さて、今日もオークションで手に入れた「旅順港閉塞戦記念帖」より
中身を紹介していこうと思います。
まず冒頭写真は、
第三次閉塞遠江丸指揮官
海軍少佐 本田親民
本田は海軍兵学校17期。
17期といえば海軍きっての超秀才、秋山真之の同期です。
「秋津州」「比叡」「須磨」「千代田」「橋立」「愛宕」
など艦艇乗組を経て、「富士」分隊長であった少佐時代、
指揮官として「遠江丸」を率い、第三次閉塞作戦に参加しました。
閉塞作戦後、一貫して艦艇任務を続け、少将昇進と同時に待命となり、
その後予備役に入っています。
中央双眼鏡着用が本田少佐、第三次作戦の「遠江丸」乗員全員です。
日差しが眩しいのか顔をしかめている人ばかりの記念写真になってしまいました。
本田少佐の右側は指揮官附の森永尹中尉、左は機関長・大機関士竹内三千雄です。
第三次閉塞遠江丸指揮官附
森永尹海軍中尉(兵学校27期)
森永中尉は当閉塞作戦では生還することができましたが、帰還後、
大尉任官して乗組となった巡洋艦「高砂」は、その年の12月12日、
奇しくも閉塞作戦と同じ旅順港外で哨戒中、左舷前部に触雷し約1時間後沈没。
分隊長であった森永大尉も273名の乗員とともに戦死しています。
享年25歳でした。
閉塞戦において、彼らが乗り組んだ「遠江丸」は「江戸丸」「釜山丸」とともに
第2小隊(第1小隊は『新発田丸』『小倉丸』『朝顔丸』『三河丸』)を構成しており、
当初の作戦は、この小隊をもって中央左側を閉塞させることになっていました。
指揮官林三子雄大佐の作戦中止命令を受け、船を反転させましたが、
後述する「江戸丸」、そしておそらく(はっきりした記述がないので類推による)
この「遠江丸」もまた、命令が伝わらず突入してしまった僚船を追って
再び船首を旅順港に向けて進んでいったものと思われます。
「朝顔丸」と向菊太郎大佐について書いたときには、再反転したのは
「朝顔丸」だけと思っていたのですが、少なくとも「江戸丸」「遠江丸」
どちらもがそうであったらしいことがその後の行動から読み取れます。
国会図書館蔵の「旅順口第三回閉塞」という当時の記録によると、
五隻で旅順口に突入してから、敵の砲撃が始まりました。
又敷設水雷は諸所に爆発して潮水を奔騰し
敵の全砲火は今や肉薄しつつある五隻の閉塞船に集中し
隊員の死傷するもの甚だ多し。
然れども各船は弾雨を冒して邁進し
江戸丸の如きは其の機砲未だ発射するに及ばずして己に破壊せられ
船橋に爆裂せる一弾は按針手海軍二等信号兵曹田中太郎吉を傷つけり。
日本軍の二次に渡る閉塞作戦を受けて、旅順艦隊とロシア軍は
当然三度目があるとし見張りを厳となして機雷を敷設し、
閉塞には閉塞をと、予想される進入路にあらかじめ船を沈めるなど、
怠りなく防御すると同時に、火砲も集中させていました。
「江戸丸」の田中太郎吉二等兵曹の「按針手」ですが、「按針」とは
天測や磁石などで船の航行の方向をコントロールする人、となり、
操舵手と同じ意味で良いのではないかと思います。
なぜなら、
是に於いて本多指揮官は自ら代わりて操舵の任に当たり
今や全速港口に闖入(ちんにゅう)せんとする。
「江戸丸」指揮官本多少佐は、負傷した田中兵曹に代わり、
「操舵を行った」とあります。
一刹那敵弾汽罐部を破りて蒸気噴出し前檣を折り舵機を損し
羅針儀を粉砕し大災を起こし同船は宛(あたか)も
座礁したるが如く突然行進を停止せり。
「江戸丸」は敵の攻撃でほぼ全損状態になり、
船そのものが全く動かない状態になりました。
指揮官はすでに充分港口内に達せるものなりと判断し
爆発を命じ船は瞬時にして沈没す。
そこで本多少佐は船の自沈を命じ、これが実行されたのです。
