける記章です。
ちなみにROTCというのは陸軍に進む課程の名称で、
海軍と海兵隊はNROTC、空軍はAROTCです。

もう一つお節介ついでに書いておくと、陸軍の士官候補生を「カデット」、
海軍のそれを「ミシップマン」と呼びますが、それでは空軍と海兵隊は?

答えは、空軍が「カデット」、海兵隊が「ミシップマン」なんですよ。

 

たとえば海軍の予備士官プログラムを選択すると、大学の授業が始まる前、
あるいは終わってから軍事訓練や講義などを受け、夏休みの間には
訓練のための航海などに参加する義務がありますし、海兵隊は
陸自の「山に行く」というのを休みのたびに繰り返したりします。

予備学生には所属先から軍服も支給されます。

基本のユニフォームはポリウールカーキですが、サマーホワイトと
サービスドレスブルー(一般にSDBとして知られています)は、
大学のキャンパスでもよく見られます。

海軍作業服も支給され、学内で着用することを奨励されます。
そういえば息子の大学で軍服で歩いている学生を何度か見たことがあります。

 

 

第二次世界大戦の医療

第二次世界大戦時に救急医療チームが戦地で使用していた救急キットです。

戦争は兵士と民間人どちらもに多くの痛みと苦痛を齎しましたが、
その反面、多くの医療サービスと技術の発展をも加速させたのも事実です。

 

たとえば、はしか、インフルエンザ、髄膜炎などの伝染病の治療は
第二次世界大戦の期間に大きく進歩を遂げることになりました。

具体的には戦地となった太平洋地域における抗マラリア薬、
キニーネの代替品としての合成薬、アタブリンの開発と大量生産です。

軍事医療の主要問題の一つである脳神経外科においても、また、
戦傷による欠損を修復するための整形外科、プラスティック再建術、
そして顎顔面外科において、二度の世界大戦を経て技術は急速に発達しました。

また、火傷の外科的および臨床的治療も研究がなされ、進歩を見ました。

苦痛緩和の分野においては、新しい麻酔薬とプロカインにより、
外科医は体の広い領域の痛みをブロックすることができるようになり、
この技術はすぐに無痛分娩のメソッドに生かされることになりました。


さらにサルファ材とペニシリンの大量生産と使用により、
術後感染が大幅に減少しました。

物理療法の技術と義肢の素材、技術の発達も外科的治療の補完となり、
戦傷による四肢欠損者、あるいは重傷者を治療するために新しい方法が生まれます。

また、傷病者の輸送手段も大きく変わりました。
救難航空機の使用など新しい避難技術により、患者を
迅速に、安全に医療施設まで輸送できるようになりました。

 

しかし、戦争によってもたらされた最も重要な医学的進歩の一つはというと、
米国での広範な献血システムの確立に違いありません。

陸軍およびその他の政府機関の医療サービスのアドバイスと技術支援により、
アメリカ赤十字社は、戦争中、毎週5万リットル以上の血液を
自発的に献血によって集めることのできるシステムと施設を全米に設置しました。

それに伴って、大量の血液、乾燥血液、外科用フォームの生成に使用される血液副産物、
および血漿の輸送、処理、貯蔵のための新しい技術と施設も開発されていったのです。

このときに確立された大規模なネットワークは、戦後も
赤十字の血液バンクとして国民のために存続し現在に至ります。

第二次世界大戦中、傷病兵の手当てをする衛生兵。

写真は、第二次世界大戦中の戦地で、赤十字の旗をロープにかけた
簡易救護所で負傷兵の手当てを行なっている5名のメディック。

周りの地形から見て、硫黄島での一コマではないでしょうか。

さて、その下にあるブーツですが、男物にしてはなんだか華奢ですね。
そう、これは陸軍女性隊(WAC)の着用したフィールドブーツです。

 

陸軍女性部隊(Women's Army Corps)

1945年5月、マサチューセッツ州議会議員の
エディス・ノース・ロジャース名誉議員は、
女性陸軍補助隊(WAAC)を設立する最初の法案を導入し、
議会は即座に承認しました。

その二日後、オヴィータ・カルプ・ホビーはWAACの総司令への就任宣誓を行いました。

「ovita culp hobby」の画像検索結果宣誓中

WAACの最初の訓練センターがアイオワ州のフォート・デモインに開設され、
1943年までには20,943の女性がWAACに入隊しましたが、
彼女らの軍的ステイタスはあくまでも「補助」であり公式なものではありませんでした。

