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匝瑳胤次と水野広徳 二人の軍事ジャーナリスト〜旅順閉塞戦記念帖

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アジ暦公開の当時の資料を見ると、第三次作戦における戦死者は

相模丸 13

朝顔丸 18

佐倉丸 19

愛國丸  8

となっていて、参加全12隻のうち、全滅したのは「朝顔丸」「佐倉丸」。

戦死した指揮官は

向(朝顔丸)、白石(佐倉丸)、
高柳(江戸丸)、野村(小樽丸)、湯浅(相模丸)

の5名となります。

大尉であった5名は戦死後いずれも少佐に昇進しました。

このうち、乗員は帰還したが指揮官が死亡したのが「小樽丸」、
そして、総指揮官の帰還命令を受けて反転したのが

「新発田丸」「釜山丸」「長門丸」「小倉丸」

の4隻で、このシリーズが始まってから再三お伝えしているように、
わたしがオークションで手に入れた海軍兵学校発行の

「旅順閉塞戦記念帖」

という写真集には、これらの閉塞船の乗員の集合写真はあっても、
各指揮官の顔写真は無慈悲にも割愛されているのです。

まだご紹介していない「小倉丸」の乗員写真です。

「小倉丸」は総勢22名と他の閉塞船より「大世帯」でした。
そのうち士官が3名、下士官が2名というのは他船と同じです。

第三次閉塞 小倉丸指揮官 

海軍少佐 福田昌輝 (中央)

は兵学校17期。
大尉が多い閉塞船指揮官の中で少佐でした。
それまでの閉塞作戦について見ていると、総指揮官を中佐とし、
指揮官船に続く2番船の指揮官は、必ず少佐が充てられています。

第一閉塞ならびに第二閉塞における廣瀬少佐が其のポジションで、
参加数が一挙に多くなった第三次作戦では、全体を三つの小隊に分け、
各小隊の1番船に少佐を配置しているのです。

福田少佐は第1小隊の指揮官船に続く2番船の指揮官でした。

そして、何度もここで申し上げているように、第三次作戦では
天候が悪化したため、総指揮官林三千雄中佐は中止を決定。

この理由は、作戦が達成しにくいという理由以前に、
閉塞船自沈後、端艇で海上に逃れた乗員を収容するのが困難になる、
というものだったということです。

人員を死なせないことを第一義にしたこの決定は、総指揮官として
当然であり至極真っ当な決断であったと思うのですが、
実際其の命令に反して命令を無視し、反転した指揮官は
その勇敢な戦闘行動と死を恐れない敢闘精神を讃えられ、
命令を遵守した4隻の指揮官は記念アルバムから省かれるという
屈辱に甘んじることになったということも何度も申し上げる通りです。

「小倉丸」は幸か不幸か、指揮官船の後ろを航行していたため、
指揮官命令が手旗によって即座に伝わりやすい船位にいました。

おそらくは一番最初、発令された20時ごろには伝達を受け、
命令に従って帰還したものと思われます。

 

 

 

 

それでは、各閉塞船の最後に「三河丸」と指揮官を紹介しましょう。
閉塞をとりあえず成功させ、失った乗員もただ1人という
閉塞作戦の中ではもっとも無難に?こなした1人ですが、
彼の場合はその後の生き方についてご注目いただきたいのです。

 

第三次閉塞三河丸指揮官

海軍大尉 匝瑳胤次

「三河丸」も林司令の中止命令が伝わらず、突入してしまった船です。

この司令官の名前をなんと読むのか検索するのに苦労したのですが、
「匝瑳」は千葉県にある地名で「そうさ」、胤次は「たねひろ」とする説と、
どういうわけか「ひさ・たねじ」と読むという説があるらしく、
Wikipediaにはどちらの読み方も書いてあります。(名前なのに・・・)

結論から言うと「三河丸」はラッキーな船で、「朝顔丸」と同じく、
単身突入し狙い撃ちされるも敵弾を掻い潜り、匝瑳はここぞと言う場所で
「三河丸」船体を自沈させ、さらに脱出、収容されて乗員は帰還に成功しています。

第三次閉塞三河丸指揮官附

海軍中尉 大西良輔

旅順港に突入し閉塞作戦を成功させて生きて帰ってきた割に、
その後あまり出世せず、最終階級が少佐、航海長で終わっています。

「三河丸」乗員18名、匝瑳大尉は中列中央、大西中尉は右から2番目です。
このうち一人、四等機関兵姥谷常次郎が戦死し、負傷者は6名でした

匝瑳が指揮官を務めた「三河丸」は第1小隊として「新発田丸」、
「小倉丸」、「朝顔丸」の次の4番船でした。

風が激しくなり、林中佐が中止命令を発し反転したとき、「三河丸」には
命令が伝わらず直進しましたが、汽罐が不調だったため他船に遅れをとり、
置いていかれる形になってしまいました。

