ウィリアム・A・モフェット William A Moffet
アメリカ海軍航空の父
1914年 ヴェラクルーズで下院議員の栄誉メダルを受賞
1921年 海軍航空部門における最初のチーフとなる
1922年 海軍航空隊で認定された初の航空偵察員となる
【ハンガー・ワン】
モフェット少将にたどり着く前に、かなりの寄り道をします。
話はちゃんとつながっていきますので我慢してお付き合いください。
サンフランシスコ空港から南に向かって車を走らせたことがある方は、
しばらく行くとフリーウェイの左側に、異様に大きなドームが見えるのをご存知でしょう。
わたしもサンフランシスコ在住以来気になっていたのですが、その当時は
気になったらすぐ目の前の四角いもので調べることができるような
便利な世の中にはまだなっていなかったので、このドームが
アメリカ海軍とNASAの所有であることを知ったのはごく最近のことです。
米エリアに住むほとんどの人間は生まれた時からこれを見ていたはずで、
というのはこの「ハンガーワン」なる構造物、できたのが1933年なのです。
ハンガーという限りは何かを格納するためのものですが、
それではなんのために作られたのかというと・・・・・、
そう、当時は海軍の先進的偵察武器であった飛行船なのです。
先日当ブログで墜落事故についてお話ししたあのUSS「メイコン」と
姉妹船「アクロン」の専用格納庫として建造され、ごく短い期間、そこには飛行船と
小型の軽飛行機が格納されていました。
メイコン格納中
当時にしてその巨大な格納庫ドアは電動式だったそうです。
その後相次ぐ飛行船の事故があり、特に「メイコン」が事故で失われてからは
この巨大な格納庫の使い道がなくなりましたが、そこで壊してしまわないのが
土地とお金のあるアメリカの素晴らしいところです。
1965年、米国海軍史跡に指定されてからは
「海軍歴史記念碑」
「サンタクララ郡歴史的遺産」
「アメリカ歴史的土木工学遺産」
「カリフォルニア州土木ランドマーク」
「国定歴史建造物」
などに次々と指定されました。
沿岸防衛における重要な貢献、芸術的価値が評価されたものです。
しかし2003年、ハンガーに隣接する湿地の堆積物から有毒な化学物質が検出され、
ハンガーワンに使われていた鉛の塗料と、格納庫のコーティングに使用されていた
ポリ塩化ビフェニル(PCB)ではないかと言われるようになります。
このため、 格納庫は解体して土地を再利用するか、有毒廃棄物を取り去って
建物を保存するかという選択を迫られることになりました。
1996年に、モフェット海軍基地そのものはすでに閉鎖されていましたが、
海軍は建物を保存する方向で動き、ハンガーワンから有害なコーティング部分をはがし、
防腐剤スプレーして骨格を残すことを提案しました。
この頃ハンガーワンは歴史保存協会によって
アメリカの絶滅危惧歴史遺跡
の11のうちの1つに指定されています。
2011年、とりあえず海軍とNASAが出資して、外装パネルを外す作業が始まり、
この工事はおそらく西海岸の歴史で最も大きな足場を必要とするものになりました。
そうやって外側は外れましたが、さてここからどうすべえ、
と海軍は途方に暮れていました。(たぶんですけど)
メディアや世間からそれでなくとも
などとやいやい言われていたわけですが、しかし海軍の方は
ご予算の関係もあり、NASAにその義務がある、と出資を押し付けようと
涙ぐましい努力をしていたのです。
しかしそこに、
ぐーぐる が あらわれた!
