昭和2年発行の旅順行閉塞作戦アルバムを見ていて、ふと
軍服ではない肖像写真に目が止まりました。
第三次閉塞作戦 小樽丸指揮官
海軍少佐 野村勉
「小樽丸」は、12隻の船団のうち第3小隊を構成する閉塞船で、
野村はその指揮官として17名の乗員を率いていました。
ここであらためて、国会図書館の資料から、当時の記録、
「第三回封鎖」の部分を書き出してみたいと思います。
現代文に直しておきました。
二回にわたる旅順港口封鎖の壮挙は敵の士気を挫き心胆を奪った。
しかしなお閉塞の効果は十分とは言えない。
この間我が陸軍の作戦は刻々進捗して遼東半島に上陸の機は熟し、
海上輸送の保安上制海権の獲得を切要するに至った。
ここにおいて前二回の壮挙に比べ、さらに大規模計画を以て
三度港口の封鎖を行うことに決した。
乃ち(すなわち)林海軍中佐を総指揮官率いる
新発田丸、小倉丸、朝顔丸、佐倉丸、相模丸、愛國丸、
長門丸、三河丸、遠江丸、釜山丸、江戸丸、小樽丸
の十二隻より成る閉塞船隊を編成し、実行日を五月二日に選んだ。
閉塞隊は例の如く多数の駆逐隊に掩護せられ一路旅順港に向かって直航した。
この夜天極めて暗く海大に荒れて頗る難航であった。
各船は遂に互いの連携を失い、総指揮官は閉塞決行の不利を認め、
行動中止の命令を発したが、荒天のためにその命令も全隊に通ぜず、
閉塞船中朝日丸、三河丸、遠江丸、江戸丸、小樽丸、佐倉丸、相模丸、
愛國丸の八隻は三日午前二時三十分頃三河丸を先頭とし、払暁までに
相前後して港口に驀進した。
敵の防備は前二回に比し倍加したばかりか、探照、砲撃共熟練の度を加え、
大小の砲弾は雨霰の如く船隊に集注し無数の敷設機雷は轟然として
周囲に爆発し、忽ち船舷を裂き、加うるに空には電光煌々として闇を破り、
海には激浪淘涌(げきろうとうゆう)奔馬の如く、その凄さ壮烈さは
名伏することが出来ない。
しかし我が諸船は、強射を犯し降雨を潜り衝天の意気を以て驀進し、
何れも港口附近に達して爆沈した。
かくて各船の乗組員は帰途に就こうとしたが、ある隊は敵弾のために
ボートを砕かれ、或は纔(わずか)に破船を艤(ぎ)したものも
澎湃(ほうはい)たる怒涛のために沈没する等壮烈悲愴を極め、
小樽丸、相模丸、朝顔丸の如きは全員還らなかった。
しかし封鎖の効果は前二回に比べて頗る良好であった。
最後の取ってつけたような一文は確かに嘘ではありません。
十二隻も投入し、そのうち八隻が自沈を成功させているのですから、
前と比べて「頗る良好」であることに間違いはないわけです。
さて、野村少佐(作戦時大尉)の指揮する「小樽丸」には
中止命令も全く届くことなく、荒天の中旅順港口に向かって行きました。
ところで、今回参照した旅順港閉塞の資料の中には、閉塞隊の中に6人いた
岡山県出身者の戦功を称えるために編纂された
「岡山県六勇士」
という教育読本がありました。
六勇士とは、白石 葭江少佐、人見仲造上等兵曹、影山鹿之助三等機関、
監谷巳資上等兵曹、羽原久右衛門一等水兵、そしてこの野村勉少佐の6人です。
そのバイオグラフィによると、野村勉少佐は明治2年3月18日岡山市野田屋町の生まれ。
頭脳明晰にして風姿純朴、全てに飾らない人柄で親孝行、
何事も謹直励行、友人とも穏やか誠実に付き合い、軽薄に流れず、
一旦心に決めたら中途にして挫折しない粘り強さを持っていました。
19歳で海軍機関学生に命じられるも、すぐさま「海軍兵学校生徒を命じられ」ています。
機関学校で優秀なものは兵学校に編入させるという決まりでもあったのでしょうか。
(こういうことからも機関科問題の根の深さが読み取れますね)
卒業後「比叡」で遠洋実習にはトルコへの航海を行い、
日清戦争が起こると「吉野」分隊士として豊島沖海戦に参加、
清国の軍艦「広内」の捕獲に際して戦功賞を与えられました。
第三次閉塞戦では第三小隊の二番船「小樽」指揮官となり、
5月1日午後6時、根拠地を抜錨。
2日午後7時、「小樽丸」は護衛隊と別れて前進を続行。
しかしながら午後10ごろから海が荒れ出し、