ワックさんたちフィールド訓練中。

1943年7月1日、フランクリン・デラノ・ルーズベルトは
女性隊の名前をWAACから「補助」を抜いたWACに変更する法律に署名しました。

WAC入隊者数は爆発的に増え、最終的には9万9千288名に達しています。
第二次世界大戦の間、アメリカ陸軍の女性はあらゆる任務に赴いて
そこで愛国心を示し、苦難に耐え、戦争の全ての現場で見識を持って奉仕しました。

補助部隊として、航空機を輸送するなどという技術職、あるいは
航空整備、車両整備などの後方支援には多く女性が携わりました。

もちろんその中には戦争によって犠牲となった人たちもいます。

女性部隊が力を発揮した兵種の一つが、医療関係でした。
陸軍は

陸軍看護士部隊(Army Nurse Corps)

を1901年には組織していました。

看護士部隊の募集ポスターです。
やはり美人を使ってますね。

ここには、アーミーナースコーアの軍服が展示されています。

これを着用していたのは、ジュリア・ケール陸軍大尉。
ヨーロッパ戦線から帰還したのちは北アフリカ、再びヨーロッパと転戦し、
朝鮮戦争、最後にはベトナム戦争にも参加した歴戦の勇士で、
彼女の陸軍でのサービス歴は30年以上に及びました。

 

マンハッタン計画

マンハッタン計画とは第二次世界大戦中、原子爆弾を開発、
建造するための陸軍のプログラムに与えられた名でした。

1942年の秋、レスリー・R・グローブス代将はマンハッタン計画の
総司令官に就任します。

レスリー・R・グローブス(1896−1970)

陸軍士官学校1918年卒。


ここに展示してあったのはグローブスのクラスリングと
彼のエンジニア記章です。

 

この研究は化学研究開発局や他の前身組織の管理下、
さまざまな政府や大学の研究所で実施されていました。

たとえばコロンビア大学、カリフォルニア大学、そしてシカゴ大学など、
一般の大学の研究室での研究結果が一つの目的のために集約されます。

それはまさにアメリカ国民の頭脳をかたっぱしからあてにするといった風であり、
前回もお話ししたように、失業対策として立ち上がったWPAプログラムで

対数表プロジェクトMathematical Tables Project

もそのなかのひとつでした。
コロンビア大学から提出された資料の中には、450人の失業者
(といってもその全員が大学の教授や学位を持つ数学者で
中にはアインシュタインの助手もいた)を対数表プロジェクトで採用して、
指数関数、対数、三角関数などのより高度な数学関数を集計したものもありました。

これらのデータは、 LORANナビゲーションシステム、マイクロ波レーダー、
爆撃、衝撃波、伝播などを解析するもので、ほとんどが軍事技術に役立ちます。
もちろんこの計算式がマンハッタン計画にも取り入れられたのでした。

 

核分裂性物資を製造し、核分裂性ウランを生産するため、
テネシー州のクリントン・エンジニアワークス、
プルトニウム製造のためにワシントンのハンフォード・エンジニアワークス、
ニューメキシコのロスアラモス研究所が研究と開発を行いました。

マンハッタン計画に関わった労働者はのべ12万9000人。
最終的には2億ドル以上が投入されました。

そして1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴードでの実験に成功しました。

原子爆弾の実験結果として資料になっている飲料缶(左)とリンゴ。
80年経ってもリンゴが丸い形を止めているのが不思議です。

 

そして、翌月初旬には、世界初の原子爆弾が日本の広島、ついで長崎に投下されます。
プルトニウム爆弾も開発されたのでそちらを落とすために決定されたのが長崎でした。

戦時下のプロジェクトに関連した科学的研究は
医学や公益事業などの多くの平時の分野での進歩を加速させることになったのです。

なぜかここにあったドイツのカイザーヴィルフェルム研究所の看板。
フリッツ・ハーバー、アルベルト・アインシュタインが在籍したことで有名ですが、
世界で最初にウランの核分裂に成功した、オットー・ハーンと
フリッツ・ストラスマンもここで研究を行っていました。

この成功を受けて、原子力発電の研究がまず立ち上がったのですが、
その後第二次世界大戦が始まると関心は原子爆弾の開発へと移ります。

科学者たちの関心が原子炉にあるうちに、アメリカでは
国家総力を上げて人類の上に投下するためにこれを完成させたのでした。

 

 

続く。

 

 

 


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