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第三次閉塞隊員慰霊碑〜旅順港閉塞戦記念帖

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お話ししてきた昭和2年発行の「旅順閉塞作戦記念帖」シリーズ、
全部隊について説明を終えたところで、最終回の今日は
記念帖に掲載されたその他の写真についてあますところなくご紹介していきます。

まず、冒頭の絵画ですが、当時の白黒写真で撮られているのは、
忘れもしない、舞鶴地方総監部の見学の際、大講堂で見たあの絵です。

これが今現在の同じ絵画。

第二次閉塞作戦で閉塞船「福井丸」を自沈させる直前、姿の見えない
杉野孫七兵曹を探して船内に戻ったものの、ついに捜索を断念した
廣瀬武夫海軍少佐が今から端艇に乗り移ろうとしているシーンを描いたものです。

この絵に緊迫感を与えているのは、この直後に爆死する
廣瀬少佐は舷で部下が先に端艇に乗り移るのを見守っており、
その姿は闇に溶け込んではっきりとしていないことでしょう。

誰もが知る物語だからこそ決定的な表現をあえて避け、
見るものの空想にその後を任せたという表現方法は、
別の言い方をすると、戦後の進駐軍を含む軍事色追放の中でも
「見逃され」、後世にその姿を残すことができた理由かもしれません。

そのことは、かつて省線万世橋駅のたもとにあった廣瀬中佐と
杉野兵曹の像が昭和22年には撤去されたという事実を思うと
あながち間違っていないのではないかという気がします。

昭和2年の記念帖の解説には、

旅順閉塞大油絵額

海軍機関学校所蔵のものにして額縁は蠣殻の附したる
閉塞船船材を以て造られあり。

(原版 海軍機関学校寄贈)

とあります。

わたしが見学した時、案内してくれた自衛官は、この牡蠣の付着した木材が
廣瀬中佐の「福井丸」のものであると断言していたのですが、
この記念帖ではただ「閉塞船」とだけ言及しています。

額縁の一部には、当時船体に使われていた金属の留め金も残されています。

わたしが見学に行った舞鶴地方総監部にはむかし機関学校があり、
大講堂は機関学校のものであったということから、これはずっと
ここにあったと思われます。

「原版海軍機関学校寄贈」

所蔵、ではなく寄贈なので、ちょっと意味がわからないのですが、
原版は機関学校が持っていて写真を寄贈してくれた、
という解釈でよろしいのでしょうか。

もう一つ当時の写真と現在のを比べてみると、黒い金属が
記念帖の写真では絵の上部に見えるのに、今のは下にあるとか、
蠣殻の付着状態が両者で全然違っているとか、相違点があります。

現在は昔の額を額ごと新しい木材で装丁しているので、
もしかしたらその作業の段階で修復が施されたのかもしれません。

第三艦隊下士官兵第三次閉塞参加志願書綴

伊集院第三艦隊参謀の集めたるものにして
大正14年5月27日 皇太子殿下水交社に行啓の際
天覧に供し尚還啓(行啓先から帰ること)の際
特別の思し召しに依り東宮仮御所に御持ち帰られ
皇太子妃殿下の尊覧にに供せられたるものなり。

写真の左半に示せるものは血書なり。

(伊集院海軍少将未亡人寄託
本校参考館所蔵)

第三次閉塞には募集人員に対して多くの志願者が
血書をもって参加を希望してきたことは、
以前当ブログでも書いたことがあります。

志願のため血書をしたためる水兵さんを描いたものですが、
意気込みのあまり椅子から立ち上がって中腰になっています。

当ブログが以前調べたところによると、応募者二千人の中から選ばれたのは77人。
そういえば帝国海軍が生まれてから終戦で終了するまでのあいだに
「海軍大将」は全部で77人でしたよね。
海軍兵学校も77期まででしたし・・・。

でっていう話ですが。

写真の志願書は、まず右側に

平遠艦長 海軍中佐 浅羽金三郎殿

とあります。
志願書を軍艦の艦長に直筆で送ってなんとかなったんでしょうか。

「平遠」は名前からもわかるように、日清戦争で降伏し、
日本海軍に接収後編入されていた装甲巡洋艦です。

「平遠」は旅順港閉塞作戦にも参加し、その後、
旅順攻略戦において哨戒からの帰投中触雷し、沈没しました。

Kinsaburo Asaba.jpg

艦長であった浅羽金三郎中佐はこの沈没で戦死し、大佐となりました。

左のページは血書で認められているということですが、
血書にしては線が妙に安定?しているので、もしかしたら
上の図の水兵さんのように指を切って直接書くのではなく、
ザックリと思いっきりよく切ってどこかに貯めたものを
筆で書いたのではないかと思われます。いたたた・・・。

