ある年の夏、アメリカに行くと必ず滞在していたボストン郊外の街に
軍事博物館があったことを、偶然インターネットで検索していて知りました。
第二次世界大戦中の軍事資料を一堂に集めた、
The International Museum of World War II
という名前の博物館です。
1999年からあったというのですが、実際にボストンに住んでいた時期も含め、
毎年この地域に滞在しながら全くその存在を知りませんでした。
もっとも住んでいた頃もその後も、軍事博物館などというものを
検索したことなど一度もなかったのでそれも当然かと思われます。
というわけで、存在を知った2018年の夏、東海岸滞在中に
わたしは一度だけここを見学してきたのですが、驚いたことにその後
2019年、突然博物館そのものが閉鎖され、消滅してしまいました。
しかも、わたしが訪問してこの時に撮影できた展示品はごく一部で、
残りはまた次回渡米した時に、と思い開館情報を調べると
閉鎖したというお知らせが出てきて唖然、という次第です。
どちらにしてもコロナ騒ぎで今年の渡米は叶いそうにありませんが、
この、地球上のどこに行っても今は見ることができなくなった
貴重な歴史遺物をご紹介して、ありし日の博物館を偲びたいと思います。
今回は、その展示の中から対日戦に関する資料をご紹介していきます。
とにかくこの博物館に足を踏み入れるなり圧倒されたのが所蔵物の多さです。
時間があれば残らず写真に収めたかったのですが、それも叶わず、
結果として閉鎖によって永久にその機会が失われてしまいました。
さて、画面中央にあるのは、訓練に使われていた
アメリカ海軍の潜水艦の潜望鏡一部分です。
1941年ごろに使われていたものと説明があります。
日本帝国海軍提督用儀礼服も一揃いマネキンに着せてあります。
展示物は数が多すぎてほとんど説明がないのですが、この絵は
まだ日本に本土空襲が行われる前に、
「もしアメリカ軍が本土にやってきたらどうなるか」
ということを予想して描かれたものだと思われます。
その理由は、実際に本土攻撃を行っていないP-38などが描かれていることで、
爆撃されているのは軍需工場や港など。
サラリーマンや子供連れの女性などが山に避難していますが、
実際の空襲は都市を無差別に焼き払うようなものだったため、
工場付近から逃げれば何とかなるというようなものではありませんでした。
空をたくさんのB-24リベレーターが飛んでおり、実際にも
B-24は本土空襲を行っていますが、B-29登場以降はそれが主力となりました。
ちなみに、広島で捕虜になっていて原爆で死亡したアメリカ人は
B-24の搭乗員であったということです。
「時は迫れり!!」
というこの時計の意味するところは・・?
まず、ガダルカナル、ブーゲンビル、タラワ、マーシャル、アドミラルティ、
ニューギニア、サイパン、グアム、パラオ。
全てのかつての日本の領地だった土地に立った日の丸は
この順番に連合軍によって奪取されていったことを表すために
旗竿が真っ二つに折られてしまっています。
5分前にあるのはフィリピンで、フィリピン侵攻に先立ち、アメリカが
攻略したのはパラオ諸島、その直前がサイパン・グアムでした。
この絵が描かれたのは1944年(昭和19年)の10月から3月までの間でしょう。
フィリピンが陥ちれば次は日本本土である、と啓蒙しているのです。
現に、レイテ沖海戦で聯合艦隊壊滅後、日本軍は完全に補給を断たれ、
レイテ島10万、ルソン島25万に部隊が取り残された形となり、1945年6月以降は
ジャングルを彷徨いながら散発的な戦闘を続けるだけとなりました。
多くが餓死、あるいはマラリアなどの伝染病や戦傷の悪化により死亡。
大岡昇平の「野火」はこの戦地での惨状を描いたものです。
大正天皇の御真影。
写真を元にレタッチ?されていますね。
「大正三年十一月十四日印刷 同年同月十七日発行
画作兼印刷発行者 日本東京市浅草公園第五区?番地
天正堂 土屋鋼太郎
実写版でリメイクされた「火垂るの墓」で、御真影が燃えてしまったので
責任をとって一家心中する校長先生なんてのが出てきていましたが、
これは少し「やりすぎ」な設定としても、戦時中には
皇族の写真発行については政府が干渉するようになったのも事実です。
皇室のブロマイドや絵画は1890年くらいから市井で大量に売られ、
