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第三次閉塞作戦 「悲劇の朝顔丸と新発田丸」〜旅順港閉塞戦記念帖

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ごぞんじのように閉塞作戦は三次にわたって行われ、
後に行くほどロシア側の警戒と反撃も大きくなったため、
日本側の規模を拡大しただけ犠牲も大きくなっていったわけですが、
wikiなどを見ても、第三次作戦の扱いは廣瀬中佐の戦死があった
第二次作戦に比べると記述の量が圧倒的に少なく、簡単です。

「第三次閉塞作戦は、5月2日夜に実施された。
12隻もの閉塞船を用いた最大規模の作戦であったが、
天候不順により総指揮官の林三子雄中佐は作戦の中止を決断する。
しかし、中止命令が後続艦に行き渡らず閉塞船8隻及び収容隊がそのまま突入した。
結局それらの閉塞船も沿岸砲台によって阻まれ、湾の手前で沈められた」

wikiでも作戦の推移についてはこれだけ。

しかし、わたしがオークションで手に入れた昭和2年発行の
海軍兵学校発行「旅順閉塞作戦記念帖」には、やはり一番多く
そのページを割いて写真などが掲載されています。

まず、第三次作戦のパート最初に現れるのが、冒頭の

第三次閉塞総指揮官 

海軍中佐 林三子雄(はやしみねお)

で、林中佐は第一次・第二次を務めた有馬良橘中佐の後任として参加しました。

まず、第三次作戦の失敗の原因は、総指揮官であった林中佐が悪天候のため
決定した「行動中止」の命令が全軍に伝わらなかったということです。

しかしどの記述を見ても「後続艦に命令が伝わらず」
としか書かれていないので、当ブログではもう少し深堀りして、
この時の状況を細かく推理してみることにします。

まず、閉塞船間の通信は手旗と発光信号に頼っていたはずです。

後年日露戦争の勝因のひとつ、とまでいわれる36式無線が完成したのは
1903年、本作戦の一年前で、その気になれば搭載できたのかもしれませんが、
そもそも閉塞目的で自沈させる予定の船に最新秘密機器を搭載することは
現実として不可能だったと考えられます。

余談になりますが、欧州発祥の海事手旗信号を日本に最初に取り入れたのは
島村速雄であり、アルファベットだったそれを現在の形にしたのは
なんと第一次・第二次閉塞作戦の指揮官だった有馬良橘その人だそうです。

有馬は、手旗信号に使用する文字は直線で表現できるカタカナが適当と考え、
「セマホア式手旗信号」を基本に、いかに片仮名に適用できるか
種々研究を重ね、実験を繰り返したといわれています。
(wikiの手旗信号の欄に記載されている釜谷忠通はこの後の制定を行った)

 

しかし手旗信号、発光信号の欠点は、天候や波などの条件に成否が左右されることです。

 

そこで三次作戦において指揮官船から後続の船に送られた
「行動中止命令」が順番に4番船まで伝わったところから想像してみましょう。

おそらく指揮官が行動中止を決意するくらいの荒天下であったことが災いして、
後続の船は手旗を受け取れるような船位におらず、そこで連絡網が途切れ、
通信ができなかった5番船以降の閉塞船8隻は、予定通り旅順湾口に進んでいったのです。

不幸だったのは、後続部隊が反転した指揮官船隊すら発見できなかったことで、
これも波風が高く互いの航路が離れてしまった結果でしょう。

そしてこの後です。

前にもこの経緯については当ブログで解説していますが、再び触れておくと、
林中佐は反転したのち後続船が少ないのに気付き、再び反転して後を追いました。
しかし「新発田丸」の舵機の故障で、追いつかないまま全てが終わってしまったのです。

