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ロッキードXP-80 ルルベル〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の「ジェット機の歴史」コーナーには、
まず、こんなコーナーがあらわれます。

そしてドイツ・メッサーシュミットのMe262と仲良くならんで、

ロッキード XP-80 ルル-ベル(Lulu-Belle)

が」展示されています。

第二次世界大戦中はジェットエンジンの研究において、ドイツ、
そしてイギリスに大きく遅れを撮っていたアメリカは、
空中戦闘が可能な航空機の必要性を痛感しながらも、
独英が1939年の段階でジェットエンジン研究を終えていたのに対し、
新技術の開発と評価になかなか乗り出せない状況でした。

1941年、ロッキード・エアクラフトが、イギリスのエンジン
「デハビランド ゴブリンH-1B」を搭載したジェット戦闘機を建造する、
という計画について打診されたばかりなのに対し、ドイツはその2年後である
1943年に、すでにジェットエンジンを積んだ
ハインケルHe178を投入し実際に飛ばしていたという具合です。

 

そしてドイツが、1943年までにプロペラ迎撃機での対アメリカ戦略爆撃機の戦闘損失で
優位に立ったうえで、さらに強力なメッサーシュミットMe 262ジェット戦闘機を
配備しようとしているという情報を得たアメリカ陸軍ハップ・アーノルド司令は、
1日も早く新しいより有能な戦闘ジェットを推進するように
大号令をかけました。


そしてロッキードの主任調査研究員だったクラレンス”ケリー”・ジョンソン、
そして設計者と技術者28名の集団はこのプロジェクトに乗り出し、
ジェット航空機の製造をわずか143日という
驚くべき速さで完成させることになるのです。

ケリー・ジョンソンと設計チームは、1943年6月21日、
XP-80「ルルベル」というニックネームのプロトタイプの制作を開始しました。

彼らの作業所は「ケリーのサーカス小屋」と呼ばれ、さらにチームは
自虐ギャグがもとになった「スカンクワークス」がニックネームになります。

「スカンクワークス」も元ネタはコミックですが、この「ルルベル」も、
アル・キャップの "Lil 'Abner"(リル・アブナー)に登場する、
「リトル・ルル」から取られているのです。

リトル・ルル

リトル・ルルそのままだと著作権の問題があったので
ちょっとアレンジしてフランス語の「綺麗な」「美人の」である
『ベル』をつけたんですね。

ルル・ベル、XP-80の初飛行は1944年1月8日と受注の4ヶ月半後でした。

そしてルルベルは時速800kmで飛行したアメリカ初のジェット飛行機となりました。
操縦したのはテストパイロットのマイロ・バーチャムです。

初飛行の後、バーチャムと握手するケリー・ジョンソン(右)
ジョンソンはこの後、

「素晴らしいデモンストレーションでした。
私たちの飛行機は成功しました。
ドイツが長年のジェット飛行機の開発で得た一時的な利点を
一気に克服したほどの完全な成功です」

とその成果を誇らしげに語りました。 

テストフライトでXP-80は最終的に6,240 mで時速808 km の最高速度に達し、
水平飛行で500 mphを超える初めてのターボジェット動力のアメリカの航空機となりました。

ルルベルの革新的な「取り外し可能な尾翼」は、ゴブリンH-1Bエンジンに
簡単にアクセスすることを可能にしました。

ゴブリンエンジンは十分な台数が調達できたわけではなく、
しかも、その後のXP-80の進化形に搭載するには
決して十分なパワーがあったとはいえませんが、その後
戦闘機のほとんど全てがこの形となりました。

 

ちなみにプロジェクトは極秘で進められたため、制作をしていることは
ごく一部の人間にしか知られていませんでした。

ゴブリンエンジンを納入するためにやってきたイギリス人のエンジニアは、
ロッキード社に怪しまれ、警察に勾留されるという目に遭っています。

スミソニアン博物館では当時のままの機体のペイントを見ることができます。
この緑色のため、「ルルベル」は別名「グリーンホーネット」とも呼ばれていました。

スタッフに若い人が多く、当時の「コミック世代」だったってことですかね。

スミソニアンHPより。

第412戦闘機グループのパイロットは、ルルベルを叩き台にして
ジェット機の高度な戦闘戦術とプロペラ駆動機の新しい防御技術を開拓しました。

この写真は、現在スミソニアンにあるルルベルの最終的な状態と同じです。

XP-80の初めてのテストフライトは大成功でしたが、この後、XP-80が
F-80「シューティング・スター」となるまでの実験では
偉大なパイロットが失われるという悲劇的な事故が続いています。

2番目にテストされたXP-80Aと呼ばれるプロトタイプは、アメリカ製で
より大きなGeneral Electric I-40エンジン用に2機設計されたうちの一機でした。

