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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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昭和2年海軍兵学校発行 旅順閉塞作戦記念アルバム

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オークションというものをあまり利用したことがないわたしですが、
何かを検索していてふと、お宝物(と当方には思える)の古書が
ほとんど競り合う相手もない状態で出品されているのをみつけ、
入札して手に入れることがたまにあります。

この「旅順港閉塞作戦記念帳」なる写真集もその一つで、
出品者はよくあることですが古書店でした。

わざわざオークション買いする気になった理由は、この写真帳、
発行元が海軍兵学校となっており、しかも発行月日は昭和2年という年代物だったから。

もしかしたら現在巷に出回っている以外の写真も掲載されているのではないか?
と考え、古書の割にお値段が手頃なこともあって入札することにしました。

何日かして送られてきた本は、ビニールで厳重に梱包されていましたが、
何気なく本を引き出すと、劣化した紙がボロボロと崩れてきて、
ページが一部欠損してしまっている状態でした。

外側の分厚い表紙は触るとそこから乾いた粘土のように欠けていき、
古書の割に安価だった理由に納得がいったというわけです。

とりあえず時間に余裕がある時しか触ることができそうにないので、
機会を窺っていましたが、コロナ自粛も解け、家人が仕事に出るようになり、
(自粛中って家事が無茶苦茶増えませんでした?)アメリカから帰国した
息子の生活も落ち着いたある日の午後、意を決してこの本を広げることにしました。

 

大きなゴミ袋を敷き、埃除けのマスクと手袋を着用、
本の「かけら」や崩れた部分を吸い込むために先にブラシを取り付けたハンディ掃除機、
さらにページを抑えるためのアクリル板を用意し、いざ。

時々真っ黒ななにか(埃がカビ化してそれが固まったらしきもの)
を掃除機で吸いこみ、汚れを取り除いて字を読める状態にし、スキャンしていきました。

幸い劣化で欠損した部分はそれほど多くなく、写真は全部無事でした。

 

というわけで苦労しつつ取り込んだ画像をここで紹介します。

いきなり一番最後のページですが、編集発行が海軍兵学校であり、
内部で配るために作られたのか、非売品となっています。

撮影者となっている稲田写真館については、現在中通りにある
稲田写場という写真館ではないかと思うものの、HPを拝見すると
開業が昭和6年となっていて、それではこの昭和2年、創業より4年前なのに
すでに存在している稲田写真館は別物なのか?と言う疑問も湧きます。

 

ちなみにこの稲田写場HPでは、かつての海上自衛隊や、
呉大空襲で燃え盛る呉の町の写真を観ることができます。

海上自衛隊

リンク先を是非ご覧ください。
昔は教育隊敷地の中に人が入り放題だった模様で、体操している隊員の横で
子供が普通に遊んでいたりしています。
初期のガトー級潜水艦が係留されている光景も残されています。

それから、教育隊の屋根に「(グラウンドに)着陸するな」と書いてあります(笑)

 

「不許複製」はもちろんコピー禁止の意味ですが、製作から70年で
保護期間は余裕ですぎている上、海軍兵学校は存在しないので無問題ってことで。

昭和2年当時兵学校長だった鳥巣玉樹中将が序文を寄せています。
現代語に翻訳して載せておきます。

生徒が帝国海軍の光輝ある歴史に親しみ、さらに
その伝統精神について深く知るため、本校においては従来
重要な戦闘の記念日には教育参考館の特別陳列を行い、
歴戦者の講話を聴取することを恒例としてきました。

本年5月3日もまた明治37−8年戦役における
第三次旅順閉塞戦が行われた日が巡ってきましたので、
教育参考館の陳列を行い、尚広く閉塞戦に参加された方々に
記念品の出品をお願いしたところ、皆様方より
多大の好意を寄せられ、数十点の陳列品が集まりました。
どれも当時の壮烈な戦いを語る貴重な記念品でございます。

即この機会を利用してこれらを撮影し、東郷元帥閣下に
題字をお願いして記念帳を作成しこれを配布することにいたしました。

海軍兵学校長 鳥巣玉樹

 

この年、第三次旅順作戦23周年記念に際し、教育参考館に展示するため、
思い出の品の寄付をそのころまだ健在だった関係者にお願いしたところ、
思ったよりたくさん集まったので、この際写真を撮って記念アルバムを作り、
後世に残すことにしました、ということのようです。

 

