古本屋がオークションに出品した昭和2年海軍兵学校発行の
「旅順閉塞戦記念帳」を最初からご紹介してきましたが、
この写真に行き当たったとき、わたしは他の作戦前記念のそれとは
随分雰囲気の違う場所で撮られたようだと感じました。
フランス窓のある西洋造りの建物の廊下に、士官二人を中央に座らせ、
海軍の序列は守りながらも、何人もが刀や銃を手にし、何人かは
壁にもたれるなど、公式の写真にはない並び方であることや、
何より彼ら全体から立ち昇る「殺気」のようなものが異様です。
あらためて説明を読んでみました。
「芝罘(しふう)帝国領事館に於ける仁川丸及び武州丸乗員
第一次閉塞結構後、両船乗員の乗れる短艇は不幸にして収容に洩れ、
老鐵山(ろうてつさん)南方の北隍城(ほっこうじょう)に漂着し
此処より『ジャンク』四隻にて登州に渡り陸行して
芝罘帝国領事館に至りしものにして幹部は齋藤大尉、
島崎中尉、南澤大機関士、杉少機関士なり。」
それにしても芝罘帝国とはなんぞや。
というかこの漢字見るのも初めてで読み方も「ふ」であろうことしかわかりません。
というわけで、「手書き検索」で調べたところ、
「罘」=ふう・うさぎあみ
と読むことがわかりました。
意味は・・・うさぎを獲る網のことだそうですorz
それでさらに検索すると芝罘とは中華人民共和国山東省煙台の
旧名であったことがわかりました。
つまり、この写真はすでにお話ししたところの、
収容され損なった「仁川丸」「武州丸」の乗員たち
であるということです。
偶然合流することができた両船の乗員たちは、協力して清国に辿り着き、
四隻のジャンク船をチャーターして上陸し、領事館に辿りついて
無事たどり着いた記念に写真を撮ったというわけなのです。
仁川丸・武州丸指揮官
漂流してきたわりには皆こざっぱりと軍服を身につけているのが不思議ですね。
士官の右側は「仁川丸」指揮官の齋藤七五郎大尉。
ちゃんと飾尾のついた軍服で写っています。
この格好のまま作戦を行い、この格好で流されてきたのかしら。
左の人の方が偉そうですが、こちらは「武州丸」指揮官、
島崎保三中尉です。
此処に写っているメンバーの下士官兵は帰国後解散し、
第二次作戦に参加したのはこの二人の士官、並びに
南澤安雄大機関士(機関大尉)、杉政少機関士(機関少尉)
だけとなりますが、前述したように、彼ら4人は
日本に帰国をするにあたって、中立国の清に対し、
「帰国する目的は戦闘の参加ではありません」
(=帰っても戦争には行きません)
と宣誓しておきながら国際法違反していることになります。
首に包帯している人が一人だけいます。
領事館に来るまでの道中、怪我をしてしまったのでしょうか。
それにしても、全員に漲る気迫が凄い。
死地を脱して尚士気盛んな様子が溢れています。
この段階では全員が次回も参加するつもりだったに違いありません。
「報国丸」乗員
第一次閉塞作戦の時の「報国丸」の乗員です。
廣瀬指揮官(中央)
腕組みをしている廣瀬指揮官の隣に機関長がいますが、
実を言うと皆さんよく閉塞作戦の資料で見ているはずの人なのです。
種明かしは後に譲るとして、第一次作戦のときの「報国丸」は
四隻の参加船の中で唯一、湾口に自沈させることのできた船でした。
この写真帳の解説によると、乗員のうち3名、
「角久間二等兵曹」「藤本一等機関兵」「武野二等機関兵」
が負傷したということです。
廣瀬の左側に複雑な怪我をした人が一人、(鼻の下とか)
この人がおそらく角久間二等兵曹、その左の全身包帯の人(火傷でしょうか)
が藤本一等機関兵、簀巻にされて戦友二人が心配そうに見下ろしているのが
武野二等兵であろうと思われます。
海軍はこういう写真も厳密に階級を反映しますから。
第二次作戦後の「福井丸」乗員
そしてあまりにも有名なこの写真です。
説明をそのまま記します。
「第二次閉塞後に於ける福井丸乗員
前列の一人が手にせる小箱の大なるは廣瀬指揮官の肉片
又小なるは杉野指揮官附の遺髪を収めたるもの
簀巻の負傷者は栗田機関長にして、左右の棺は
菅沼一等信号兵曹、小池一等機関兵の遺骸なり」
この写真については以前閉塞作戦についてお話ししたときに
全く同じ情報をここで書いたわけですが、「簀巻の人」が
機関士官であることは今回初めて知りました。
第一次作戦で廣瀬の右側で写真を撮っていた栗田大機関士だったのですね。
栗田富太郎
この栗田機関士についても経歴がわかりましたので書いておきます。
青森県弘前に生まれ、幼少の頃に父を亡くす。
母は再婚を勧められるも応ぜず、遂に自刃した。
東京に出て苦学し海軍を志したが20歳を過ぎていたため
海軍兵学校をあきらめ、明治24年近衛工兵隊として陸軍に入隊した。
翌年、海軍機関学校生徒募集に最優等を以て合格し
初志の海軍への道を歩み始める。
29年海軍機関学校を卒業、日露戦争では旅順港閉塞作戦で
「福井丸」に乗船し、敵弾により重傷を負った。
大正4年、海軍機関大佐に昇進し練習艦隊機関長、機関校練習科長、
第1艦隊と第2艦隊の機関長を経て大正9年、海軍機関少将に昇った。
舞鶴鎮守府機関長を務めて予備役編入となった。
昭和7年11月に62歳で逝去。
閉塞作戦にいかに優秀な機関士官が参加していたかがわかります。
写真は有名ですが、簀巻の人にまで言及している資料がなかったので、
また一つなんの役にも立たないとはいえ知っておきたかった知識が増えました。
第二次閉塞作戦総指揮官と「千代丸」乗員
第二次作戦で指揮官有馬良橘が座乗しいていた「千代丸」乗員です。
第二次作戦では「千代丸」は1番船として砲台や敵駆逐艦からの砲撃を受けながら
前進したものの、港口を発見できないまま、港口から100mの地点で自爆しました。
この頃の軍人はどんな写真でもにこりともせず悲痛な顔で写っていますが、
特にこの写真の全員が特に暗いように見えるのは、作戦失敗のせいもあったかもしれません。
しかし、この写真で見る有馬良橘閣下は大変イケメンでいらっしゃいます。
昔、「坂の上の雲」で有馬を加藤雅也が演じたことについて、
「山口多聞を阿部寛が演じる世界だから」
などとあの放送事故レベルのキャスティングと並べて語ってしまいましたが、
この写真を見る限り加藤雅也が演じたって何の違和感もありません。
(というか、むしろモッくんが演じてもいいくらい?)