なかまになりたそうに こちらをみている
なかまにしますか? はい いいえ
という経緯で、Googleが手を差し伸べてきたのです。
つまり具体的にいうと、ラリー・ペイジ、セルゲイ・ブリン、
エリック・シュミットが、Googleのお膝元マウンテンビューにあるこの施設を、
8機のプライベートジェット用に一部使わせてくれたら、
改造費用の35億円くらいちゃっちゃと出しますよ、というありがたい提案です。
結果、Googleはこの格納庫を60年間の契約でリースしていて、
その間有害物質の除去を並行して進め、修復も2025年に完了することになりました。
【モフェット連邦飛行場】
さて、そのハンガーワンのあったのがかつての海軍基地モフェット・フィールドでした。
海軍が撤退してからはNASAエイムズリサーチセンターが所有していますが、
その一角にはかつて空軍の「オニヅカ・エアフォースフィールド」がありました。
オニヅカとはチャレンジャー事故で亡くなった、エリソン・ショウジ・オニヅカ
(鬼塚承次)大佐の名前から取ったものです。
その一角にはいくつかの大学のブランチキャンパスを有しています。
(ちなみに超私事ですが、今見たらその中に息子の大学も含まれていました)
さて、もともとサニーベール市の持ち物だったこの土地を海軍が買ったのは、
海側にそびえる山脈のせいでサンフランシスコのような霧が出ない、
という気候的なメリットを考慮されたからだそうです。
サンフランシスコ空港はサンフランシスコ市ではなくサンマテオ市にありますが、
これも同じ理由で、海岸沿いを山で隔てられるのが
ちょうどサンマテオより南の地域で、飛行機の離発着に支障がないからです。
フーバー大統領によって議会で承認されたのが1931年、すぐに建設が始まり、
1933年の開隊は、
「エアベース・サニーベール CAL」
という名前で行われることになりました。
本来ならマウンテンビューという地名を使うところですが、海軍のお歴々は
「パイロットが山腹に衝突するイメージを持つかもしれないから」
といらない心配をして名前を市から取ったそうです。
今も昔も航空関係者は縁起を担ぐ傾向にあるということですが、
特にこの頃の航空は不安定で、特に飛行船は事故が多かったので
ゲンでもなんでも担げるものは担いでおこうという思考だったのでしょう。
しかし、オープンを8日後に控えた1933年4月4日、
USS「メイコン」の姉妹船「アクロン」が山に衝突ではなく、
海に墜落して多数の乗員が失われるという悲劇が起こりました。
【飛行船アクロンの事故】
USS「アクロン」(ZRS-4)は、1931年に建造された硬式飛行船です。
全長239mの「アクロン」と「メイコン」は、当時建造された最大の飛行物体で、
海軍が鳴り物入りで格納庫を作ったのも、いかに彼女らが期待されていたか、
ということを表していたといえましょう。
船の「キールレイド」に相当する飛行船の建造始めの儀式のことを
「ゴールデン・リベット」というのだそうですが、
「アクロン」のゴールデン・リベットを行ったのが、当時海軍航空局長だった
ウィリアム・A・モフェット少将
でした。(ふう、やっと名前が出てきた)
処女航海後、偵察任務を成功させ順風満帆(飛行船にも使うのかな)
だったアクロンですが、運命の事故で失われる前に、2度大事故を起こしています。
USS Akron Accident (1932)
1度目がこれ。
尾部が繋留から外れ、風に煽られて地面に機体を擦り破損。
A sailor hanging on a cable attached to USS Akron in flight over Camp Kearny, San...HD Stock Footage
2度目はもっと酷いもので、係留作業中機体が浮き上がってしまい係留作業中の水兵を
三人空中に吊り上げて二人が落下して亡くなるという悲惨な事故でした。
亡くなった水兵の写真。まだ10代かもしれません。
そして「アクロン」が喪失することになる事故が起こりました。
「アクロン」の艤装士官たち。
1933年4月3日に、ニューイングランドの海岸沿いを航行していた