全てが終わった5月3日の午前5時30分、旅順口外で漂泊していた
「新発田丸」が発見され、すぐに乗員が収容されました。

作戦後、上層部は「高砂」に

「新発田丸の舵機を検査し、もし修理の見込みがなければ曳航するように」

と指令を出していますが、「高砂」だけでなく「赤城」も、
「新発田丸」が作戦に参加できなかった理由を報告しているものの、
同船の「曳航の要無きを観て直に帰隊せり」としています。

作戦には参加できないが、取り敢えず曳航はしなくても自航走できる、
という程度の故障であったということでよろしかったでしょうか。

 

ところで突然ではありますが、過去当ブログ記事の訂正とお詫びをしておきます。

前回当ブログで林中佐について書いた時、わたくし、実は
「三笠」艦内の資料を参考に(←この部分大事)

「林中佐は新発田丸で閉塞作戦中戦死した」

と書いてしまったのですが、これは間違いであることがたった今わかりました。
林中佐は閉塞作戦では亡くなっておりませんでした。


林中佐はこの作戦の直後、本来の配置であった「鳥海」の艦長に戻っています。
そして南山攻撃援護戦でロシア軍の砲撃を受けて戦死したことが、
アジ暦で検索できる当時の死亡報告書に記載されていたのです。

何を言ってもちゃんと調べなかったわたしが悪いので言い訳にしかなりませんが、
「三笠」に展示してあったこの林中佐のブロンズ像の説明に、
「新発田丸」の乗員が戦死した中佐を偲んで贈ったとだけ書いてあったので、
てっきり「新発田丸」の帰路戦死したのかと勘違いしてしまったのです。

実際は閉塞作戦直後、自分たちを無事に作戦から連れ帰った指揮官が
戦艦の艦長に戻ってすぐ戦死してしまったので、隊員たちは
林中佐に対する感謝を込めて像を作り、遺族に贈ることにしたというわけです。

うーん、「三笠」の解説はちょっといやかなり説明不足であるような気が・・。

此の写真は指揮官船であった「新発田丸」の乗員一同です。
こういうときの海軍の慣習として、指揮官と幹部は中央に位置します。

つまり、中央の幹部は

「新発田丸」指揮官 遠矢勇之助海軍大尉

指揮官附 中村良三海軍大尉

機関長 河井義次郎機関少監

ということになります。

ところでこの記念帖、全閉塞船12隻の指揮官、そして指揮官付きのうち、
大アップで写真が掲載されているのは8隻だけで、
「新発田丸」の指揮官ならびに指揮官附の写真はありません。

これだけの危険な大作戦に参加したのであるから、
指揮官の写真くらい全員載せてしかるべきだと思うのですが、
どうしてこのような恣意的な選抜が行われているのでしょうか。

このことを推理する前に、第1小隊の3番船だった
「朝顔丸」についてお話ししましょう。

第三次閉塞朝顔丸指揮官

海軍少佐 向菊太郎

わたしが三次作戦について初めて知った当時、最もその悲劇性に胸打たれたのが
「朝顔丸」とこの向菊太郎少佐についての運命でした。

向少佐率いる「朝顔丸」は、指揮官から作戦中止の命令を受け取りました。

そして一旦は帰投に向かいましたが、間違って突入した僚船がいることを知ると、
彼らを置いていくことはできぬと再び反転し、仲間の後を追ったのです。

「海軍少佐向菊太郎の指揮せる二番船朝顔丸は
一旦新発田丸に続航せしも  僚船の依然進行するを見て
再針路を展示単独前進せるものの如く 午前四時過ぐる頃
忽然として鮮生角の南方に現れ港口に向かいて奮進せり。

時に三河丸以下六隻は悉く爆沈し敵砲は専ら隊員の帰路を背撃し
其の勢稍弛まんとするのを観ありしか 

今や朝顔丸の単独突入せんとするや砲火再激甚となり
全要塞の砲弾忽ちこの一舟に集中す。

隊員は猛烈なる十字砲火と強度なる探海灯光とを冒して
港口に驀進せしが終に舵機を破られ 午前四時三十分頃
黄金山低砲台の海岸に擱座して爆発せり。

之の閉塞船最後の爆沈とす」

 

