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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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映画「撃墜王 アフリカの星」〜ハンス=ヨアヒム・マルセイユ物語 前編

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第二次世界大戦博物館シリーズで、バトル・オブ・ブリテン関連の
展示をご紹介しているとき、ドイツの国民的英雄となったエースパイロット、

ハンス=ヨアヒム・ヴァルター・ルドルフ・ジークフリート・マルセイ
Hans-Joachim "Jochen" Walter Rudolf Siegfried Marseille(1919−1942)

の名前を知り、さらにこの人のことを調べてみると、
その伝記映画までが戦後になって制作されていたことを知りました。

マルセイユという名前はあのフランスの地名と同じスペリングです。
日本語の媒体では彼の名前を「マルセイユ」と読み書きしているのですが、
ドイツ語では最後に「ユ」はつかず、映画でも彼の名前の発音は
「マルセイ」であったことをお断りしておきます。

まあただ、マルセイというとどうも日本ではバターサンドのイメージなので、
本稿も日本的慣習に倣ってマルセイユとします。

ドイツ映画を注文して2日で観られるなんて、便利な世の中になったものです。
昔だったらそもそもこの映画が存在することまで知ることができたかどうか。

タイトルの Der Stern Von Africa、「アフリカの星」、
それがアフリカ戦線でエースとなった彼に与えられたタイトルでした。
ちなみにこの名前は彼がまだ現役中、ドイツで英雄として有名になる段階で
メディアなどによって名付けられたものだということです。

彼は機体の墜落によって22歳の生涯を終えるまでの2年間で、
連合国空軍機を158機撃墜し、エースとなりました。

さて、それでは始めます。
映画制作は1957年ということで、その頃のベルリンの風景が見られます。

ベルリンのルフトバッフェの戦闘機訓学校のシーンから映画は始まります。
実際に彼が戦闘機搭乗員の訓練を受けたのはウィーンだったそうです。

銃撃訓練で目標をことごとく撃破するマルセイユ候補生。
しかし指導官は彼のやり方がお気に召さない様子で、

「誰だあのバカは!」

機体の高度を下げすぎて危険だ、と叱られてしまいました。
マルセイユがしょっちゅういろんな軍紀違反で叱られていたことは、
当時の同期(エースのヴェルナー・シュレーア)が証言しています。

「また怒られたよ・・君まで叱るのか」(´・ω・`)

「これ以上の違反は退学だぞ」(`・ω・´)

上官のロベルト・フランケ中尉は彼の幼なじみで友人でもあります。

と行ったはしから方位飛行の訓練で場所が分からなくなり、
自動車道に着陸して道を尋ねるというお茶目ぶり。
これが実話だっていうんですから驚きますね。

たまたま後ろの車にいてこの様子を見ていた指導官、激おこですが、
ロベルトがまたもかばってくれたため、本来退学になるところを、
4週間の飛行停止で許してもらえました。

場面は代わり、休暇で実家に帰ってきたマルセイユ。

実際のマルセイユはあまりの素行の悪さに、たびたび海軍でいうところの
上陸禁止措置を受けましたが、全く無視していたそうです。

飛行技術がずば抜けていなければ早くに退学だったでしょう。

マルセイユの父は第一次世界大戦で戦死し、母ギゼラは再婚していました。
後年映画「アフリカの星」が完成した際、彼女は招待されて
息子を主人公にしたこの映画を鑑賞しています。

「お花、高かったでしょう」

と聞かれた彼が、

「花屋に彼女がいるのさ」

とさりげなく答えていますが、この人の場合決して冗談ではなく、
それこそあちらこちらにガールフレンドがいて、休みごとに会うのに忙しく、
搭乗員に必要な休息もろくに取っていなかったというあっぱれな噂もあります。

上官で幼なじみのロベルトも休暇で帰ってきていました。
彼はマルセイユ家と同じアパートで新婚生活をしているのです。

さっそくダブルデートでヨットにでかける彼らですが、
(マルセイユの相手は適当な金髪美女)

休暇で遊びにやってきた他の航空学生のヨットから、

「戦争が始まった」

というニュースを知らされます。
ついにドイツがポーランドに侵攻したのでした。

戦争の始まりを示すシーンは世界中の戦争映画と同じく、
実写映像を交えて語られます。

ポーランド侵攻が語られているパートなので、流れで言うとこれは
戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」ということになりますが、
わたしには確定できませんでした。