目次です。

なにしろ2020年の今日から数えて93年前の本で、おそらくは
蔵書として扱われることなく、蔵の一隅で年を経たと思われ、
湿気が紙を侵食してこのような状態になってしまっております。

しかし、全体を見れば、この部分の被害が一番大きく、
何が書いてあるかわからなくなっている部分は幸運にもごくわずかでした。

「急遽お願いして書いてもらった」という東郷元帥の題字です。

断じて行えば 鬼神も之を避く

これはわかりますが、後半がどうも読めません<(_ _)>

 

ところで、冷徹に作戦として評価すれば、閉塞作戦というのは結果的にあまり
効果がなかった、というのが後世の評価になっています。

戦後23年になっても、この頃の日本、ことに犠牲者を出した海軍では
このことは言ってはいけないことになっていたようですが、
東郷元帥自身がこの作戦をどう思っていたのか、ちょっと気になります。

閉塞作戦が悉く失敗に終わった事から、軍港の戦艦を無力化するには
陸上から攻撃するしかないという認識となり、その後日本軍は
旅順要塞を攻略して旅順のロシア太平洋艦隊を殲滅することができた、
つまり結果よければ全てよしで語られていたのか・・・・・。

 

ちなみにこの前半の「断じて行えば」は第二次旅順閉塞作戦の前に、
発布された聯合艦隊命令の一節として、特に元帥にお願いして
揮毫していただいた、と説明がありました。


つぎのページは第一、第二、第三次にわたる「戦要表」、つまり
参加人数と指揮官、機関長名、参加船のスペックなどの一覧表、
そして実際に閉塞のために沈めた船の位置を記した地図です。

旅順港外泊地に沈没せる閉塞船の位置

露国海軍軍令部編纂露日戦史より採れるものにして、
露国沈没汽船は次後の閉塞妨害の目的を以て沈設したるものなり。

日本側の攻撃の後、ロシア側が日本の閉塞作戦を行わせないように
自分たちで防御のために沈めた船の位置も記されています。

掲載されている写真が不明瞭で字が読めないのですが、
湾口左側には第一次作戦で沈めた「報国丸」、
第二次作戦の「弥彦丸」「福井丸」「千代丸」、
第三次作戦の「愛国丸」の位置が一応その気になれば確認できます。

第一次作戦は2月24日、第三次作戦は5月3日なので、
その間ロシア側が閉塞作戦を防ぐために閉塞を行っっていたんですね。

閉塞には閉塞を、ってか?

余計に自分たちが外に出にくくならないかとか考えなかったのかな。

さて、次のページにドーンと登場するのが有馬良橘海軍中佐の御真影です。

「第一次閉塞隊総指揮官兼天津丸指揮官」

「第二次閉塞隊総指揮官兼千代丸指揮官」

とキャプションがあります。
この有馬良橘については、あの「坂の上の雲」で、司馬遼太郎が散々
無能者扱いし、ついでに歴史をねじ曲げてしまったことについて、
防衛省の資料をもとにその悪行(だよね)を糾弾させていただきました。

旅順閉塞作戦〜その後の有馬参謀


なんなら再読していただければわかりますが、このときに明らかにしたのは、

閉塞作戦を立案したのは有馬良橘か伊集院五郎のどちらかである可能性が高い、
と戦後15年になって財部彪ら海軍大将が語っている

秋山真之は在米中閉塞作戦について研究したが、この作戦に
かかわったり意見を述べたという証拠は全くなく、
全てそれは司馬遼太郎の創作である

ということです。

なのに、今あらためて旅順港閉塞作戦のwikiを見たら、

秋山は(閉塞作戦による)封鎖はリスクが大きいと考えていたが、
二等戦艦「鎮遠」を用いて湾口を閉鎖する作戦を計画し、
有馬良橘中佐は機密で旅順の実地調査を行って封鎖作戦を研究し、
1903年(明治36年)にバラストを満載した古い艦船を湾口に沈め、
幅273mの旅順港の入り口を閉塞する作戦を軍令部に対して提出していた。

ともっともらしいことがかいてあるではないですか。

これ、いっときますけど、財部らは戦後15年になっても、
閉塞作戦の立案者を知らず、有馬の出したという計画書にも
第一案には閉塞作戦が含まれていなかったとか言ってますからね。


加えて「坂の上の雲」をそのまま鵜呑みにすると、閉塞作戦が失敗したので、
有馬良橘が左遷されたような印象操作にまんまと騙されがちですが、
わたしが糾弾したように、そんな事実は一切ありません。