怪雲月を呑んで海上暗く怒涛愈々高く
狂乱怒涛と化し、船の操縦意の如くならず
各隊の序列は乱れ脱落するものも多く、閉塞船隊総指揮官林三子雄中佐は
中止の命令を降し、深夜2時に至るまで通信の努力を続けましたが、
その間に八隻の閉塞船は前後して旅順港に突入していきました。
しかしながら、
又海軍大尉野村勉の指揮せる九番船小樽丸は
二、三僚船の反転するを認めしも
尚二隻の前進しつつあるを見て之に隋し
野村指揮官は、帰還する船があるのも目撃しましたが、
命令が伝わらずに直進していく船があるのを見て
彼らを追い、作戦を遂行することを決断したのでした。
そしにて完全に混乱状態に陥った結果、
「小樽丸」「遠江丸」「相良丸」「江戸丸」「愛國丸」の五隻が
期せずして「不規則なる一団を作成し、互いに前後して旅順口を」
目指していくことになります。
その後については現代文に翻訳します。
野村大尉の指揮する九番船「小樽丸」は
港口の適当と思われた地点に達して爆沈を用意した。
指揮官が総員を上甲板に集めて人員を点検したところ、
影山一等機関兵が負傷しているだけで其の他は無事なのを確認し、
爆発を命じ、総員万歳を三唱して退去しようとした。
そのとき散弾が爆発し、一番短艇が奪い去られてしまったので
代わりに三番艇に乗り、指揮官附笠原平治(三郎)中尉が再点呼を行ったところ、
野村指揮官及び兵員二名がいなくなっているのに気づく。
そこで大声で「野村大尉!」などと連呼したが応答はなく、
そのうち浸水はすでに上甲板に及び、狂浪奔騰のため
遺骸を捜索することもできなかった。
爆沈した「小樽丸」の船上からはすでに少佐の姿は失われていたといいます。
あるいは巨弾が飛んできて海中に身体を掠め去ったものでしょうか。
「小樽丸」指揮官附
海軍大尉 笠原三郎
笠原中尉ら何人かの乗員は「小樽丸」爆沈後、
海中にしばらく浮沈し、寒威凄まじい海中では次第に身体は自由を失い、
虚しく海底に沈んでいった、と「岡山六勇士」には書かれていますが、
これは教育用の資料なので、彼らの一部が捕虜になったことは書かれていません。
しかも、乗艇の浸水がひどく、毛布等を以て破孔を填塞し
総員全力に務めたが効果はなかった。
近くに端艇が浮遊していたので、笠原中尉等は波に逆らって泳進し
これを点検したが、損傷が甚だしく使用不可能だった。
此の間も弾丸が雨のように降り注ぎ負傷するものも少なくなかったが、
破艇を操縦して1時間ほど撓漕していたところ、一瀾(いちらん、波)
が横から破艇に襲いかかり艇体は転覆して十五名の乗員は波間に漂った。
大機関士岩瀬正以下下士卒七名は人事不省のままに翌朝
敵の収容するところとなった。
笠原中尉が発見されることはなく、戦死として大尉に昇進しました。
27歳でした。
「小樽丸」の乗員。
捕虜になった以外は生還せず、当時は「全滅」とされていました。
中列右から三番目が指揮官野村大尉、その左が笠原中尉です。
第三次閉塞佐倉丸指揮官
海軍少佐 白石 葭江(しらいし よしえ)
第3小隊の三番船であったのが「佐倉丸」です。
偶然第3小隊の3人のうち2人が岡山出身だったということで、
白石少佐について国会図書館の「旅順口閉塞岡山六勇士」には
以下のように書かれています。
「佐倉丸」率いた白石大尉の名前「葭江」は、7歳の時に
白石少佐が東京の白石という人に養子にもらわれるまでの苗字で、
彼はもともと「葭江良智」という名前でした。
明治23年海軍兵学校に入学、21期を32名中7番で卒業し、
日露戦争開戦時は大尉として「浅間」分隊長を務めていました。
閉塞隊の隊員は志願者から選ばれましたが、指揮官は
上から選抜され、命令を受けてその任に就いています。
白石も閉塞隊第3小隊佐倉丸指揮官に選ばれ、6時に根拠地を出発、
午後10時に下された中止命令を受け取ることなく、旅順港に突入し、
敵の集中砲撃の中、全速力で港口を目指しました。
ここで少し驚いたのが、白石少佐(とおそらく乗員たち)は
防材を衝破して水道に侵入し、目的地附近で投錨し、閉塞船を
