マーク・アンドリュー・’ピート’・ミッチャー
Mark Andrew ’Pete' Mitscher 1887ー1947
海軍航空部隊のベテラン司令官
1917年 海軍航空士
1919年 NC-1での大西洋横断チームに参加
1922年 ワシントンDCの海軍基地司令
1922年 デトロイトでの国際航空レース海軍チームのキャプテン
1923年 セントルイスでの国際航空レース以下同文
「ベテラン司令官」とキャッチフレーズにありますが、それは
彼、ピート・ミッチャーが参加した戦闘を書き出すだけで十分理解できます。
第一次世界大戦
第二次世界大戦
ドゥーリトル空襲 ミッドウェイ海戦 ソロモン諸島キャンペーン
フィリピンシー海戦(マリアナ沖海戦)レイテ沖海戦 硫黄島の戦い 沖縄上陸戦
まさにその個人史が近代海戦史そのものなのです。
しかしながら、その名前はハルゼーやスプルーアンスほど有名ではありません。
その理由は、彼が極端に寡黙で必要以外のことは公に喋らず、ましてや
ハルゼーやマッカーサーのように自己宣伝やそれにつながるスピーチもほとんど好まない、
真のサイレント・ネイビーであったことにあるとされます。
写真は第二次世界大戦の頃に撮られたものですが、小柄で痩せていて、
深いシワが刻まれた顔は歳より老けて見え(50代に見えます?)
聞き取れないくらいの低い声でボソボソと喋る姿は完全な陰キャで、
人によっては全くとっつきの悪い困難な人柄に見られていました。
しかし決して冷酷だったり自分のことにしか興味がないというわけではなく、
身近に彼と接した者は、彼の驚くほど優しい笑顔にほっとさせられるのが常でした。
特に自身が創世期のパイロットの草分けであったこともあり、
パイロットたちには畏敬されていただけでなく絶大な人気がありました。
【不遇の海軍兵学校時代】
ニミッツと同じく彼もドイツからの移民の息子です。
しかし、母方にウィスコンシン州議会の議員である祖父を持ち、
父親のオスカーもものちにオクラホマシティの市長になるという具合で、
決して労働階級の出ではありません。
ミッチャーはその父親の希望で海軍兵学校に入りましたが、
本人に海軍や軍事、ましてや国防に対する熱意も関心もないので、
その頃の彼に人生後半の成功を予想させる要素は全くありませんでした。
「名前がイケてない」
として彼についたあだ名は、オクラホマ出身であることから
「オクラホマ・ピート」。
2年になる頃にはそれは短縮され、彼はピートになりました。
彼の本名にはピの字もないのにAKA「ピート」であるのはそういうわけです。
彼が2年生になったときのことです。
兵学校でグループ同士の喧嘩がもとで死亡者が出るという不祥事が起こり、
彼はその罪を問われて退学させられました。
不条理なことですが、彼が手を下した事件ではなかったにかかわらず、
成績が悪く日頃の態度もよくなかったため、退学組に入れられてしまったのです。
慌てた父親は入学の時に推薦者となった下院議員にもう一度頼み込み、
ミッチャーは再入学ということで1年からやり直すことになりますが、
本人がそれを希望していなかった場合、大変辛いものであった可能性があります。
事実年下の上級生からはいじめを受け、彼の性格はより内向きになり、
そのせいで非社交的で反抗的な人物というレッテルを貼られることになります。
寡黙でとっつきにくい後年の彼の印象は、この経験によって形成されたのは
ほぼ間違い無いのではという気がします。
1910年、ミッチャーは131名中103番という成績でアナポリスを卒業しました。
【海軍パイロット第33号】
不遇な兵学校時代にミッチャーは当時話題だった航空に興味を持ち始め、
任官後いくつかの艦艇勤務を経たのち、パイロットを志願します。
海軍パイロット第33号として水上機軍団に配属になったのが1916年のことでした。
彼の運命が変わったのは、ちょうどその頃、航空を取り入れた海軍が
