冒頭写真はスミソニアン博物館の初期のジェット戦闘機、
ファントム、Me262、ロッキードXP80ルル・ベルが展示されている
その反対の壁を飾っている壁画です。
初期のジェット戦闘機として我が帝国海軍の「橘花」が参加していますね。
その反対側がこうなっております。
どうも右に行けば行くほど時代も進んでいっているようです。
ジェット旅客機やファントムII、MiGも仲良く同じ方向を向いて飛んでいます。
というわけで今日はスミソニアン博物館の展示から、世界のジェット機史、
というパネル資料をご紹介していきたいと思います。
まずは導入部として、
「ジェット推進のパイオニアたち」
というこのようなケースが登場しました。
「HERO'S AEOLIPILE」
どう読むのかもわからないこの後半の単語ですが、
検索すると
「アイオロスの球」(またはヘロンの蒸気機関)
という人類史上最初に作られたジェット推進の理論による機器だそうです。
ドラムの中の水を熱することでノズルから蒸気が噴出し、
これをタービンとして回転する仕組みで、アイオロスとは
ギリシャ神話の風の神の名前です。
何か実用的なことに使われたわけではなく、
この真理によってそのうち何かうまれるのではないか、
という期待のもとに、見せ物になっていただけのようです。
ただ、アメリカ海軍のボイラーメーカーの技術徽章は
このアイオロスの球が象徴としてデザインされています。
さて、というのは歴史を紐解くにあたっての「つかみ」で、
ジェット推進システムの歴史は一挙に近代に飛びます。
ピストンエンジンによるプロペラ機構は、一度は
航空機推進のための究極にして最後の方法と考えられていましたが、
この動力に限界を感じる技術者たちもたくさんいました。
時代や存在する地域も様々で、互いの存在もその研究も全く知らない
技術者たちは、それぞれが独自の方法でその研究を推し進めました。
これらの創造的な個人がジェット推進の新技術に、それぞれが
多大な貢献をすることになり、推進の先駆者と呼ばれるに値します。
そしてその下には50人ほどの世界中の技術者の名前が推挙してありますが、
ここに 日本人の名前を見つけました。
「Osamu Nagano」永野治
そして
「Tokiyasu Tanegashima」種子島時休
海軍技術将校だったこの二人は、先ほどの絵にも描かれていた
日本初のジェット推進機「橘花」を開発製作したのです。
そしてその人たちを指して、当博物館では
「これらのあまり知られていない技術者たちの中には、
大きな進歩に寄与した人々、間違った推論を探索して除外した人々、
努力そのものは報われずとも、その功績がジェット推進の分野に
さらなる関心を集めることに役立った人々が含まれます」
という言葉で称えています。
この二人と橘花については説明を後に譲るとして、
コーナーの中央で紹介されているこの二人、
ドクトル・ハンス・フォン・オハインとサー・フランク・ホイットル、
そのパイオニアの中のパイオニア、つまり、世界で一番最初に
ジェット推進を形にした技術者を今日はご紹介します。
まず、右側の
サー・フランク・ウィットル(1907−1996)
はイギリス空軍士官の身分のまま、ケンブリッジ大学で
遠心式ターボジェットこそが次世代の推進機構として戦力化すべき、
という論文を発表した天才ですが、彼の論文は軍需省に認められず、
試作のための協力も得られないという目に遭います。
しかも彼の論文は普通の雑誌で公開されていたため、
目の利く各国の技術者が猛烈に後追いを始める結果になりました。
そんなころ、ゲッティンゲン大学を出たばかりのドイツ人、
「乾杯〜」(立ってる人)
ハンス・ヨアヒム・パブスト・フォン・オハイン(1911−1998)
は、ジェットエンジンを作り上げていました。
23歳のフォン・オハインは、大学時代「ぎこちなくて」スピードに限界のある
ピストンエンジンに代わるものとして、ジェット式推進に興味を持ちました。
真理は同じところに帰結するとでもいうのか、全くウィットル論文を読んでおらず、
その存在も知らないのに、彼の立てた理論は、細部こそ違っていましたが、
ウィットル考案の機構に非常に似たものだったそうです。
彼がデザインした世界初のターボジェットエンジンを、あの
エルンスト・ハインケル(左隣で乾杯している人物)に見せたところ、
即採用となり、ハインケル社で本格的な開発が始まりました。
ターボジェットを搭載したハインケルの飛行機はHeS 11で、