第三次閉塞朝顔丸指揮官附

海軍大尉 糸山貞次

向大佐(作戦時中佐)附きであった糸山中尉(作戦時)は、
このとき25歳という若さでした。

全員が熱烈志願した「朝顔丸」の乗員と向少佐(中央左)。

向少佐の左がおそらく糸山中尉、向少佐の右横が機関長である
大機関士、清水雄莬 同列左端は
二等兵曹、伊藤周助であろうと思われます。

向少佐以率いる18名の乗員は、果敢にも先陣の後を追い、
単身旅順港に突入を試みるも、陸上からの集中砲撃を浴び、
黄金山付近で船は撃沈され乗員全員が戦死しました。

沈没したとされる黄金山下の「朝顔丸」の写真が掲載されていました。

これは閉塞作戦後、ロシア海軍の将校が撮影したもので、その後、
旅順攻撃により「旅順開城」(降伏して敵に陣地を明け渡すこと)成った際、
日本軍が入手に成功した貴重なものです。

岩の向こうに見えている船が「朝顔丸」ですが、その船首部分を
よく見ていただくと、うっすらと「3」が描かれているのがわかります。
これは、閉塞作戦の「三番船」を意味します。

そしてこの部分をさらによくご覧ください。

写真の解説によって初めてわかったのですが、手前の岩には
「朝顔丸」の乗員の遺体が少なくとも2体確認できます。

救命胴衣とともに岩の上に仰臥して倒れている遺体は、
この記念帖の解説によると向指揮官であると「伝えられている」
(おそらく士官の制服と背格好から判断)ということです。

手前の遺体はうつ伏せになっているようですが、この二人は
沈没後脱出してここまで泳ぎ付き、息絶えたのでしょうか。

5月の旅順は決して温暖な気候ではないので、岩にたどり着き
収容を待っているうちに低体温症で力尽きた可能性もあります。

兵学校にこのとき寄贈された向菊太郎司令官の「勤務日誌」です。
もし戦後逸失していなければ、今でも教育参考館に所蔵されているはずです。

数冊の勤務日誌は、この不鮮明な写真からも窺い知れるように、
精緻な筆致で実に丁寧に記載されており、特に旅順港外の地図は
砲台、そして探照灯がどこにあるかという所在まで精細に記入され、
わかりやすいように色が付けられている(開きページ上)そうです。

向少佐の几帳面で周到な性格の一端が現れています。

 

なお、上野の谷中霊園の一角には向家の墓所があり、
「朝顔丸」の手すりの一部が残されて今も見ることができます。
100年以上前の鎖は錆びてしまっていますが、まだかつての形を保っているようです。

谷中霊園 向家の墓

 

さて、もうお分かりいただいたでしょう。

記念帖には名前すら掲載されなかった指揮官船の「新発田丸」指揮官、
遠矢勇之助大尉と「朝顔丸」の向菊太郎大尉(戦死認定、死後少佐)の違いを。

反転命令を下した総指揮官が乗っていたばっかりに(?)、
作戦中止に伴い、戦いもせずに生きて帰ってきた者と、
あえて命令に従わず死地に飛び込んでその結果散華した者。

遠矢大尉にも「新発田丸」にもなんの落ち度もなく、彼らもまた
作戦遂行のためには命を失うことなど厭わぬ覚悟のもとに参じていたはずなのに、
本人には如何ともし難い成り行きの結果、方や国難に殉じた英雄として、
方や生還してきたことを忸怩として恥じずにいられないような
ある意味屈辱的な扱い(なかったことにされるという)を受けたのでした。

そして、此の閉塞作戦の記念帖において、「新発田丸」の遠矢大尉と
同じ扱いを受けた指揮官は何人もいたのです。

 

続く。

 


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