ニューヨークのハドソン川沿いにある陸軍士官学校、ウェストポイント。
ここにある軍事博物館は、一般に公開されていますが、本来の目的は
士官候補生たちの教育用であり、彼らは必要とあればここにきて
祖国と世界の軍事史について学ぶことができるようになっています。
それだけに、展示は軍事について体系的に知ることを核としており、
添えられた解説も当たり前ですが大変しっかりしたもので、
かつ歴史観においても、ニュートラルを心がけているように思えました。
さて、今日のコーナーは、
「第一次世界大戦終了後から第二次世界大戦まで」
として、まずこのようなポスターから始まる展示をご紹介します。
女神の下に並ぶのは、独立戦争、インディアンとの戦争、米墨戦争、
南米戦争、米西戦争、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦の兵士たち。
おそらく、第二次世界大戦が始まる前、つまり本日のテーマで語られる
出来事が起こった頃に製作された、プロパガンダポスターでしょう。
ボーナス・マーチ(進軍)
第一次世界大戦後、アメリカの軍隊は急激に動員を解除していきました。
そして、ヨーロッパ諸国に対して、基本不干渉を原則とする
「モンロー主義」
が外交の姿勢となっていました。
ジェームス・モンローが不干渉の演説をしたのは米墨戦争の頃なので、
この孤立主義はアメリカのいわば外交の基本姿勢だったはずなのですが、
なぜかアメリカは第一次世界大戦に参加したわけです。
わたしにはこの時期の孤立主義回帰は、戦争がすんだばかりのアメリカが
単に賢者モードになっていただけ、という気がします。
多分ですけどね。
しかも南北アメリカのあるアメリカは、権益は守るために、
こちらからは不干渉だがそちらからも干渉するな、という態度。
これこそがアメリカの孤立主義の正体だったんじゃないんでしょうか。
さて、1932年、フーバー大統領の時代に、第一次世界大戦の退役軍人、
そしてその家族、関連グループが、年金の早期償還のために必要な
在軍証明書を要求するために大規模のデモを行いました。
Bounus March、Bonus Army
また、第一次世界大戦の遠征軍(American Expeditionary Force)をもじって
Bonus Expeditionary Force
と呼ばれた4万3千人のデモ隊を率いたのは、第一次世界大戦に従軍した
アメリカ軍軍曹、ウォルター・ウォーターズでした。
先頭:ウォルターズ
第一次世界大戦の退役軍人たちは大恐慌によって尽く職を失い、
困窮して、即時現金払いを政府に求めるためにワシントンに乗り込んだのです。
「ウォータイム・ミリタリー・ボーナス」
と呼ばれる軍人年金は、1776年には始まっていました。
どういうものかというと、兵士が入隊していなかった場合に獲得していたはずの給金と、
実際に得た給与の差額を、政府から返してもらえるという制度です。
特に身体障害を負った退役軍人への補償を目的に開始されたもので、
ボーナスは地域によっては工作可能な土地を含むこともありました。
さて、ワシントンまで「進軍」してきたボーナス・アーミーは、
フーバーヴィルにこのようなシェルターを作って住み着きました。
さすがに元軍人たちだけあって、キャンプの統制はしっかりしており、
道路整備や衛生施設の建設を行った上で、毎日パレードを行いました。
キャンプへの参加資格も厳密に検査され、実際に
第一次世界大戦に参加してしたという証明がないとできなかったほどです。
ボーナスを出す法案は下院を通過しましたが、キャンプの人々が見守る中、
上院では62対18票で大敗してしまいました。
その1ヶ月後にあたる7月28日、フーバー大統領は、
抗議者たちに解散を命じ、実力行使を行います。
軍隊を動して、騎兵、歩兵、戦車、機関銃でもってワシントンから
ボーナスアーミーたちを強制排除しようとしたのです。
軍隊はいわば同じアメリカ軍のベテランに対し銃口を向けたのでした。
彼らにとってそれは決して愉快でもなければ大義名分もない仕事でしたが、
軍隊として粛々と出動したのです。
この時出動したのは第12歩兵連隊、第3騎兵隊。
総指揮官はダグラス・マッカーサー将軍です。
真ん中マッカーサー
そして、ジョージ・パットン将軍が指揮する6基のM1917 軽戦車の砲口が、
第一次世界大戦に参加した退役軍人たちに向けて設置されたのでした。
ボーナス・マーチャーズたちは、これら軍隊は自分たちに敬意を払うために
行進しているのだと信じ、かれらに喝采を送っていましたが、
パットンが戦車隊に装填を命じた途端、それが自分たちに向けられていることを悟り、
「Shame! Shame!」(恥!恥!)