大西洋横断というチャレンジングなミッションを計画し、
彼にそのパイロットを務めるチャンスが与えられたことでしょう。
1916年ごろ(29歳)のミッチャー
彡⌒ミ
(´・ω・`) まだ20代なのに・・
「海軍航空の黄金時代」の最初にこの海軍の壮挙について書きましたが、
海軍が派出した3機のカーティスNC飛行艇のうち成功したのは1機だけで、
操縦していた機は濃霧で途中リタイアを余儀なくされています。
しかし成功しなかった2機もやはり歴史的な飛行に成功したという扱いで、
彼には海軍殊勲賞を授与されることになったのです。
兵学校を退学させられた超劣等生が、ある瞬間から「パイオニア」となり、
いずれ海軍航空界の「クラウンプリンス」になろうとは、
周りはもちろん本人ですら予期していなかったことでしょう。
それに彼は少尉時代に赴任先で見染めた女性とすでに結婚していたので無問題。
って何の話だ。
ちなみにこの時一緒にチャレンジを行ったメンバーのうち、彼を含む三人が提督になりました。
【ドーリトルレイド】
その後彼は「アローストック」乗組、「ラングレー」「サラトガ」飛行長、
「ラングレー」「サラトガ」副長、水上機母艦「ライト」艦長を経て
空母「ホーネット」の初代艦長に就任します。
彼もまた最初の航空メンバーとして、空母運用の基礎を築いた一人です。
真珠湾攻撃によって日本との戦争が始まったのはその2ヶ月後でした。
緒戦の敗戦続きで落ち込んでいるアメリカ国民を奮起させるために
空母から飛び立つ陸軍機で東京を奇襲する、という計画については、
可能かどうかが「ホーネット」艦長であるミッチャーに打診されて決まりました。
右ミッチャー大佐
そしてドーリトル中佐率いる16機のB-25爆撃機が日本から1,050キロの発射海域の
「ホーネット」甲板を飛び立ち、首都を含む本土を攻撃したのです。
【ミッドウェイ海戦】
先日お話しした映画「ミッドウェイ」にも、「ホーネット」艦長である
ミッチャーらしき配役は全く確認できなかったわけですが、(見逃していたら<(_ _)>)
まあつまりそれだけ一般には無名だったということに他なりません。
結果だけ言うとアメリカが勝利したミッドウェイ海戦ですが、
あの映画でも強調されていたように、「ホーネット」は
魚雷爆撃部隊であるVF-8を隊長のジョン・ウォルドロン中佐以下、
ショージ・ゲイ少尉を除く全員を失っています。
出撃前のVF-8ワイルドキャット、「ホーネット」甲板にて。
「ホーネット」から出撃した第8魚雷隊。
このときの「ホーネット」はまだ就役して2ヶ月であり、
搭載している航空団の経験もまだ浅いものでした。
飛行長であるリング中佐と血気盛んなウォルドロン中佐の間に、
日本軍の迎撃計画についての口論が起こり、ウォルドロン中佐は
自らの魚雷爆撃隊を投入することを強くミッチャーに進言し、
戦闘機の護衛なしで空母艦隊に向かって行きましたが、
零戦の要撃隊に全機撃墜されることになったのはご存知の通りです。
「ホーネット」の他の航空部隊は敵を見つけることができず、
帰還できなかった航空機もあり、戦闘結果なしの損失率50%となりました。
このためミッチャーは自らの指揮が失敗に終わったと感じていました。
特に、第8航空隊のメンバー、とくにウォルドロン中佐の戦死については、
強く自身の責任を感じ、後悔していたとされます。
そのため、彼は部隊全体に対し名誉勲章を確保しようと奔走しましたが、
その働きは成功しませんでした。
最終的に第8魚雷航空隊のメンバーは海軍十字章を授与されています。
この失敗はもちろん海軍内でも事後に問題にされ、精査されました。
ミッチャーは、リングとウォルドロンの間で論争になった時、
ウォルドロンの意見を却下したのですが、結果としてそれが失敗だった、
つまりミッチャーとリングの判断ミスだった可能性もあるのだそうです。
しかし、この件についてはなぜか戦闘日報が提出されておらず、