なにより、この記念帳のように、戦後何年経ってもこのように
閉塞作戦参加の勇士は称えられ、後進の模範となっていたわけです。

日露戦争を勝利に導いた閉塞作戦がそもそも「失敗」などであろうはずはないのです。

続いて閉塞作戦の指揮官たちの写真です。

右;

第一次閉塞報告丸指揮官
第二次閉塞福井丸指揮官

海軍中佐 廣瀬武夫

左;

第一次閉塞仁川丸指揮官
第二次閉塞弥彦丸指揮官

海軍大尉 齋藤七五郎

あまりにも有名な廣瀬中佐と並んでいる齋藤大尉は、
兵学校では恩賜の短剣組(3番)、海大では首席という秀才で、
日露戦争では第一艦隊参謀を務め、閉塞作戦の時には
作戦策定の段階から加わっていました。

閉塞作戦の指揮官は海外武官経験者や成績優秀者など、
出世まちがいなしの人材が選ばれていたようです。

齋藤七五郎もこのままいけば海軍大将間違いなしの逸材でしたが、
軍令部次長の時代に胃癌で現役のまま逝去して中将で海軍人生を終えました。

ちなみに廣瀬が第一次作戦で指揮した「報国丸」は
湾口の中央になんとか自沈させることができましたが、進行方向と並行で、
齋藤の「仁川丸」「弥彦丸」は湾口を塞ぐという決定打にはいたりませんでした。

右 第一次閉塞武揚丸指揮官
  第二次閉塞米山丸指揮官

海軍大尉 正木義太(まさきよしもと)

全ての指揮官が第一次、第二次と二回とも参加していますが、これは
東郷元帥の

「唯士官以上は其の請願の極めて切なると、
前回の経験により行動に利する」

つまり、指揮官は事情を良く知る経験者がいいだろうということになり、
士官は第一次作戦従事者がもう一度参加することを決められたためです。

閉塞作戦の後順調に出世していた正木ですが、
「河内」艦長時代、「河内」が徳山湾で爆沈すると言う事故があり、
そのせいなのか、中将で予備役に編入されています。

閉塞作戦では「武揚丸」を沈底させることに成功した、といいたいところですが、
実は第一次作戦においては閉塞隊はロシア軍が陸から照らす探照灯に方向を見失い、
山上の砲台の攻撃を受け、予定場所に自沈させることができなかったと言うのが現実でした。

左 第一次閉塞武州丸指揮官
  第二次閉塞千代丸指揮官附

海軍中尉 島崎保三

ところで、この島崎中尉と、さきほどの齋藤大尉について、
ちょっとお話ししておかなければならないことがあります。

第一次作戦では混乱に陥り、「武州丸」「仁川丸」は一応自沈させたものの、
収容するはずの船が攻撃を行ったりしているうちに乗員を見失い、
聯合艦隊は翌日も捜索を行いましたがみつかりませんでした。


「武州丸」「仁川丸」の乗員たちは砲火を避け隠れながら洋上を彷徨った後、
偶然遭遇して合流し、ジャンク船等を使って清国の煙台にたどり着き、
現地で領事と海軍武官に連絡を取り、帰還を果たすことができたらしいのですが、
このときに清国で齋藤大尉、島崎中尉は、「宣誓帰国」、つまり

「帰国してもわたしは戦闘に参加しません」

と中立国に宣誓したうえで国に戻してもらえるという手続きを踏んで、
帰らせてもらっているのに、ちゃっかり第一次作戦から40日後に
第二次作戦に二人とも参加しているのです。

これって国際法違反なんじゃね?と思うわけですが、当時の軍人にとって、
国際法より東郷元帥の命令の方が絶対ですので(たぶん)仕方なく
(だったかどうかはわかりませんが)続け様に作戦に参加することになりました。

齋藤大尉は普通に第二次作戦でも指揮官として参加していますが、
島崎中尉の方はなにか思うところあったのか、指揮官ではなく
有馬良橘閣下附という配置での作戦参加となっています。

 

ところで、この二人が清国から宣誓中立によって帰国したことは
海外のメディアに嗅ぎつけられてしまい、その結果として全てを報じられ、
陸軍にも秘匿していた閉塞作戦が明るみに出ることになってしまいましたとさ。

 

 

続く。

 

 


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