第三次閉塞 江戸丸指揮官
海軍少佐(戦死後昇進)高柳直夫
は兵学校26期、ハンモックナンバー11番で卒業しているので、生きていれば
閉塞作戦に参加したこともあり、将官に出世できたものと思われます。
「江戸丸」は中止命令を受けて一旦反転しますが、命令が伝わらず
進んでしまった船があることを知り、高柳もまた再反転を命じました。
旅順港に近づくとロシア軍は陸の砲台と海上の駆逐艦から
雨霰のように攻撃を仕掛けてきました。
日本側も総勢12隻と大幅に陣容を拡大させていましたが、
ロシア側にすればそれは想定内のことであったのです。
敵の砲弾が激しく飛来する中、高柳大尉は船橋で指揮を執り、
目標地点に到達したとして投錨用意を命じました。
そして羅針盤で現在船位を確認しようとした瞬間、敵弾が飛来し
高柳大尉の腹部を貫きました。
第三次閉塞江戸丸指揮官附
永田武次郎中尉
そのとき前甲板にいた指揮官附永田中尉は、投錨作業を行いつつ
命令を待っていましたが、船橋に一弾爆裂後、
「指揮官負傷!」
との声を聞くや、一刻の猶予もならないと両舷の錨を投下し終わり、
指揮を引き継いで端艇を準備させました。
そののち初めて船橋に駆け込んで指揮官が戦死しているのを発見し、
その遺体を端艇に乗せて全員が乗艇するのを待ち、装薬を爆発して
皆で祝声を挙げ(万歳ではなかった模様)
退去に成功しました。
指揮官が死亡していても、作戦さえ成功すれば良しとするのが軍人。
さすが当時の日本人であるとこういう記述を見ると思います。
「江戸丸」指揮官と乗員たち。
中央刀を肩のところで持っているのが高柳大尉、その左が永田中尉です。
高柳大尉の右側は機関長・中機関士興倉守之助。
「江戸丸」の戦死者は高柳少佐と一等機関兵武藤弥七の2名でした。
なお、高柳少佐の墓所は佐世保東山海軍墓地にあるということです。
さて、ここで気がついたのですが、「江戸丸」「遠江丸」にも
指揮官の作戦命令は伝わっていたということですよね。
実は命令が伝わらずに突撃してしまったのはどこからなのか、
当ブログでは個々の船について残されている資料を総合し、
特定する試みをしているのですが、今のところ連絡が切れたのは
「釜山丸」のせい?で、第3小隊以降から後ろが
突入してしまったのではないかと仮定を立てています。
その理由を説明しましょう。
第2小隊の3番船、「釜山丸」の指揮官と乗員17名です。
閉塞作戦の隊員記念写真はどれを見ても皆の士気が凄まじく、
殺気さえ帯びているのですが、特にこの人、
水兵さんなので若いと思うのですが、髭のせいで
ベテランというか牢名主みたいな雰囲気です。
この人も凄いですね。
記念写真の時にどんなポーズを取っても良かったようですが、
精一杯自分の閉塞船に対する意気盛んなところを見せようと、
刀を抜身で持っています。
硬く食いしばった口元、眉間の皺、そして炯々としたまなざし。
このアルバムを作戦参加船ごとにまとめていて、ここで
わたしはまた「新発田丸」と同じことに気がつきました。
「釜山丸」指揮官と指揮官附の写真がないのです。
もしかしてキャプチャし忘れたのか?とわたしは
劣化した紙がボロボロ落ちてくるのでもう2度と触らなくても済むように
紙袋に丁寧に保存したアルバム現物を取り出し、崩れてくるページを
そーっと全部めくって探したのですが、やはりありません。
海軍兵学校が旅順作戦記念に制作したアルバムですから、
指揮官の写真を載せ忘れるなどあの組織に限ってあり得ないことですし、
指揮官だけでなく指揮官附まで無いということは、明らかに意図的です。
この3人が「釜山丸」幹部です。
左 指揮官附 海軍中尉 井出光輝