しばらく他船と合流するのを待っていると砲声が聞こえたので
匝瑳は突入が始まったと判断し、単独での突入の指令を下しました。

匝瑳胤次は予備役となってから著作家となりました。

そして本作戦についてもいくつかの著書を残しているのですが、それによると、
「三河丸」がロシア軍に発見され銃砲撃を一身に受けたのは5月3日の午前2時。

「煌々タル光ニ眼ハ眩ミ、轟々タル響ニ耳ハ聾シ」(匝瑳の回顧文)

探照灯に照らされ、集中攻撃を受けながらも「三河丸」は防材を突破して進撃し、
周囲の地形を十分確認できないままに好位置に達したと判断し「三河丸」を爆沈させ、
端舟(短艇)で脱出を試みました。

ロシア軍は短艇を狙って追撃してきましたがなんとか脱出に成功。
作戦開始から2時間半後の午前4時30分、「三河丸」乗員を乗せた端舟は
第41号水雷艇に発見され、同艇に救出され、帰還したというわけです。

「三河丸」の乗員からはこのような記念品が兵学校に寄贈されました。
説明によるとこれが「船体の外鈑」だということですが、
縦に「三河丸」と書かれている部分がどこなのかわかりません。

匝瑳胤次大尉の号笛(ホイッスル)も教育参考館に寄贈されました。
本人の説明も付されていたそうです。

写真をよく見ていただくと、吹き口の一部が欠けているのがわかります。

「この笛は閉塞当時使用せるものなり

船湾口に近づくや之を右手の拇指(おやゆび)と食指との間に挿み
『メガホン』を持ち予の右側に佇立せる伝令の肩を軽打して
最後の用意を促しつつありし瞬間
敵の弾片は突如艦橋の『スクリーン』を突破してこの笛を掠り
伝令の咽喉を貫き肺部に入り同人を即死せしめ
この笛亦(また)用をなさざるに至らしめたり

後病院船にて死体検察の際伝令の背部より摘出せる弾片
(片鐵榴弾にして最大幅約一寸五分長約二寸)の一端には
此の笛の真鍮片付着しあり
其の部分亦此の破口と同じく一致するを発見したり」

匝瑳が船橋で伝令に確認を取っていたところ、
飛来した弾片が匝瑳の手にあった笛をもぎ取って、それが
目の前にいた伝令の喉に突き刺さり、彼を死亡させたというのです。

その後、彼の遺体を検視したところ、喉からは笛が、そして
背中から摘出された弾丸には、写真で確認できる吹き口の金属の
「欠けた三角形の部分」が張り付くように付着していたのが見つかりました。

「三河丸」の戦死者は1人ということなので、この伝令が
四等機関兵姥谷常次郎であることは間違い無いと思われます。

 

さてここで、匝瑳胤次という海軍軍人についてわかったことを書いておきます。

大阪の堺市に士族の次男として生まれた匝瑳は、海軍兵学校26期で
野村吉三郎(大将)小林躋造(大将)清川純一(中将)の同期でした。
ただし野村(2番)や小林(3番)と違い、彼の成績はかなり下位
(59人中56番)だったそうです。

それでも閉塞作戦を当時基準で「成功」させ乗員を連れて帰ってきた、
という実績は、その後の出世に大いにプラスになったと見え、
主に艦長職畑を歩き、最終階級少将にまでなっています。

予備役となってから著作家として活発に活動を行い始めましたが、
ちょうどそのころ、世論を二分したロンドン軍縮条約に対する見解で
彼は軍縮反対の立場をとり、昭和7年には

「深まりゆく日米の危機」

という著書で世間にその持論を訴えました。

時流に乗った匝瑳の軍縮反対論は大衆に受け入れられ、彼の著書は
1ヶ月で18版を重ねる大ベストセラーとなったといいます。

 

しかしこのとき、軍縮を受け入れ軍備撤廃すべきであると訴えた
「条約派」のなかに、偶然にも匝瑳の海軍兵学校のクラスメートがいました。

それが水野広徳(卒業時ハンモックナンバー24番)という人物でした。

偶然といえば、この人もやはり海軍軍人をやめた後文筆家になったのですが、
そのきっかけというのが、旅順閉塞作戦に参加した記録をまとめ、それが
全国紙に掲載されたことから文才を認められたことだそうですから、
匝瑳と同じく旅順港が彼の人生を変えたといってもいいでしょう。