と軍隊に向かって罵りだしました。
しかし、騎兵隊の突撃に次いで、歩兵は銃剣と催涙ガスを携えて
キャンプに突入し、退役軍人とその家族を追い出したのです。
キャンプ中人が川の向こう岸に逃げたところで、フーバー大統領は
攻撃を止めることを命じましたが、ダグラス・マッカーサー将軍は
大統領命令を無視してさらに追い込むように新しい攻撃を命じ、
その結果、55名の退役軍人が負傷し、135人が逮捕されました。
この結果、退役軍人の妊娠中だった妻が流産し、12歳の子供が
催涙ガスの攻撃に巻き込まれた後に病院で死亡しましたが、
政府の調査では彼は腸炎で死亡したという報告がなされました。
しかも病院側の報告は完全に政府寄りで、催涙ガスの効果はなかった、
と断言する忖度しまくりのものだったということです。
ちなみに、後の大統領アイゼンハワーは、当時マッカーサーの補佐官でした。
彼は、自分のアリバイ作りのためか、このときの退役軍人への攻撃について、
「陸軍最高位の将校としてこれは間違っているので、
役割を果たさないようにとマッカーサーに強く忠告した」
とのちに語ったそうですが、ほんまかいな。
そういいつつも、公式な報告書の上ではマッカーサーの判断を
支持する立場をとってるんだよな。このおっさん。
まあ、立場上そうせざるを得ないのが組織人というわけで、
良心と組織としての立場の板挟みでなかなか辛かったということでしょう。
知らんけど。
さて、同じような試練はパットン将軍にも起こりました。
ジョー・アンジェロは第一次世界大戦のヒーローです。
彼はヨーロッパ戦線で傷ついたパットン大佐を引きずって
安全な位置まで避難させて命を救い、その功労に対し
功労十字賞を受け取った、パットンの「命の恩人」でした。
この二人がそれから14年後、ワシントンで再会しました。
一人は大恐慌で職を失い、政府に年金を要求するデモ隊の一員として。
一人は政府に命じられて彼らを排除する軍隊の指揮官補佐として。
軍隊とデモ隊の間に起こった乱闘で二人の退役軍人が死んだ日、
アンジェロは戦車隊の指揮をするパットンを見つけ、
面会を求めましたが、パットンはすげなくこれを拒否しました。
このときにパットンはこう言ったと歴史に残されています。
「わたしはこんな男など知らない。
この男を何処かに連れて行き、そして二度と戻ってこさせるな」
そして、その上で周りの将校たちに向かってこう言ったそうです。
「あの男は戦火の中わたしを塹壕から引っ張り出して引きずり出した。
だからあの男に勲章を与えたんだ。
戦争以来、わたしとわたしの母は彼を支えてきたつもりだ。
金を与えたし、何度か就職の世話もしてやった。
諸君はもし私たちがあの時言葉を交わしていたら、
今朝の新聞の見出しがどうなっていたか想像できるかね?
もちろん、私たちは彼の面倒を見るよ。これからもね」
このエピソードは、ボーナス進軍騒ぎの本質を表しているとされています。
アンジェロは、落胆した忠実な兵士としてパットンと再会しました。
そのパットンは、アンジェロの献身的な忠誠あったからこそ命存えたのです。
しかし、パットンはアンジェロとの面会を拒否しました。
つまり、自らの犠牲によって献身的に国に尽くしたはずの退役軍人たちが、
その国と軍から否定された、というのが事件の全てだったということです。
この事件でむしろ退役軍人に対して国より無情だったのは、
経緯を見る限りマッカーサーであり、陸軍だったとわたしは思うのですが、
当時のアメリカ国民はは軍人に対してではなく、なぜか最初に命令を下した
大統領、フーバーを断罪し、次の大統領選の結果に影響を及ぼしました。
彼の不幸はこの直後に大統領選挙を控えていたことだったでしょう。
フーバーの判断ミス?のおかげで大統領選に滑り込んだルーズベルトは、
妻のエレノアを護衛なしで退役軍人のキャンプに送りました。
彼女は、歌を聞かせてもらったりして融和的に接し、退役軍人たちに
市民保全部隊(CCC)(後述)での地位を約束しました。
一連のニューディール政策でルーズベルトは調整報酬を可決し、
退役軍人と彼らを見捨てない態度を評価した人々によって支持されたのです。
市民保全部隊(CCC)と雇用促進局(WPA)
退役軍人たちの自尊心をくすぐるために?「部隊」としたのでしょうが、
実態は恐慌後の失業対策プログラムでした。
ピッツバーグのシェンリー公園という市中の広大な自然公園にかかる橋に
WPAというマークが入っていて、この公園の整備は
雇用促進局 (Work Projects Administration)WPA
によって雇われた失業者の手で行われたことをここでも話したことがあります。
ブレホン・バーク・サマーヴィル将軍(1892−1955)
将軍になってからではなくなぜ士官候補生の写真なのかというと、
多分ウェストポイント時代の彼の方が男前だったからではないでしょうか。
それはともかく、このパートになぜこの人の写真があるかというと、
彼は工兵隊卒機関指揮官として、ラガーディア空港の建設を含む
一連のWPAプログラム事業推進の指揮官として腕を奮ったからです。
結果この大プロジェクトを見事に取り仕切った彼は、ワシントンポストから
「米国陸軍が産んだ最も有能な将校の一人」と称えられることになります。
アメリカ陸軍需品科の司令官となって彼が指揮した一連のプロジェクトで
最も有名なのは、アメリカ国防総省ペンタゴンの建設でしょう。
CCCはそれよりも対象を若年労働者とし、職業訓練を兼ねて
道路建設、ダム建設や森林の伐採、国立公園の維持管理作業を行いました。
どちらもルーズベルトのニューディール政策に則ったものでしたが、
性質としてどちらかといえばWPAの方が職種に幅があったかもしれません。
その中にはたとえば失業した芸術家に対する救済プログラム
(フェデラル・ワン)とか、数百人以上を共同で対数表の作成に参加させた
歴史上最大かつ最後の人間計算機プロジェクトである、
対数表プロジェクト(Mathematidal Tables Project)
などというぶっとんだ失業対策もありました。
これが何の役に立ったかは、また別の日にお話しします。
続く。