よろしければどなたかご指南ください<(_ _)>

市街戦で燃え盛る民家も実写映像です。

戦車の影に隠れながら一緒に移動する歩兵。

JU87シュトゥーカ急降下爆撃機でしょうか。
解説ではここからバトル・オブ・ブリテンまでを10秒で済ませてしまいます。

そしてマルセイユ初陣の日がついにやってきました。

1940年8月24日、イギリス上空で、彼は熟練した敵と
4分間のドッグファイトの末、これを撃墜しています。

彼が母親に対し、

「今日、私は最初の敵を撃墜しました。
私はそれが受け入れられません。
私は、この若者の母親が息子の死のニュースを受けたとき、
どう感じるに違いないかを考え続けています。
そしてこの死の責任は私にあります。
私は最初の勝利に満足するどころか、悲しんでいます」

と書き送ったのはこのときです。

ここで事件発生。
この時の空戦で一緒に出撃したロベルトが撃墜されたのです。

そして映画では彼が海に落ちて救出されたということになっていますが、
これは映画上の創作で、実際にそうなったのは実はマルセイユ本人でした。

初撃墜から1ヶ月後の爆撃機護衛任務の帰りに、英軍機と交戦した彼は
被弾した機からベイルアウトし、3時間海を漂ったのち救出されています。

低体温症になりながらも生還できたのは20歳と若くて体力があったからでしょう。

映画ではマルセイユがロベルトを病院まで迎えに行き、慰めています。
この生還劇を、史実通り本人のストーリーにしなかったのはなぜなのか、
わたしには全く制作側の意図が図りかねます。

マルセイユを完璧な英雄として描きたいあまり、彼がこのとき中隊長を守れず
戦死させる結果になって部隊からハブられたことや、その一匹狼的性格が
災いし、嫌われて他の部隊に回されたと言う話をスルーしたのでしょうか。

こういう作り物的な伝記映画だったためか、興行収入はともかく、
映画としての評価は当時からあまり高くなかったということです。

マルセイユの部隊が、アフリカに赴任前パリに立ち寄るという
不思議な設定ももちろん創作です。

実際はマルセイユの部隊は、ユーゴスラビア侵攻で戦闘に参加したり、
前線に移動する際にマルセイユ 自身が機体のエンジントラブルで不時着し、
ヒッチハイクで基地にたどり着こうとしたり、それが無理とわかると
手近な空軍基地に飛び込んで

「明日から作戦に参加しなければいけない」

とちょっとフカし、車で送らせたりと大忙しでパリどころではありませんでした。

ちなみにこの時の手近な空軍基地司令は、
運転手付きの車を彼のために出してやり、別れの際に

「このお返しとしてぜひ50機撃墜を頼むぞ!」

と言ったらしいのですが、このエピソードの方が映画的で
彼のキャラクターも浮かび上がったんじゃないのかなあ。

 

本作のようなパイロットの伝記映画で、実物の方が映画俳優よりイケメン、
という例もあまりないですが、実際の人生の方が波乱万丈で映画的、
というのは創作としていかがなものでしょうか。

こうなったら?心あるドイツの映画関係者に(ハリウッド映画など、
ユダヤ資本が絡むとドイツ軍の描き方が一方的になるのでこれはダメ、絶対)
改めて彼を映画化して欲しいとわたしは今強く思っています。

占領下のパリに新婚旅行気分で嫁を連れてくるロベルト(´・ω・`)

この映画の脚本家の胸ぐらを掴んで問い詰めたい。
どうしてこの映画にロベルトの妻とのロマンスが必要なのか。

実際はプレイボーイだったというマルセイユのその部分を隠すために
ロベルトの恋愛が利用されているだけとしかわたしには思えません。

しかもこの嫁がこんなところに来て

「本当は嫌なんでしょ?戦争」

などと夫の心をかき乱すようなことを言い出します。
いやに決まってるのにこんなことをこの状況で妻が言いますかね。
どこかで見た雰囲気だなあと思ったら、同時代の日本映画ですよ。

ドイツ映画よお前もか。

実を言うとこの映画の制作された1950年代は、ドイツにおいても
(世界中から非難されたせいで)戦争嫌悪の空気が特に強く、
この映画からは極力ナチスを感じさせる表現は省くという配慮がされたそうで、
「ハイル・ヒットラー」といいながら手を上げる軍人などは出てきません。

