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プロペラを付けたジェット機? アメリカのジェットエンジン研究史〜スミソニアン航空博物館

スミソニアン航空博物館の「ジェット機の開発史」シリーズ、
いよいよ最後はアメリカについてです。

ジェットエンジンの開発という点において、実はアメリカは
ドイツとイギリスに大きく遅れをとっていました。

ジョン・K・ノースロップは1939年、ウラディミール・パブレッカ
率いるデザインチームとともに、ターボプロップエンジンの建造を引き受けました。

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このパブレカという人は、日本では全くの無名ですが、 

Straight-8エンジン、ZMC-2、折り畳める翼、フラッシュリベット、
モノコック構造、最初の加圧胴体、最初の大型飛行機での三輪車着陸装置、
電動ヘリアーク溶接トーチ、P-61ブラックウィドウ、
アメリカで最初のターボプロップエンジン取り付けられたプロペラ、
およびスーパーチャージャー

などを開発したおそるべき発明家で技術者でした。

メインは航空機ですが、アポロJ-2ロケットエンジンの設計も行っています。
 コーヒーメーカーの自動抽出メカニズムを発明したのも彼だとか。

また、ネイサン・C・プライス率いるロッキードチームは、
これに一年遅れてL-1000ターボジェットの開発を始めました。

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ネイト(右)

 

これらのプロジェクトは1943年、イギリスのジェットエンジン技術が
完成をみてアメリカの製造業者がこれを利用できるようになったとき、
キャンセルされることになります。

この理由は後で説明します。

 

同年の、ウィリアム・R・デュランドが率いるジェット推進特別委員会NACAの創設は、
アメリカの取り組みを大幅に加速し、結果的に世界をリードすることになりました。

1941年2月25日、ヘンリーH.「ハップ」アーノルド航空副首席補佐官が
NACAの委員長であるブッシュ博士に書簡を送り、ジェットエンジン研究のため
特別なグループを形成することを指示しました。

この結果、NACAには陸軍航空隊、海軍航空局、国立標準局、
ジョンズホプキンス大学、マサチューセッツ工科大学、
および3つの米国の代表が参加して研究が行われることになります。

 

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サンフォードモス

アメリカにおけるタービンのパイオニアというと、

サンフォード・モス  Sanford Alexander Moss1872-1946

でしょう。

20世紀初頭においてタービンの研究を行い、
第一次世界大戦中にターボスーパーチャージャーを航空分野にもたらしました。

ライト兄弟がキティーホークで最初の飛行を成功させる前に
モスは今日の現代のジェットエンジンとして認識されている原型を
すでに考案していたことになります。

コーネル大学を卒業後、モスはゼネラル・エレクトリックに入社し、
エンジンとタービンの研究を行いました。

第一次世界大戦中に開発したエンジンターボスーパーチャージャーは、
戦闘機がより高高度に達することを目的にしていました。

そしてそれは高度の世界記録を目指す航空機や、
戦艦「ニュージャージー」での高高度爆撃試験に使用されましたが、
彼の仕事は、1939年にB-17にターボスーパーチャージャーが取り付けられ、
9時間14分の大陸横断記録を達成するまで完全に評価されませんでした。

彼はアメリカ国立航空殿堂にその名前を飾られ、第二次世界大戦後、
ターボチャージャーが航空機に広範囲に使用されています。

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Gerhard Neumann – The Fallen Ones

ゲルハルト・ノイマン Gerhard Neumann1917−1997

ノイマンはユダヤドイツ人です。

日中戦争で蒋介石が日本との戦いでエンジニアを必要としている、
と知った彼は、香港を経て大陸に向かい、フライングタイガースを作った
クレアリー・シェンノー大佐から中国空軍に支援することを頼まれます。

「ドイツ人ヘルマン」という渾名で呼ばれていた彼は、アメリカ航空隊のために
エンジニアとしてその知識と技術を惜しみなく提供しました。

たとえば、「アクタン・ゼロ」として知られる鹵獲した日本の零戦を
復元して飛行特性を調べあげ評価できるようにしたのは、何を隠そう
このゲルハルト・ノイマンでした。


1948年、ノイマンはマサチューセッツ州リンにあるGEの
ガスタービン部門のテストエンジニアとして働き始めました。

そこで彼は、ジェットエンジンの設計に多くの革新をもたらしました。
 彼の開発したJ79ジェットエンジンにより、たとえば
F-104航空機はマッハ2の対気速度に到達することができました。

 

アメリカという国があらゆる意味で大国になり得たのは、
民族主義に捉われないリベラルさと多様性を受け入れる懐の深さのおかげですが、
つい最近までドイツ人だった彼を、ゼネラルエレクトリックが
副社長にまでしているということも、この表れの一つではないでしょうか。

彼は副社長になってもエンジンのパフォーマンスを理解するために
テストパイロットとしてさまざまなジェット戦闘機を自ら操縦しました。

 

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レオナルド・”ルーク”・ホッブス 
Leonard S. (Luke)Hobbs 1896–1977

冒頭写真の

プラット&ホイットニーJ57(JT3)ターボジェットエンジン

こそ、ホッブスが世に出した最強のターボジェットエンジンでした。

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画像:ホッブズ、レナードS.