判断のしようがなくなっていて、彼のミスだったかどうかは今もはっきりしていません。
日報がなくなったのはミッチャーを守るための海軍の隠蔽だったという説もあるそうです。
ミッドウェイ作戦の前にミッチャーは少将に昇進していました。
ハルゼーは彼をガダルカナル、ソロモン諸島の戦闘司令官に任命します。
「ジャップとの航空戦はおそらく地獄になるだろうと思っていた。
だからわたしはそこにピート・ミッチャーを送り込んだ。
奴は『戦闘馬鹿』だと知っていたからね」
さすがハルゼーらしい口の悪さですが、この「戦闘馬鹿」は、
原文通りだと「Fighting Fool」となり、悪口というより、
1932年の同名の映画(西部劇もの)から引用しているのではと思われます。
彼が無口な「戦う将官」であることは、誰もが認めるところでした。
【カミカゼ特攻の脅威】
高速空母機動部隊タスクフォース58を司令として率いるミッチャーは
トラック島の襲撃を実施したとき、
「トラック島なんてナショナルジオグラフィックの記事でしか知らなかった」
と言ったそうですが、彼は常にこのような「ドライな」一言を渋く呟くという
ユーモアのセンスを持っていたようです。
タスクフォース司令時代、首席補佐官だったのはアーレイ・バークでしたが、
彼の前職は駆逐艦艦長でした。
バークが人事長などの役割より現場の戦闘指揮官を好んでいた話は有名で、
駆逐艦が燃料を補給するため空母に横付けしている現場に
バークとともに立ち会ったミッチャーは近くの海兵隊員にこういったそうです。
「その駆逐艦が追い払われるまでバーク大尉を確保しておきたまえ」
ただしミッチャーは、水上艦出身のバークが参謀になったことを
決してよくは思っていなかったという話もあります。
空母のことは飛行機屋にしわからん!という信念を持っていたのかもしれません。
その後ミッチャーは司令としてパラオ、フィリピン、硫黄島、沖縄を転戦しますが、
この間彼を心から悩ませたのは日本軍の特攻の洗礼でした。
1945年5月11日には、旗艦「バンカーヒル」に零戦の突入があり、このため
乗員の半数が死傷、彼は旗艦を「エンタープライズ」に替えましたが、その後
またしても特攻機の突入を許し、ミッチャーはウルシーの長距離特攻を受けて
損傷した「ランドルフ」に乗り換えることになりました。
夜昼24時間問わずやってくるこの攻撃によってタスクフォースの乗員の精神は
限界に達するまでに消耗し、ニミッツもこのことを重く見ていたのは有名です。
【戦後 海軍航空を死守】
対日戦は勝利しましたが、軍事費は大幅に削減されることになり、
ここに軍の必要性をめぐって政治的駆け引きが勃発しました。
つまり、陸軍航空の擁護者たちの主張というのは、
原子爆弾の開発により、戦略爆撃機が今や提供できる壊滅的な破壊力が
国家を守ることを可能にするなら陸軍や海軍そのものは要らない、
という極論に近いものだったのですが、ミッチャーはこれに対し
真っ向から反対して海軍航空の断固たる擁護者であり続けました。
彼の声明はこのようなものです。
「日本を打ち負かしたのは空母の力である。
かの国の陸軍と海軍航空を倒したのは空母の優位性であった。
空母は我々にその本土に隣接する基地を与え、空母の力は最終的に
彼らが被った最も破壊的な空の攻撃をも可能にしたのである。
空母の力が日本を打ち負かしたと言っても、それは単に
空軍が太平洋での戦いに勝ったということではない。
我々が航空と地上両面バランスの取れた統合の力の一部として
空母の力を行使したのである。
陸上に拠点をおくだけの空軍、海軍の協力のない空軍には
これらの壮挙は決して行うことはできなかったであろう」
それからすぐ、彼は海軍作戦部長への就任を打診されますが、
「その任にあらず」としてこれを辞退し、作戦部長には
ニミッツが就くことになっています。
1946年には海軍大将に昇進しますが、翌年2月3日、
現役のまま心臓発作のため海軍病院で死去しました。
続く。