そして有馬閣下の左は指揮官附である芝罘(しふう)帝国帰りの
島崎保三中尉。
総指揮官が乗っているので「千代丸」に指揮官はいません。
そしてこの短艇は「千代丸」乗組の閉塞隊員17名が
有馬良橘とともに引き揚げに使ったものです。
大きさは正確にはわかりませんが、この短艇で一晩海を彷徨い、
誰一人として脱落せず異国の地に漕ぎ着いて命を存えた
「武州丸」と「仁川丸」の乗員はさすがに凄かったと思わずにいられません。
だてに初等教育の頃から死ぬほどカッター漕ぎさせられてる海軍軍人ではないですね。
第二次閉塞「米山丸」乗員たち
「米山丸」だけ、船を中心に全員の写真が残されていました。
指揮官は正木義太大尉、そして指揮官附として島崎保三中尉、
機関長は第一次作戦の時に軍帽で短艇の海水をかい出して
帰還を果たした杉少機関士です。
第二次作戦で「米山丸」は港口水道中央で投錨したところ、
被雷し、水道左岸で沈没したとされます。
本作戦における戦死者は15名ということですが、「米山丸」の
乗員の犠牲者が一番多かったのではないかと推察されます。
今回そのことを調べるためにアジ暦の資料を当たったのですが、
どういうわけか廣瀬少佐の姓名だけしか記載がなく、
下士官卒の戦死者については全く記録が残っていません。
それどころか閉塞隊員の戦死者は3名となっているのが大いに謎です。
もしかしたら、その三名とは、
廣瀬少佐(肉片があるから?多分死亡)
菅沼一等信号兵曹と小池一等機関兵(遺体があるから死亡確定)
であり、
残りの12名は記録作成の段階では遺体がない=
行方不明・未帰還扱いでまだ生死不明
という扱いになっていたのかもしれません。
左上は杉機関士が短艇の海水をかい出した軍帽ですが、
それ以外の寄贈品は、「米山丸」の司令官、正木大尉が着用していた防寒頭巾、
下は同じく正木大尉の防寒胴衣です。
この記念帖作成の頃すでに中将になっていた正木氏は、
これらの記念品を兵学校の求めに応じて寄贈しました。
なお、正木大尉は「米山丸」が港口に差し掛かったとき、
敵の銃弾が左耳をかすめ、右肩を貫かれて怪我をしていますが、
帽子と胴着にはそのときの血液が付着しています。
しかし「貫かれた」というわりには血液が少ないような気もします。
右上:廣瀬中佐が兵学校時代所持していた「勅諭寫(写)」
いわゆる軍人直喩のハンディ版?を直喩写といって皆がもっていたようです。
「日本男児百も拝読して急く可からず」
は廣瀬自身が記したものでしょうか。
上中:廣瀬中佐遺書「航南私記」
廣瀬中佐の少尉時代の詩文を集めたもの。
左上:軍艦朝日艦内通達簿
廣瀬中佐以下6名が閉塞作戦のために退艦したことを記録したページ
下:廣瀬中佐から八代海軍大佐に贈った書簡
右上:閉塞船として徴用する際、下船した「福井丸」の船長に
廣瀬が与えた遺墨
下:廣瀬中佐の血潮で染まった栗田機関長の軍服上下。
栗田機関長は廣瀬の隣にいて重傷を置い、廣瀬は直撃弾を受けて死亡した。
左:廣瀬中佐の肉片と血痕が付着した海図
「肉片」「血痕」とわざわざ付箋を貼って説明しています。
今でもこれは江田島の教育参考館に秘蔵されているのでしょうか。
そして東郷平八郎連合艦隊司令長官が閉塞作戦後発した感状です。
いかにも適当な人(あまり達筆ではない)が急いで作った風で、
東郷平八郎の署名もなんだかぞんざい(というかヘタ)なのが気になりますが。
読みやすいように現代文で書き直しておきます。
感状 第二回閉塞船隊
明治37年3月37日、危険を犯して旅順港第二次作戦を決行し、
その目的の一部を遂げただけでなく、特に廣瀬海軍中佐の指揮した
「福井丸」はますます武人の意気を発揮して後世に艦隊の模範を残し、
その無形の効果は実に偉大なものであることを認め、ここに
感状を授与するものである
明治38年1月12日 聯合艦隊司令長官東郷平八郎
続く。