量産が始まったのは戦争が終わった1945年からのことです。
彼が持ち込んだデザインは史上初の試みながらクォリティが高く、
彼は名実ともにジェットエンジンを人類の歴史にもたらした人物となりました。
かたや、論文の粗探しをされて無視され放置されたウィットルは、
「栄光なき天才たち」のネタにされてもいいような不遇なスタートでしたが、
転んでもただで起きないタイプとみえて、空軍中尉の身分のまま
「パワージェット社」という会社を起業し、持論に基づく
遠心式ターボジェットエンジンの試作を猛烈に始め、結果的に
フォン・オハインとほとんど同時に
試作型を完成させることに成功しています。
しかし当時、ハインケル社はナチスとドイツ空軍に冷遇されていたため、
初のジェットエンジン搭載についても積極的な公開がされず、その結果当時は
ウィットルのジェットエンジンが世界初だと喧伝されていました。
これはオハインが開発したジェットエンジンを搭載して
初飛行に成功したハインケルHe178 V1です。
リベット溶接した単座式のコクピットで翼は木製、
尾輪タイプの引き込み式着陸装置がついています。
インテイクのダクトはシートのアルミニウムに取り付けられた部分にあり、
ジェット排気パイプは薄いクロームスチール製でした。
可変式排気ノズルは飛行中の推力制御用に設計されましたが、実際
固定ノズルは簡素化、時間、及びコストの点で選択されていました。
下はハインケルHe178V1のエンジン搭載概略図です。
ベンチテストのために取り付けた短い吸気口と翼にマウントした
ジェットパイプのため当初重量が450kgになりましたが、
これを長いダクトに取り替えながら、重量15%減となる
380kgにまで抑えることに成功しています。
左、ハインケル178V1 1939
右、グロスター 28/39 1941
グロスター E.28/39
ウィットルがフォン・オハインとほぼ同時に完成させた、
ウィットルW1、W1Xターボジェットエンジンは、
イギリスのグロスターに本拠地を持つ、グロスターエアクラフト社によって
イギリス初のジェット機に搭載されました。
ところでウィットルというひとが航空機の世界に進んだのは、
小さな時に父親が彼に与えたおもちゃの飛行機がきっかけだった、
とスミソニアンの説明には書かれています。
男の子なら小さい時に飛行機のおもちゃを与えられるのは普通ですが、
才能の花開くきっかけはどこにあるかわからないものです。
だから古今東西、世の中の親というものは、あらゆる可能性を少しでも多く
我が子に用意してやろうと思うのでしょう。
(ちなみにウィットルの父親は自動車整備工だった)
首席で空軍士官学校を卒業後、航空学校を経て戦闘機パイロットになった彼は、
若くして教官となり、のちに自分でテストパイロットも務めています。
その後やおらケンブリッジに進んでエンジンの論文を書き出すのですから、
まさに飛行機のことならなんでもやってみたい(そしてできた)人だったんですね。
しかし、彼の開発はフォン・オハインほどうまくいったわけではありません。
確かに、自社であるパワージェット社で完成させた最初のプロトタイプは
関係筋の関心を引き、契約にもなんとか漕ぎ着けましたが、
このころの絶え間ない開発の繰り返しとエンジンの問題によるストレスは、
ウィットルの精神に深刻な打撃を与えました。
彼の喫煙量は1日3パックに増加し、頻繁に激しい頭痛、消化不良、不眠症、
不安からくる皮膚湿疹、心臓の動悸などのさまざまなストレス関連の病気に苦しみ、
体重は激減しましたが、1日 16時間仕事をするためにベンゼドリン(アンフェタミン)
を嗅ぎ、夜間は鎮静剤と睡眠薬を飲んで無理やり眠るという生活をしていました。
この期間に彼は精神を蝕まれ、「爆発的な」気性は顕著になったといわれます。
人と協調できない偏狭な性格のせいでその後も軍需省と製作を請け負った
ローバーや他の業者の技術陣とは最終的に対立してしまったほどでした。
空軍士官姿のウィットル
彼を評価したのはアメリカでした。
というか、ハインケルの情報をすでに得ていたはずのアメリカは、
ジェットエンジン研究を、同盟国のウィットル論文をお借りして枢軸国より早く
ものにする漁夫の利作戦にでたのです。(たぶんですけど)
1941年、アメリカ政府の要請により、ジェットエンジンW1Xは
ゼネラル・エレクトリック社に研究のために貸し出され、
GEの技術陣はあっという間にウィットルの設計をベースにして
ゼネラル・エレクトリックI-Aターボジェットエンジン