その後彼は軍令部の軍史編纂室で日清・日露戦争の部分を担当し、
このこともその後文筆業に進みたいという動機となりました。

そして、偶然というのが歴史の皮肉とでも言うのか。

閉塞を成功させ「三河丸」から短艇で脱出した匝瑳らを救出したのは、
当時水雷艇長として作戦に参加していたこの水野だったのです。

海軍時代の水野広徳

彼はなかなか興味深い人物とその著作なので大いに寄り道します。
水野は第一次世界大戦参戦帰国後、加藤友三郎海軍大臣に

「日本は如何にして戦争に勝つよりも如何にして
戦争を避くべきかを考えることが緊要です」

と報告するなど、平和主義者として反戦論を説きました。

その後、軍人に参政権を与えよと書いたことが海軍刑法に触れ、
謹慎処分となってしまったので、執筆活動にはいることを前提に退役し、
評論家としての道を歩み始めたのでした。

そして、仮想の日米戦争を分析し、日本の敗北を断言した
『新国防方針の解剖』を発表します。

また、リアルな日米仮想戦記『海と空』(昭和5年)では
東京空襲が行われた場合の惨状を、

「逃げ惑ふ百万の残留市民父子夫婦 乱離混交 悲鳴の声」
「跡はただ灰の町 焦土の町 死骸の町」

とみごとに「予言」しているのです。

当然彼は情報局から睨まれ、執筆禁止者リストに入れられるわけですが、
アメリカは早くからこの人物の著書を手に入れ、研究していたらしく、
終戦間近の昭和20年、米軍機より撒かれたビラの内容は、驚くべきことに
水野の著作の一部をまるまるコピーしたものだったと言われています。


つまり偶然、閉塞作戦で助け助けられる側になったこの二人が、
軍縮という一点においては敵味方の陣営に別れることになったわけです。


反戦・平和主義で当局から睨まれた水野は、不遇のうちに世を去りました。
しかしながら戦後平和主義者として一部からとはいえ偉人化され、
その反骨精神と思想を讃えられています。

キャッチフレーズは「戦争に反対した帝国軍人」。

一方匝瑳胤次の方は、大東亜戦争遂行のための言論統制を担当していた
情報局の指導のもとに設立された大日本言論報国会という、戦時下唯一の
評論家団体に属し、軍部の庇護のもとで戦争遂行キャンペーンを行いました。

知名度を利して東京市議会議員なども務めるなど、大いに時流に乗り
終戦までは「我が世の春」を謳歌したと思われます。

しかし終戦の昭和20年を最後にぱったりと彼の著書発行暦は途絶え、
その後逝去する昭和35年まで、彼がどういう人生を歩んだのかは
少なくとも調べた限りではどこにも見つけることはできませんでした。

 


ここで、まとめとして、のちの世間的な評価でいうところの
第三次閉塞船における指揮官の「ヒエラルキー」、つまり
「偉い順番」を表にしてみました。

ーーーーー軍神(別枠)ーーーーーーーーーーー

廣瀬武夫

ーーーーー英雄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「朝顔丸」向少佐   中止命令を知っていたが再反転して戦死、全滅

「江戸丸」高柳少佐 中止命令を知っていたが再反転 指揮官のみ戦死

「相良丸」湯浅少佐 中止命令を知っていたが再反転して指揮官戦死(捕虜になり自死)

ーーーーー普通の英雄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「小樽丸」野村少佐 中止命令が届かず突入して指揮官戦死

「佐倉丸」白石少佐 中止命令届かず、突入し閉塞後陸で交戦、捕虜になり病死

ーーーーー普通ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「愛國丸」犬塚大尉 再反転、作戦後端艇から投げ出されるが生還

「遠江丸」本田少佐 命令を知っていたが再反転 作戦後生還

「三河丸」匝瑳大尉 命令知らずに突入 作戦遂行後生還

ーーーー超えられない壁ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「新発田丸」遠矢大尉 反転しようとするも発動機故障で帰還

「釜山丸」大角大尉 発動機の故障 隊員を説得して帰還

 

「小倉丸」福田少佐 指揮官命令を遵守 帰還

「長門丸」田中少佐 指揮官命令を遵守 帰還

 

続く。

 

 


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