オークションで手に入れた海軍兵学校昭和2年発行の写真集、
「旅順港閉塞戦記念帖」の写真を挙げながらこのことを調べていますが
調べれば調べるほど、部下を探しに行って戦死した廣瀬武夫以外、
他の死亡した軍人の名前が残されていないことが異様なことに思えてきます。
廣瀬少佐を閉塞作戦の象徴としたのであとは省略、ということなのでしょうか。
しかし、わたしに言わせれば、そもそも廣瀬の行動って
軍隊の指揮官なら普通というか当たり前のことをしただけですよね?
勿論わたしも、その指揮官としての責任感の強さを称賛することに
やぶさかではありませんが、それをいうなら本閉塞作戦中、
行方不明になった人員を探すために必死で船内を駆け回った、
という指揮官や指揮官附はほかに何人もいたわけです。
この際だから言ってしまいますが、実を言うと、わたしは昔から
軍神廣瀬について、モヤモヤするものを感じていましてね。
廣瀬は指揮官の当然の義務として足りない人員を探しに戻りましたが、
結局最後は捜索するのをやめて端艇に乗り込もうとしています。
決して自分の生を引き換えにしてまで部下を救おうとしたわけではありません。
端艇乗艇後、たまたま直撃弾を受けなければ、第二次作戦の経緯を見る限り、
無事に生還し、杉野曹長だけが行方不明のうちに戦死認定されて終わったでしょう。
つまり、わたしがかねがね思っていたのは、偶然爆死しただけなのに、
「軍神扱いまでするのはやりすぎではないか」ということなんですが、
今回、こうして作戦全体についての実相を知るにつけ、
その思いはよりはっきりとし、そこに「官製の美談」の匂いすら感じます。
指揮官として当然の行動をとって、その結果偶然死んだ廣瀬が軍神で、
反転命令を受けながらも、他の船が突入していくのを見て後を追い、
その結果戦死した第三次作戦の何人の指揮官が名前も残されていないのは
あまりにも不公平としかいいようがないではありませんか。
しかし、(変な言い方ですが)死んだ者はまだ良かったのです。
日露戦争全体で見る限り、閉塞作戦は序盤の戦いでありました。
この効果がないことが決定したからこそ、陸軍は地上からの作戦、
最終的には二百三高地へと駒を進めることになったわけですから、
長い目で見ればそれもまた勝利への布石の一つではあったといえます。
ですから、閉塞作戦は失敗であったことをよくわかっていた彼らも、
終わり良ければ全てよしで、自分自身を納得させてきたのに違いありません。
さて、今日ご紹介する冒頭写真の軍人は
第三次閉塞 愛國丸指揮官
海軍大尉 犬塚太郎
階級が大尉であるのを見て、この人は戦死しなかったのだな、
とちょっとほっとしてしまったわたしです。
犬塚大尉は兵学校25期。
旅順作戦に参加していた時には「笠置」分隊長という配置にいました。
25期で大将になったのは山梨勝之進だけで、
最終的に中将にまでなったのはこの人を入れて三人だけでした。
そのうちの一人は、閉塞作戦記念帖の発行された昭和2年当時、
海軍兵学校の校長だった鳥巣玉樹です。
犬塚の兵学校でのハンモックナンバーは32名中18位だったそうなので、
中将までいったのは結構な出世であると言えます。
閉塞作戦で生還したあと、日露戦争で皇族武官に任命されたことから
要所で東宮武官、秩父宮別当など皇室関係の役職に就いていたことが
そのキャリアを出世コースに乗せたのではないかと思われます。
さて、閉塞作戦において殿(しんがり)の12番船「愛國丸」指揮官に任命され、
犬塚は五月二日の午後6時、出航を行いました。
天候が不順になり、風浪が激しくなってからの状況から