を完成させてしまいました。
ベル XP-59A
GEのエンジンを使って製作したアメリカ初のジェット航空機です。
二基のウィットルタイプ=GE IーAエンジンを搭載し、
1942年10月1日に初飛行を行いました。
テスト飛行を行ったのベル専属のテストパイロットロバート・M・スタンレー。
海軍時代のスタンレー
スタンレーは初めてジェット機を操縦したアメリカ人となりました。
余談ですが、彼もまた技術者で、のちにスタンレーという会社を起こし、
リバーシブルピッチプロペラやスタンレー式射出シートなどを開発しています。
1977年、家族でカリブに旅行に行った帰り、自家用ジェットが墜落し、
彼と妻、息子と孫、もう一人の息子とフィアンセ、盟友、
その全員が死亡するという悲劇的な事故で亡くなっています。
スタンレーが操縦したベルXp-59Aはテスト飛行で時速626kmを記録し、
高度はおよそ1万メーターに達しました。
さて、そのころになると、世界でジェットエンジンの研究開発が
日進月歩の熾烈な競争になっていたわけですが、ウィットルは
根本的問題のある持論に固執し、元々の性格もあって周囲と対立していました。
エンジン製作を請け負ったローバー社でも嫌われて次第に排除され、
いつの間にか開発の最前線から遠ざけられるようになっていたのです。
彼が作ったパワージェッツ社も、弱小で設備もろくにないまま、
王立航空研究所の1部門にいつのまにか吸収されてしまいました。
しかし、彼の人生の最後の日々は決して惨めだったというわけではありません。
まず1948年5月に、ホイットルは、ジェットエンジンに関する研究の功績により
英国王立委員会から賞金100,000ポンドを贈られ、
大英帝国騎士団長(KBE)としてナイトに叙爵されました。
退役後の彼はBOACで航空機用ガスタービンのテクニカルアドバイザーとなり、
世界中を回ったり、自伝を書いたりの悠々自適な生活を楽しみ、
シェルで機械工学のスペシャリストとして新型パワードリルを開発、
そのあとはブリストルエアロエンジン社でまたしてもエンジン開発を試みています。
その間、アルバートメダル受賞始め、世界中の大学から名誉学位を授与されていますし、
国際航空宇宙殿堂入りも果たしていますし、いまだにイギリスでは
最も偉大なイギリス人のトップ50くらいにはつねに名を連ねています。
日本語のwikiではなぜか彼が閑職に甘んじ鬱々と過ごしたようなイメージで
惨めな老後だったような印象操作をしていますが、これは間違いでしょう。
69歳の時、彼はアメリカの海軍兵学校にNAVAIR研究教授として招聘されました。
そこで彼は境界層についての研究をし、
「 ガスタービンの空気熱力学:航空機の推進力に関する特別な参考資料」
というテキスト(おそらく兵学校用の)を残すなどしています。
そしてわたしが最後にぜひ書いておきたいのが、同時期にジェットエンジン研究をして、
たまたま同じ時期にそれを完成させたドクトル・ハンス・フォン・オハインと、
サー・ウィットルはアメリカのライトパターソン空軍基地で再会を果たしていることです。
仲良しです
フォン・オハインも一足早く航空推進研究所に招かれ渡米していました。
ここで思うのがアメリカという国の、世界の頭脳を分け隔てなく取り入れ
自分のものにしていこうとする貪欲さと懐の広さですね。
二人の技術者としてのピークはすでに過去のものになっていたかもしれませんが、
アメリカはその実績に報いる意味で、後進の育成のために招聘したのでしょう。
ところで、ウィットルは最初フォン・オハインのエンジンがあまりに
自分の設計したものと似ていると思ったため、てっきり
自分のアイデアを盗用したのかと動揺したそうですが、すぐにそうではなく
全くオリジナルのものであると理解したそうです。
やはり、天才は天才を知るといったところでしょうか。
そして二人はしばしば一緒に講演旅行を行うほどの仲の良い友人になりました。
サー・ウィットルとの会話で、ドクトル・フォン・オハインは次のように述べています。
「もしあなたに十分な資金が与えられていたら、エンジンは
私たちよりおそらく6年は早く完成していたでしょう。
そしてヒトラーかゲーリングが、イギリスが時速500マイルで飛ぶ実験機を持ち、
それが実用化されていると聞いたら、第二次世界大戦は起こらなかったに違いありません」
これ、ブラピ(フォン・オハイン)とマット・デイモン(サー・ウィットル)
で映画化するっていう案はどうでしょうか(提案)
続く。