商業誌や新聞にも掲載されていました。
とくに皇室グラビアは人気があり、商業誌の売り上げにも寄与したそうです。
大正時代には大正デモクラシーなどの影響もあり、イギリス型の
「開かれた皇室」を目指す動きが強まりました。
この写真は御在位されて3年後のもので、この後大正天皇が
病床に伏されるようになると、留学中の皇太子殿下(現上皇陛下)の写真が
グラビアを飾るようになってきます。
日中戦争が始まるまでは、御真影を神の如く崇めるような文化はなく、
この写真風版画も、火事の時にもち出せなければ責任をとって云々、
というような悲壮な信仰の対象にはなっていなかったのは確かです。
しかし日本国民の皇室と天皇陛下に対する敬愛は、戦前と戦後で
根本的に全く変わっていないとわたしは信じています。
左は土屋貞男さんの出征を祝うためののぼり。
アメリカにこれがあるということは、土屋さんは外地で戦死し、
どこかでアメリカ兵がそれを発見し「記念品として」持ち帰ったのかもしれません。
右はおそらく航空兵が敵機を認識するために使われたものです。
上のベル FM-1「エアラクーダ」は、第二次世界大戦前に
ベル社がアメリカ陸軍航空隊向けに試作した戦闘機ですが、
飛行性能が悪く、開発は中止されました。
にもかかわらず日本にこのようなものがあったということは、
この頃は開戦前でまだ両国の情報は遮断されていなかったということですね。
下のダグラスA-20はエドワード・ハイネマンの作で、
アメリカのみならず連合国で多用された双発攻撃機です。
イギリスでは「ボストン」、夜間戦闘機としては「ハヴォック」、
アメリカ海軍ではBDと呼ばれていました。
こちらは戸松茂さんが入営の際につけたたすきで、
「祈 武運長久」と書かれています。
戸松さんも、どこかの戦地で亡くなったのでしょうか。
向こうに和服のマネキンがいますが、なぜか展示品の中に
着物と帯があったようで、わざわざ黒髪の日本人風のマネキンを調達して
展示しています。
この写真のデータは、残念なことにいくつかの写真とともに
消えてしまい、皆さんにお見せすることができなくなってしまいました。
アメリカ潜水艦の模型(年代物)の向こうには
昭和20年の日付のある寄せ書き。
海軍の部隊で全員が名前を書いたものだと思いますが、
階級などは全く名前に添えられていません。
これも説明がないので断言はできないのですが、左下に
英語で誰かが誰かに寄贈したと思われるサインがあることから、
日本に爆撃を行なった航空機から撮られた写真だと思われます。
「東京上空30秒前」という映画で登場した模型の空撮シーンと
酷似していますが、東京空襲の時かどうかはわかりません。
割れたゴーグルは撃墜された飛行士の遺品でしょうか。
そしてここにもあった、真珠湾攻撃をしらせる無線電報。
AIRRAID ON PEARL HARBOR X THIS IS NO DRILL
珍しく説明が添えられているので翻訳しておきます。
「日本軍の真珠湾への攻撃は1941年12月7日、
ハワイ時間の午前7時48分にはじまった。
353機の戦闘機と艦爆と艦攻が6隻の空母から二波に分かれて出撃。
アメリカ軍にとっては全くの不意打ちであった。
銃に人員が配置されておらず、弾薬庫には鍵がかかっており、
航空機は翼を並べて飛行場の格納庫に駐機されていたのである。
きっちり90分間で空襲は終了した。
2,403名が死亡し、1,178名が負傷した。
8隻の戦艦が損壊し、そのうち4隻が沈没、巡洋艦3隻、そして
駆逐艦3隻が損壊あるいは破壊され、188機の航空機が撃破され、
159機がダメージを受けたのであった」
全くの不意打ちであればこれほどやられても当然です。
いまさらですが、ルーズベルトはどうしてこれほどの被害が出ることを予想しながら
知らんふりをしていたのか、理解に苦しみます。
もし極秘にそのことを真珠湾に警告して米軍に迎撃させたとしても、
彼の望み通り、開戦にこぎつけるという結果に変わりはなかったと思うんですが。
この電報の横には、日本が中国進出後にアメリカを始め各国から
(ABCDラインですね)禁輸措置を受けて”バーンアウト”したことが
さらっと書いてありますが、そのあとはおおむねこんな風に続きます。
「アメリカ側は日本のステルス攻撃に対する注意が全く欠けていた」
「アメリカ政府は日本が開戦したがっていることを知っていたが、