「愛國丸」について言及している当時の文書を書き出しながら進めます。
極力現代文に翻訳します。
「遠江丸」は前続船が反転して転針したらしいと思い、
西微北に向かって進んだが、ついに僚船に会わなかった
偶(たまたま)前方遥かに二個の灯光を発見したので
速力を増してこれを追跡したところ、敵探海灯の照映により
其の一隻は十一番船「相模丸」であることを知り、
他の一隻は十二番船「愛國丸」であろうと推定した。
又、海軍大尉犬塚太郎の指揮した十二番船「愛國丸」は
午後十時三十分頃若干の前続船が針路を反転したらしいと認め
かつ、駆逐艦、水雷艇らしきものが頻繁にと汽笛を鳴らし
発光信号を行いながら高声に叫ぶを聞いたがそのなんたるかを解せず。
この文章から新たな情報がわかりました。
作戦総指揮官から発せられた中止命令は、護衛と作戦後の人員収容のために
現場海域にいた駆逐艦、そして水雷艇にも伝えられたということ。
そして彼らは閉塞船に対して、発光信号だけでなく叫ぶなど、
あらゆる手段で命令変更を伝えようとしていたことです。
しかし、そんな状況でも信号が読み取れないだけでなく、
ましてや声など全く聞き取れず、何かを伝えようとしているようだが
さっぱりわからない、という焦燥の状態だったようです。
よってしばらく前続船の行動を窺い、反航するもの多きを見、
又、一旦回頭したのに更に旅順口に向進した船があるのを認め
反転していたのをもう一度元に戻してその航跡を追った。
これによると、互いが全く見えなくなったわけではなく、
通信を受け取って反転する船、直進する船を見て後を追うため
再反転する船の様子を、犬塚大尉の船は全部見ていたことになります。
犬塚大尉はそこで「愛國丸」もまた旅順口に向かうことを決断しました。
そしてその後、「遠江丸」「相模丸」「小樽丸」「江戸丸」と一団を形成し、
旅順口に向かっていったという話は何度かしてきました。
その後敵に発見され、流弾雨飛の中、
又港口の中央線を直進していた愛國丸は
港口の距る約七鍵の位置に至るや
俄然敵の敷設水雷に羅りて運転の自由を失う。
よって犬塚指揮官は其の位置に爆沈せしと欲し
投錨を命ずるや浸水急激にして忽ち沈没せり。
敷設水雷に「羅った」というのは、一部が爆破された状態で
身動きできなくなったということでしょうか。
この時の「愛國丸」の近くにいたのは「江戸丸」でした。
「江戸丸」は港口に向けて転針しようとしたとき、前方に
「愛國丸」らしき一船を認めた、と証言しています。
そしてこれを追い越ししようとしたのですが、それができず、
後方に付いていこうとしたところ、「愛國丸」は
「俄然沈没する」
に及んだところでした。
この後「江戸丸」の船橋に命中した敵の一弾は指揮官高柳大尉の命を奪います。
高柳大尉に代わって指揮を引き継いだ永田中尉は、その後
「愛國丸」と並ぶ位置に船首を港口に向けて船を爆沈させました。
「愛國丸」が港口に向かうところから、もう一度記述を抜粋します。
愛國丸は突進中敵の敷設水雷に掛かり忽ち進退の自由を失いしが
犬塚指揮官は之を以って砲弾の命中せるなりと思惟し
擱岸せしめんよりは寧ろ其の位置に爆沈するに若かずとなして
投錨の命せり。
船が動かなくなったので、犬塚大尉はそこで爆沈させることを決定しました。
しかし、投錨が終わるか終わらないうちに船尾はすでに沈没し始め、
其の時に初めて敷設水雷に船体がやられていることに気が付いたのです。
犬塚指揮官は直ちに総員退去を命じ、人員点呼を行おうとしましたが、
すでに其の時には海水が上甲板まで迫っていました。