自沈させる作業を終えると、
(上陸後)黄金山砲台に突撃して孤軍奮闘壮烈な戦死
を遂げた、と当時の美文調報告書で書かれていることです。
ところが、実は
その後「佐倉丸」乗員は上陸して露軍と交戦したが、
白石ら重傷者は捕虜となり、白石は旅順開城前に戦病死
していたのです。
白石少佐らが捕虜になり旅順のロシア軍収容病院で死亡していたことは、
日露戦争終結後の1905年に判明しました。
ということはこの本は旅順開城前に発行されたのか、と考え、
念のため「岡山六勇士」の発行年月日を調べてみると、
なんと昭和18年、旅順閉塞戦からほぼ40年後じゃーありませんか。
発行元は岡山県教育会、現代の教育委員会のようなもので、
非売品とあるからにはこれは学校の生徒に向けて教育目的で製作された
「戦意高揚のための教科書」であることは間違いありません。
「生きて虜囚の辱めを受けず」
の戦陣訓(昭和16年発行)との齟齬を生まないようにとの忖度から、
白石少佐らが重症を負っていたとはいえ虜囚の身で死んだことを
糊塗する文章となったのであろうと思われます。
ただし、ロシア軍が白石少佐始め「朝顔丸」指揮官向菊太郎、
「相模丸」指揮官湯浅竹次郎少佐ら36名を白玉山麓に埋葬していたことまでは
隠さずにここでも言及しています。
「佐倉丸」で指揮官附だった
海軍大尉 高橋静
は兵学校27期。
指揮官とともに戦死したときには27歳でした。
さて、ここで第二小隊の一番船であった「長門丸」指揮官の写真が来るところですが、
またしても「旅順港閉塞戦記念帖」にはそれが割愛されているのでした。
中止命令に素直に従って引き返した、つまり成果を挙げられなかった指揮官か?
とまず疑い、調べてみたところ、やはり「長門丸」は「作戦中止」となっていました。
作戦前の「長門丸」乗員全21名。
刀がなかったのか、出刃包丁を握りしめている人もいますね。(右前)
この撮影日も晴天で、後列の人たちの顔がハレーションのため見えません。
真ん中が
第三次閉塞戦長門丸指揮官
田中銃郎海軍少佐(当時)
左、
であろうと思われます。
田中大佐(最終)のデータを調べたところ、
04年5月1日 長門丸を指揮して第三次旅順閉塞に使用
5月2日 作戦中止
とありました。
この示す意味は、作戦当日中止を受けて帰還したということです。
総指揮官の反転命令を、たまたま近くにいたらしい「長門丸」は
受け取ることができ、命令に従って反転し素直に帰投しました。
実はこの「素直に帰投した」船は、今まで語ってきた中では
「長門丸」だけだったことになります。
その結果、田中銃郎少佐の写真は閉塞作戦記念帖には掲載されず、
ついでに?指揮官附きだった山口毅一中尉も、写真はもちろん、
名前すら「毅市」と誤植されたままであるという(涙)。
田中銃郎少佐はその後中佐まで昇進していますが、最終任務地が
「佐世保測器庫主管」・・・・・・・どう考えても閑職であり、
山口中尉に至っては履歴にすら閉塞作戦参加が書かれていません。
最終階級はやはり中佐、「浅間」の副長が最終任務でした。
作戦中止を決断して帰ってきても、本人の才覚とずば抜けた頭脳、
(兵学校での恩賜の短剣組であったこと)
そしてもしかしたら世渡りのうまさで海軍大将にまでなってしまった
大角岑生のような例は、特殊の類に属すると思われる彼らの「その後」です。
もし、反転命令を受けても「朝顔丸」「小樽丸」のように仲間を見捨てず
旅順に向かっていれば、命はそこで尽きたかもしれませんが、その代わり
「勇士」として死後その人格経歴の素晴らしさを讃えられ、さらに運が良ければ?
廣瀬のように軍神として「芳名」を歴史に残すことができたでしょう。
そういう時代であり、軍隊とはそういう組織であるとわかっていても、
閉塞作戦以降の長い長い(そして退屈で屈辱的な)海軍での生活を、
あのとき素直に反転したことを一生心のどこかで悔いながら過ごしたかもしれない
田中少佐のことを思うと、なんともやるせないような思いが過ぎります。
続く。