ハワイが攻撃されることを全く予想していなかった」
「日本の攻撃は予想外(unthinkable)であったため、その前に
日本のミニサブ(潜航艇)が駆逐艦に撃沈されたという報告も、
航空機がレーダーに捕らえられていたという報告も上がらなかった」
「日本軍は全てをきっちりと行い、その運命の朝、
艦船はもちろん航空機もオイルタンクも、ドライドッグも爆破した。
続く戦況も日本が優勢であったが、6ヶ月後、アメリカ海軍は
ミッドウェイで帝国海軍を打ち破ることによって軌道修正をした」
そして、攻撃のおわったヒッカム基地の惨状。
炎上爆発が起こっています。
海軍の写真班によって撮られた真珠湾攻撃の写真。
USS「ショー」DD-373が爆破炎上する瞬間です。
12月7日、 「ショー」はドライドック で 爆雷システムを調整していました。
日本軍の攻撃で、三発の爆弾を受け、 炎上。
必死の消火活動が行われましたが、総員退艦の命令がだされた直後、
前方の弾薬庫がは爆発したのがこの写真です。
その後仮修理を経てサンフランシスコで艦首を取り替え、
1942年8月31日にパールハーバーに戻り、終戦まで活躍しました。
彼女に与えられたあだ名は
「A Ship Too Tough to Die」(死ぬにはタフすぎる船)
というものでした。
説明がなかったのですが、おそらく真珠湾攻撃で戦死した水兵の一人でしょう。
上の写真の意味が全くわかりません。
総員配置のためのメモ
艦尾で育ったサトウキビを食べないように注意してください。
おそらく毒性化合物の扱いです。
????
写真を遠くから撮ったので日本語が読めません><
日本のグラフィックマガジンに掲載された真珠湾攻撃の記事ですが、
なぜかご丁寧に英訳されております。
これも大変読みにくいのですが頑張って翻訳します。
ハワイでのアメリカの太平洋作戦基地への奇襲!
海鷲たちが水平と垂直に空を横切って織りなす猛烈な攻撃で、
厳重に警戒された真珠湾に侵入し、我特殊潜航艇も加わり、
空中と海の両方から猛烈な攻撃が行われた。
我が軍のこの輝かしい成功は、全世界の耳目を魅了した。
さまざまな敵の艦艇や航空機の破壊は、一度に20隻の艦艇、
460機以上の航空機にのぼり、地球を恐怖で震え上がらせた。
見よ!
海鷲たちの大軍勢は港に易々と進入し、無力な敵の多くの船のうち、
まず2隻を屠り、艦攻中隊は小物には目もくれず、戦艦に向かう。
攻撃の雄叫びは朝の沈黙を一瞬にして震えさせた。
今日まで厳重に保護されていた真珠湾は一瞬にしして血塗られ、
アメリカに目に物見せたのである。
本文の日本語と照らし合わせることができないの残念です。
冒頭のハワイ攻撃を報じる第一報に続き、こちらは
日本がアメリカに宣戦布告したというヘッドラインが踊ります。
写真のベッドに寝ている人は真珠湾で負傷した海軍軍人でしょう。
こちらはちゃんと日本語が読めますのでそのまま書いておきます。
海鷲飛躍 ハワイの奇襲
12月8日午後2時、大本営海軍部は宣戦の大詔渙発直後、
早くも大戦果を発表して曰く
『帝国海軍は本8日未明、ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対し、
決死的大空襲を慣行せり』
と。
あゝ迅雷耳を掩う(おおう)の暇もない世紀の壮挙!
三千四百海里の波濤を蹴ってハワイ付近に達した我が航空母艦から
飛び立った海鷲は、暁の漠雲の中に飛び込む、やがて
断雲の間から島が目に入る、占めた(ママ)布哇だと思うまもなく、
オアフ島の山々が瞭(はっ)きりと見えてきた。
指揮官旗を先頭に機体は山肌すれすれに飛ぶ。
遥か前方の島はフォード島である。
その周囲に黒い小さい艦(ふね)らしきものが點々と見える。
軍艦だ、紛れも無い敵太平洋艦隊である。
なんたる天佑ぞ!何たる神助ぞ!
搭乗員の面はいやが上にも緊張する。
攻撃部隊はこの時あるを期して長年月猛特訓せし神業を縦横に発揮し、
世界第一と称する同軍港の覆滅を目指し、今将(まさ)に
雄渾無比の電撃奇襲作戦を敢行せんとするのである。
こちらにもご丁寧に英訳がつけられておりますが、
漢字に振り仮名の多いのを見ると、この絵と文章は、
子供向けの海軍ファン向け雑誌に載せられたものだと推察されます。
もちろん、ちゃんと海軍省の認可番号が振ってありますが、
まさかアメリカ人もこれが少年雑誌向けとは思っていない様子・・・。
続く。