 うち1機「シルバーゴースト」とあだ名された機体をテストした
「ルルベル」のテスト飛行のときのパイロット、マイロ・バーチャムは、

「(XP-80とくらべ)まるでこれは’犬になってしまった’ようだ」

と語りました。

つまりエンジンが大きくなって動きが鈍重になり、パイロットとしては
操作性という点で「面白くない」ということだったのかもしれません。

しかし、1944年10月に行われた3番目のYB-80Aは、テスト飛行の際、
主燃料ポンプの故障により離陸時にエンジンが失火し、
ターミナルの1マイル西で墜落し、操縦していたバーチャムは殉職しました。

Test & Research Pilots, Flight Test Engineers: Milo Burcham 1903-19441903-1944(-人-)RIP

そして、バーチャムが「犬のようだ」と表した「グレイゴースト」もまた、
翌年のテストフライトで墜落し失われましたが、このときのパイロット、
バーチャムの後任、トニー・ルヴィエは脱出に成功し、命は助かっています。

この墜落の原因は、飛行中エンジンのタービンブレードの1つが故障したもので、
航空機の尾部に構造的な障害が発生したために起こりました。

 機体はハードランディングし、ルヴィエは背中を骨折しましたが、
6か月の回復の後、テストプログラムに戻ることができました。

Richard Bong写真の肖像画の頭と肩.jpg

ところで、このブログをお読みになっている皆さんは、おそらく
リチャード・ボングという名前に覚えがあるのではないでしょうか。

リチャード”ディック”・アイラ・ボング少佐
Richard 'Dick' Ira Bong(1920−1945)

は、P-38戦闘機で太平洋地域、ことにポートモレスビーで名をあげました。
日本機を通算40機撃墜し、アメリカ航空隊のエースになった人です。

ラエ基地の日本機を4機撃墜したということもわかっており、
これはあの台南航空隊の所属機であったことは明らかです。

 

アメリカ軍は、多大な戦果をあげた搭乗員に対しては勲章を与え、
褒賞の意味で、後方基地で教官職につけるという待遇に処していたそうですが、
ボングもまた1945年、軍の計らいで一線を退き、戦地から帰ってきて、
戦時国債のための広報活動を行うというような日々を送っていました。

当時婚約者だったマージ・バッテンダールと結婚しおそらく幸せの絶頂だったでしょう。
彼はホームカミングで出会った美人の婚約者が自慢でたまらず、臆面もなく
P-38のノーズに彼女の写真を貼り付け、機体を「マージ」と名付けていました。

Wisconsin's Richard Bong became Pacific aceでれでれっす

しかし残念ながら、彼は飛行機で死ぬ運命から逃れられませんでした。

1945年8月6日ーそれはアメリカが広島に原爆を落とした日ですがー
そのころ、ロッキードでテストパイロットをしていたボングは、
12回目となるP-80シューティングスターのテスト飛行を行いました。

このときすでに彼はジェット機で合計4時間15分の飛行時間を経験していました。

彼の操縦する機体が離陸したとき、主燃料ポンプに不具合が生じます。
しかしボングはなぜか補助燃料ポンプに切り替えることをしなかったため、
機体はすぐさま失速を始めました。

これは、彼が切替えるのを忘れたか、何らかの理由で
切り替えられなかったと考えられています。

すぐさま彼は機体から脱出しましたが、パラシュートが開くには遅すぎ、
地上に落下して死亡し、25歳の生涯を閉じたのでした。

彼の死は全国の新聞のトップ記事で報じられました。
そのニュースはおりしも日本時間8月6日に落とされた
広島への原子爆弾投下の報道とと第一面を共有しました。

 

バーチャムの事故もボングのときも、故障したのは主燃料ポンプでした。

バーチャムのときには、緊急用燃料ポンプのバックアップシステムが
新しく設置されていたことを彼に説明していなかったため、
彼は対処のしようがなく墜落に至ったわけですが、ボングの場合は
本人がこのポンプの電源を入れるのを忘れていた可能性
があるそうです。

このことは、やはり8月6日に飛行した同僚のレイ・クロフォード大尉が、
ボングが以前のフライトで

「I-16ポンプをオンにするのを忘れた」

と言っていたのを聞いていて、このときもそうだったのだろう、
とコメントしたことで裏付けられる結果になりました。

つまり、両者の事故死の直接の原因は機体の不具合ではなく、
どちらもヒューマンエラーであったことになるのですが、
特にボングの場合、手順をミスしただけでなく、事故が起こってから
慎重で冷静なパイロットであればあるいはできたはずの、
最悪の状態を回避するための対処も全く行わないまま死に至りました。

このことをもって撃墜王はテストパイロットの適性に欠けていたと思われる、
というのは亡くなった者に対し少々残酷な評価でしょうか。

スミソニアンでは、Me262に立ち向かうために計画されたXP-80の隣に、
その御本尊であるMe262が展示されています。

戦後、USAAFはP-80とMe 262 Aを比較し、

「総重量に900 kgの差はあるものの、Me 262とP-80は
加速、速度、おおよそ上昇のパフォーマンスは同じである。

Me262は、現在の陸軍空軍戦闘機よりも、抗力の観点から、
明らかに重要なマッハ数 を持っている」

と評価づけました。

結果的にMe262の優秀さを素直に認めたということになります。

 

続く。


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