かろうじて一隻の端艇を卸すために「ボートホール」を切断しようとしたところ、
急速に沈没が始まり、わずか1分にも満たない時間で沈んでしまいました。
海に投げ出された乗員を収容したところ、24名のうち8名が欠員していました。
「愛國丸」乗員全24名の写真です。
ほとんどの乗員が長刀、短刀、超銃、短銃いずれかの武器を持っています。
最前列で銃を撃つポーズを決めている水兵さんは助かったのでしょうか。
さて、すぐさま行方不明の8名の捜索が始まりましたが、
「波高くして形影を認めず」
全く行方はわからないままでした。
第三次閉塞 愛國丸指揮官附
海軍大尉 内田弘
この8名は指揮官附海軍中尉内田弘と同乗すべき配置なりしを以て
或いは同官と共に退去したるものなるべきかを想い
午前四時十分沖合に向かいしが 内田中尉を始め
海軍中機関士 青木好次以下下士卒六名は竟に
全く其の行衛(ゆくえ)を失えり
「愛國丸」指揮官附の内田中尉は海軍兵学校27期卒。
中尉任官後初の配置であった「笠置」から今回
指揮官附として第三次作戦に指名されてきました。
内田中尉の行方はこの時を境にわからなくなり、
行方不明者のまま戦死認定され、死後大尉に昇進しました。
資料には、収容人数についてはこのように記しています。
第三回閉塞は天候の険悪と端舟の破壊とのため
最も悲惨の結果を生じ(この部分削除対象)惨烈をを極め
八隻の乗員百五十八名(内戦死四名負傷二十名)
翌朝敵に収容せられしもの十七名(内一名死亡)に過ぎず。
捕虜になって死亡したのは湯浅少佐と野村少佐の二名ですが、
このときには湯浅少佐が捕虜になったという情報は伝わっていません。
爾餘七十四名は遂に其の失踪を明らかにせざりしが
海軍にその後開城の機会ありし明治三十八年十一月 旅順口白玉山の麓なる
旧露国墓地を発掘し 第三回閉塞隊員の遺骸を検ずるに及び
朝顔丸指揮官向大尉を始め指揮官附海軍中尉糸山真次
機関長 海軍大機関士 清水雄菟以下
十四名の相接して埋葬せられたるを発見し
この外 白石大尉以下佐倉丸の乗員九名
湯浅少佐以下相模丸の乗員三名 笠原中尉以下小樽丸の乗員六名
及び氏名不詳の海軍軍人七名(内中尉一名大機関士一名)を発見せしが
五躰の腐乱して其の容貌を識別すべからざるも 其の屍体の状況により
奮闘の状を想見せしむ。
ちなみに「五体の腐乱」という部分は削除線で消されています。
そしてこの後の記述に驚かされました。
又敵に収容せられし小樽丸機関長岩瀬大機関士
及び同船乗組下士卒七名、相模丸乗員下士卒九名
岩瀬機関士は閉塞の当夜頭部を負傷し終に
三十七年十月十九日旅順海軍病院にて没し
他の十六名は旅順開城の際我が軍にて収容せり。
この文章からはごっそりと捕虜になった下士卒たちの情報は削除されました。
棒線がかけられているのは削除部分であり、ご丁寧にも検閲を行った人が、
上の欄に
「注意!!!(!三つ付け)」
と叱責するように殴り書きで読めないコメントをつけています。
ここで閉塞後の各隊の状況に関する記述は終わり、次からは
収容の状況が始まります。
ともすれば閉塞船の戦いと被害ばかりが語られますが、
この作戦で収容のために出撃していた駆逐艦や水雷艇などにも
敵の攻撃で多くの犠牲が出ているのです。
例えば水雷67号艇は「三河丸」の掩護の際被弾した砲弾が
舵機室で炸裂し、機関兵曹と下士官一名に重傷を負わせ、
機雷敷設艦「蒼鷹」では一等水兵が被弾して死亡しました。
他の収容艦も、ほとんどが敵の弾丸の中任務に従容と当たっています。
「愛國丸」の9名の乗員は、「遠江丸」31名の乗員とともに
水雷艇「隼」に収容されて帰還しました。
続く。