自作のJ57の前に(足をかけて)誇らしげに立つホッブス。

この最初のターボジェットエンジンは、二軸式、重量4536kg、
極めて成功したエンジンの一つで、ノースアメリカンのF100、
ボーイングB-52に動力を提供しました。

J57というのは認識番号で、航空機に搭載するためのエンジン名は
プラット・アンド・ホイットニー JT3Cとなっています。

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1951年3月、プラット&ホイットニーJ57を搭載して試験飛行で
初めて空を飛んだボーイングB-50の姿です。

 

ところで、開発が始まったものの、イギリスでそれが完成したので
中断してしまったアメリカのターボプロップエンジン開発についてですが、
戦争が終わった1945年12月にXT-31として試験飛行を行いました。

このT-31がアメリカ最初のターボプロップエンジンとなります。

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これはT34エンジンの「テストベッド」(試験機)となった
第二次大戦中のボーイングの爆撃機B-17です。

 

さて、このコーナーに展示してあるアメリカの飛行機はたった一つです。

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ベル P-59A エアラコメットAIRACOMET 1942

XP-59Aは最初のアメリカのジェット機です。
実戦に投入される機会はありませんでしたが、米軍空軍(AAF)と米海軍に
ジェット航空機技術の貴重な経験を提供し、より高度な設計への道を開きました。

冒頭にもあるようにアメリカはジェット推進の分野に入るのが遅かったのですが、
その理由は、指導者たちが新しい技術を急いで運用するよりも、
目の前の戦争に貢献するための従来の設計と量産に集中する選択をしたからです。

イギリスのグロスター・ミーティア戦闘機は終戦時にほんの少し参加し、
その頃日本は中島・橘花を2回試験飛行していました。
一方ドイツはジェット推進機で世界を独走している状態で、メッサーシュミット
Me 262ジェット戦闘機とアラドAr 234ジェット爆撃機の両方が
戦中にすでに運用可能な状態だったのはご存知の通りです。

 

しかしながら、1930年代半ばまでに、アメリカの推進技術者は
ジェットタービンエンジンの飛行機への適用の可能性を真剣に検討していました。

 

1941年4月、ハップ・アーノルドはイギリスに赴いてウィットルが設計した
W.1Xターボジェットエンジンを搭載したグロスターE.28 / 39を視察しました。

この結果、GEの新しいエンジンによる戦闘機建造が決定されたのです。
戦闘機の制作はベル・エアクラフトコーポレーションが選ばれました。

どこかで聞いたような経緯ですが、今回もベルが選ばれたのは、当時
航空機の開発と生産に他のメーカーほど忙しくなかったからです。
もう一つの理由は、彼らの工場がGEの近くにあったということでした。

そして、もう一つ評価されたことは、ローレンス”ラリー”・ベルの

「正統でないデザインを飛ばすことに対する熱意と評判」

だったそうです。

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Larrybell.gif
ローレンス・デール・ベル

GEはベル社を新型エンジンの「質の良いカバー」を作る事業として選定し、
1941年9月、ラリー・ベルはアメリカ初のジェット飛行機の設計を始めました。

しかし、肝心のGEがエンジンのテストをなかなか始めず、
事柄が事柄だけに情報がガッチリ機密扱いで、安全上の理由ということで
当初は風洞実験すら禁じられるというありさまだったそうです。

それでもベルはなんとか最初の飛行試験を行うことになりました。

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これがその時のエアラコメットですが、ご覧ください。
ジェット機なのにプロペラがついていますね。

ベルはダミーのプロペラを機首に取り付け、胴体を覆い隠し、
エアコメットを別の新しいピストンエンジン航空機に見せかけました。

メカニックは飛行直前に「プロペラ」を取り外し、飛行機が着陸した後
もういちど取り付けるという念の入れようだったそうです。

 

そうして1942年10月1日、ベルのテストパイロット、ロバートM.スタンリーが
XP-59Aを初めて空に飛ばしました。

結果は非公式高度記録を打ち立てるというものでしたが、陸軍は、
ベルの300機のP-59生産戦闘機を受注したいと申し出に対し、
100機だけしか発注できないと答えました。

最終的にベルは10,640 m(35,000フィート)、
最高速度658 kph(409 mph)で飛行する航空機を仕上げることに成功しました。

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アメリカ初のXP-59A、AAFシリアル番号42-108784は、
国立航空宇宙博物館に保存されています。(公開はされていない)

アメリカ初のジェット機を博物館に展示するために保存することを思いついたのは
他ならぬベルのエンジニアでした、
実験が完全に終わり、陸軍の許可が降りてから、博物館の倉庫に運ばれたとき、
エアロコメットの飛行時間はたったの59時間55分でした。

1976年に新しい国立航空宇宙博物館がオープンした際、
1945年当時から保存されていたXPー59Aは元どおりの姿に戻されました。

ちなみにこの写真には女性パイロットのマネキンが乗っていますが、
これは、WASPのオペレーションオフィサー、

アン・G ・バウムガードナー・カール
Ann G. Baumgardner Carl 1918-2008

です。

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彼女はテストパイロットとして、初めてジェット機を操縦した女性となりました。
ちなみに彼女の夫、ウィリアム・カール少佐はノースアメリカンの
ツインムスタングを設計した技術者です。

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続いてアメリカのジェット機について、もう少しお話しします。

続く。

 


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