右者?隻決死隊募集之有候ニ付テハ
決死心ヲ以テ志願仕(つかまつ)リ度候間??
許可相成度??奉祈願上候也

決死者 (住所)高澤善太郎

時々全く解読不明な文字があるのですが、とにかく、
「決死者」として参加を熱望していることはわかります。

高澤善太郎さん、果たして77名の閉塞メンバーになれたのでしょうか。

閉塞後退去するために端艇に乗り移るも、
いつの間にかその姿が失われていた、「相模丸」の指揮官、
湯浅竹次郎海軍大尉の出発前の遺書です。

湯浅少佐

閉塞決行の前日にしたため、家族に送られた遺墨には
こうあります。

古人曰ヘルアリ従容ト義ニ就クハ難シト
今ヤ廿有余ノ勇士ト此難事ヲ決行ス 武士ノ面目之ニ過ギズ

願エレバ最早人事ニ於テ缺クル事なし 
天佑を確信し笑を含んで死地に投ず 愉快極まりなし

三十七年五月一日 

相模丸指揮官 海軍大尉湯浅竹次郎

前半がカタカナ送りで後半が平仮名になっていますが、
これには何か意味があったのでしょうか。

湯浅少佐が使用していた双眼鏡です。
買ったばかりであったのか、本体はまだ光沢を放っており、
ケースも全く経年劣化は見られません。

旅順開城となってから、さっそく閉塞作戦の痕跡の検証が始まりました。
この写真は旅順鎮守府の機関長」が撮影したと説明があります。

右上に見えている水路が旅順港口で、

1 報国丸

2 米山丸

3 弥彦丸

4 福井丸

「弥彦丸」と「福井丸」の間には

5 露国船舶

が沈んでいる、ということです。

なお、不鮮明ですが、福井丸の左に見えているのは
史実によると「千代丸」のはず。

同じ場所を少し角度を変えて撮ったもの。
弥彦丸の右側に小さな船がいますが、煙突から煙が出ているので
航行中の日本船であろうと思われます。

 

ほぼ海抜0地点から撮られた閉塞の状況写真。
こうしてみると、「米山丸」が最も閉塞に成功しているように思えます。

旅順開城当時、現地を見聞して行われた報告をもとに制作された
旅順港閉塞状況の模型です。

構内の軍艦は敗残の敵艦隊にして
港口付近に沈没せる多数の汽船は
壮烈なる我が閉塞船並びに
我が閉塞を妨害するの目的を以て
敵自ら沈置せる船舶なり。

この模型は開城後早速設置されたらしい旅順水交社が制作し、
その後海軍兵学校に寄贈されたということです。

実際の閉塞作戦においてもしこれだけの船が港口を塞いでいたら
旅順艦隊はしばらくの間外に出ることはできなかったでしょう。
しかし説明のように湾内にはロシア艦隊の艦が結構な数放置されていました。

開城後、旅順にはこの模型と同じ閉塞隊の記念碑が建てられました。

旅順に於ける第三回閉塞隊記念碑

第三回閉塞隊戦死者の遺骸を露軍が埋葬せし跡に
久保田金平氏の設置したる記念碑にして
同氏は多年旅順に在りて我が戦死将卒の忠魂を
慰籍するに心力を盡(つく)し毎年祭典を行えり。

「慰籍」という言葉から、詳細はわかりませんが、
この久保田という人は、現地にロシア軍が埋葬していた遺骸を荼毘に附して
内地の故郷に送るというような事業をしていたのかもしれません。

模型は旅順水交社から海軍兵学校に寄贈され、
教育参考館に所蔵されていたそうです。

模型右側の木札にはこのように記されています。

此の記念碑は我が旅順閉塞舩隊員の
壮烈無比の行動に対し 露軍が潔く感動し
その戦死者を厚く葬りたる跡に建てられたるものにして
碑は閉塞舩朝顔丸のプロペラーの一般を用い
その礎石は閉塞舩に搭載しありたるバラスト用石塊なり

説明はありませんが、記念碑の周りに立てられた砲弾も
実物であろうかと推察されます。

ロシア軍が廣瀬武夫海軍中佐の遺体を収容し
立派な葬礼で葬っていたということは、
この記念帖が発行された昭和2年ごろにはわかっていなかった事実です。

 

旅順港閉塞船記念帖シリーズおわり

 

 


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