右 機関長 中機関士 徳永斌
中機関士とはのちの機関中尉のことです。
そして中央は、皆さんよくご存知(かもしれない)
海軍大尉 大角岑生
だったのです。
大角岑生(おおすみ・みねお)というと、後の海軍大将であり、
わたしなど、海軍大臣時代、伏見宮軍令部長を後ろ盾に
条約派といわれる軍縮条約賛成派、山梨勝之進、谷口尚真、左近司政三、
寺島健、堀悌吉、坂野常善ら将官を次々に予備役に追いやるという
粛清人事、「大角人事」を思い出さずにはいられません。
アルバムが作成された昭和2年はそんな大角もまだ?海軍次官で、
閉塞作戦については何か思い出の品を所望されてもいいはずなのに、
なぜ彼とついでに副官の写真までがないことになったのか。
今回のシリーズ中、ある意味海軍の「成果主義」を感じたのはこの一件でした。
どういうことかというと、「釜山丸」はいつの段階かは定かではありませんが、
エンジンの故障のため船団から脱落し、作戦を諦めて帰投しているのです。
理由はどうあれ血書まで書いて作戦に志願した下士官兵については
一応団体写真を掲載していますが・・・。
そこで先程の仮定に戻りますが、林指揮官の戦闘船から発せられた命令が
第2船団まではなんとか伝わったのに、第3船団から後ろに伝わらなかったのは
「釜山丸」が脱落し、船列がここで途切れたからではないかと思われます。
もちろんそれは偶然だったかもしれませんし、その頃すでに折からの風で
互いを見失う状態になっていたのかもしれません。
もちろんこれらはあくまで「推理」ですので念のため。
エンジンが不調になったのちの「釜山丸」についてわかっていることは、
乗員が口々に初志貫徹し旅順港に突入させてくれと懇願するのに対し、
指揮官である大角は彼らを説得し、帰投を決めたということです。
おそらく上の写真の血気盛んな兵たちは泣いて悔しがったでしょう。
第三次閉塞作戦の結果、多くの閉塞隊員が旅順に向かい犠牲となりました。
後世はこの作戦を冷徹に「失敗であった」と記しますが、戦争遂行当時、
国民の戦意を削ぐことと、なにより犠牲者を「無駄死に」扱いすることを
なんとしてでも避けたかった海軍は、作戦は成功だったということにして、
東郷司令長官自らが
「第三次閉塞作戦ハ’概ネ’成功セリ」
と「本当ではないが嘘でもない」という玉虫色の発表をし、
真実を確認しようのない国民をメディアごと、あえて言えば騙したのでした。
廣瀬中佐と杉野兵曹長の時のように、このニュースが伝えられるや、
「閉塞隊」「決死隊」などという歌が早速作られ、レコードが発売されました。
「釜山丸」の乗員たちは決してこれらの栄達には与ることができず、
口惜しい思いでこの熱狂を見ていたに違いありません。
調子の悪いエンジンで突入して何の効果が得られるのか、という
大角の冷静な判断はこの熱狂の中では必ずしも歓迎されず、むしろ
無謀と分かって突入して全員が戦死していた方がましだった、
という考えの乗員や海軍関係者もいたかも、いや、いたはずです。
しかしいつの頃からかは知りませんが、大角のこのときの判断は
「適切だった」と再評価されることになりました。
いつ、どのように、誰がそのような評価を下し始めたのでしょうか。
意地悪い言い方をすれば、その後大角が海軍の実力者として出世したから、
過去のこともいわば下駄を履かせてもらったという可能性もあります。
しかし、そういうしがらみと忖度の絡んだ経緯はともかく、
海軍という組織を始めとして、ともすれば科学的なデータに頼って下された
冷静な判断より、滅ぶことを厭わず邁進する姿を重んじるような世の中にあって、
突入中止は大変勇気がいる決断であったことに間違いはありません。
続く。