「アクロン」は悪天候に遭遇し、操舵装置を失った状態で失速し、
波に捕まって海に沈没していったのです。
76名の乗員のうち助かったのはわずか3名。
通信士と水兵、そして機関兵で、飛行船ということもあって
救命ジャケットを積んでおらず、ほとんどの死因が溺死か低体温症でした。
また、救出に出動した別の飛行船も墜落し、乗員が二人亡くなるという大惨事です。
そして、この飛行船に命を吹き込んだ、海軍航空局長の
ウィリアム・モフェット少将も、「アクロン」に乗り込んでいて亡くなったのです。
死の直前、飛行船の中と思われる
モフェット少将は1890年にアメリカ海軍兵学校を卒業し、
南北戦争では南軍に私兵として入隊し、昇進しました。
海軍軍人として米西戦争、グアム、マニラの戦い、メキシコ革命、
ベラクルスの戦い、そして第一次世界大戦に参加し、
このときに航空が取り入れられ始めたアメリカ海軍で、航空のための
基礎的なプログラムを立ち上げるなどし、海軍航空部門で
最初の航空局長となったこともあり、
「海軍航空の父」
とされていました。
この地位にあって、彼は海軍航空機の戦術の開発、 空母の導入
および民間航空機産業との関係を調整するなど、道筋を付けたのです。
独立した空軍の創設を提案し、特に海軍嫌いだったビリー・ミッチェルに対しても、
その意見を支持していた海軍内の「航空派」でもありました。
しかし厳密にいうとモフェットは、航空機よりも軽い航空機、つまり飛行船支持派でした。
当時の航空機より、「船に近い」飛行船を彼が支持したのも
彼がもともと艦乗り出身でであったことを考えるとなんとなく納得がいきます。
しかし、彼の命は彼が支持していた飛行船によって奪われることになったのでした。
【事故の余波】
「海軍航空の父」の命が航空事故で失われたことで
海軍飛行船の関係者はもとより、アメリカ中に激震が走りました。
ルーズベルト大統領は、
「勇敢な士官たちと下士官兵の命が奪われたことは国家的損失です。
わたしは国民や彼らの遺族とともに彼らに哀悼の意を捧げるものです。
飛行船は交換することはできても、国家は、彼ら、モフェット少将と
海軍の素晴らしい伝統を最後まで維持し続けて一緒に亡くなった
『アクロン』乗員たちのような人材を失う余裕はありません」
とスピーチしました。
誰もが硬式飛行船の終わりの始まりを予感しました。
姉妹船「メイコン」には「アクロン」の教訓からライフジャケットが搭載され、
それはすぐに「メイコン」が海に不時着し沈没するという事故において役立ち、
ほとんどの乗員の命が救われる結果となっています。
ちなみに乗員の生死の割合は「アクロン」とまったく逆で、
乗員72名のうち70名がライフジャケットによって助かりました。
さて、ここでもう一度、事故が起こった直後オープンを予定していた
サニーベール航空基地の話に戻りましょう。
この正規の大事故を受け、急遽航空基地の名前は
「モフェット・フィールド」
に変更されました。
そして、海軍飛行船にとって決定的な「メイコン」の墜落事故が2年後に起こりました。
海軍は、飛行船の運用に関してはすっかりやる気をなくして格納庫は不要になりましたが、
運用コストの高さもあってモフェットフィールドそのものを閉鎖しようとしました。
しかしそこに陸軍が入ったり陸軍と海軍がそれで揉めたりして(中略)
基地そのものは稼働を続け、1990年代にP3Cの基地になったときに
最盛期を迎えています。
さて、例のハンガーワンですが、テレビ番組「ミス・バスターズ」(怪しい伝説)が
ここを気に入って?一枚の紙を7回以上折りたたむことができない、
という伝説を否定する実験を行ったことがあります。
実験に使う紙は格納庫の全幅を覆う大きさのものが用意されました。
「ミス・バスターズ」は、このほかに格納庫を利用して
「ヘリウムでサッカーを膨らませることでキック距離を長くできる」
「コンクリートで作った飛行機は飛ぶ」
などの神話をテストしています。
結果がどうだったのかは調べてないので知りませんが、
多分どちらも伝説に過ぎないということになったのではないでしょうか。
続く。