映画ではパリ市民も妙に友好的で、この爺さんは、マルセイユにドイツ語で
ビリヤードのコツを教えてくれたりします。

実際のところ、占領後のフランスでは国旗の掲揚が禁じられ、
市民の胸中には軍や対独協力者に対する恐れと怒りが渦巻き、
パリ市民とドイツ軍の間には、

「屈辱感を伴った名状しがたい一種の」

「何等共感を伴わない」

「連帯関係」があった、とあのジャン・ポール・サルトルが語っています。

この映画ではドイツ語を喋るこのフランス爺さんが、

「あなたは理想主義者かね。お気の毒に。
理想主義者は善でもあり悪でもある。
理想主義者は価値のはっきりしていない自然演劇の一種だ」

などといいますが、案の定マルセイユは全く理解できない様子です。
実際の彼もこんなことを理解する人物ではなかったに1マルク。

爺さんはなぜか相手が戦闘機パイロットであることを知っているかのように、

「この仕事(撞球家)なら自分も満足し相手を傷つけずに済む」

といったり、彼らが去った後、

「なんと恐ろしい。年老いた私の方ここにいる若者たちよりも長生きするとは」

とドイツ軍将校に独り言のように言ってのけますが、
これは、深読みすれば、フランス人である爺さんの、「名状しがたい、
一種の何等共感を伴わない」「共存関係に甘んじる」屈辱感の現れともいえます。

というわけで本当は色々あったマルセイユの部隊は北アフリカに到着。

映画的にはこれはフラグ。
部隊で犬を飼っている人はのちのち必ず戦死する・・・はず。

北アフリカに着いた直後の4月23日、マルセイユは
Bf109Eメッサーシュミットで初撃墜をあげました。

映画で使われた機体はスペイン空軍が使っていたライセンス生産の
イスパノHA1112だそうです。

実際の写真にも、彼のこのアフリカ仕様半ズボン姿が残されています。

マルセイユ役の俳優(ヨアヒム・ハンセン・ハンス)は長身ですが、
実際のマルセイユは背はあまり高くなく、水着姿を見る限り
どちらかといえば体型はドイツ人としては貧弱な感じです。

清潔好きなドイツ軍の部隊ですから、砂漠の中の基地でも
ちゃんとシャワーが完備しています。

そんな部隊に新しく若い下士官が着任してきました。

「少年部かい?」「小さな飛行機持ってきた?」

ウブなクライン伍長はスレた搭乗員連中の格好のからかいの的に。

その晩、マルセイユは呼び出しをくらい、昼間上官を無視したことや、
彼の戦闘スタイル(敵の編隊の中に単身突っ込んでいく)
に対し、命を大切にしろなどとやんわりと注意を受けます。

しかしこれは司令官の「親心」というやつでした。

「君を少尉に任命する」

ご機嫌です

少尉に任官した翌日、爆撃機の援護任務に出るマルセイユ。

新人のクライン伍長は、撃墜王マルセイユと飛べることに
感激しながらも緊張が隠せず、こわばった笑いを浮かべています。

はい、みなさんもうお気づきのように、これもフラグです。

この護衛任務で敵機と遭遇し交戦中、マルセイユ機は撃墜されて不時着しました。

実際に彼は三度撃墜されており、その都度生還していますが、この時
撃墜したのは英空軍第73飛行隊に加わっていた自由フランス軍のパイロット、
ジェームズ・デニス少尉(8.5機撃墜)のホーカー ハリケーンとわかっています。

マルセイユの機は操縦席付近に約30発の弾丸を受けましたが、
キャノピーを破壊した弾は彼が前屈みになったので数インチでそれました。

マルセイユはこのとき何とか胴体着陸し、救出されました。

ちなみに1ヶ月後の5月21日、デニスは再びマルセイユを撃墜しています。
よっぽどマルセイユにとって相性の悪い相手だったのでしょう。

このときも彼は生還していますが、その後2ヶ月間一機も撃墜できず、
いわゆるスランプに陥ることになりました。

救出されたあと、マルセイユを乗せた飛行機が次に向かったのは、
クライン伍長が撃墜された場所でした。

エースと呼ばれる戦果をあげることができたのはもちろん一握りで、
大半の未熟な若いパイロットは初陣で戦死するのが現実でした。
バトル・オブ・ブリテンでの搭乗員の平均寿命は4~6週間というものです。

クラインの遺体を抱き抱えて基地に戻るマルセイユ。

実際の彼がアフリカでこういう体験をしたかどうかはわかりませんが、
彼は時々、自分が撃墜した連合軍航空機の撃墜地点まで車で出かけて
生存を確認したり、ある時は敵基地まで飛んで撃墜の状況を知らせています。

撃墜したホーカー・ハリケーンの墜落現場に立つマルセイユ少尉、1942年3月30日。


ゲーリングがそれに類する行為を禁止したあとも、案の定通達を無視して、
彼は自分が死ぬまでそれを続けていたということです。

自分が撃墜することによって誰かが死ぬという現実に対する思いは、
100機を越す撃墜後も、彼の中で一切変わることはなかったのでしょう。

 

続く。

 


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