「レキシントンの戦い」の再現ショーが見られたボストン、
南軍からの攻撃に対応するために作られたフォートがあったサンフランシスコ、
そしてここピッツバーグでも、南北戦争の痕跡は至るところにあります。
なにしろペンシルバニア州ではあのゲッティスバーグの戦いが行われ、
ピッツバーグには砲兵工廠や陸軍連隊のヘッドクゥオーターがありましたから、
市内には有名な将官の墓所なども普通にあって、車で走っていると
「ここに南北戦争で戦った北軍の誰それのお墓があります」
という立て札を目撃したりします。
南北戦争の兵士を顕彰するために作られた記念博物館、
「ソルジャーズ&セイラーズメモリアル&ミュージアム」を、たまたま
コロナ肺炎以前に見学していたことから今回のシリーズ制作となりましたが、
案の定そうやって知識を得ていくと、今まで見逃していたものごとが
急に意味をもってクローズアップされてくるという現象がありました。
歴史家でもジャーナリストでもないわたしがアフォリエイトでもない
無料のブログ(というか逆にブログの写真掲載のために月会費を払っている)で
今までいろんなことを追求してきた意味のほとんどはそこにあります。
今まで曖昧糢糊としていた知識が、ある場所に踏み込んで行った途端
ぱっと開けて旧知のものごとと繋がったときの喜びと興奮は
何ものにも替え難いというほどのものではないにしろ、
当ブログ継続の大きなやる気と動機になっているのは間違いありません。
今回の滞在では当初予約していたホテルから一方的に予約をキャンセルされ、
野球場の道向かいにあるホテルに変更することになったのですが、
これが今にして思えば結構な「あたり」で、ゲームが中止になっているおかげで
シーズンなのに周りが混雑することなく、交通至便であることがわかりました。
川沿いの遊歩道にホテルから歩いて出られて散歩コースにはことかかないし、
ダウンタウンのように夜になると周りに怪しげな人がうろついていることもありません。
というわけで毎日せっせとあちこちを探索しているわけですが、
到着して次の週末に遊歩道の公園を歩きにいったら、なんとそこが
「フォートピット」という砲兵工廠があった場所であることがわかりました。
当時の煉瓦造りの建物を利用した博物館があり、おそらくここでは
南北戦争時代の遺物なども展示されているのだと思います。
コロナのおかげで閉館していましたが、こういうのも偶然とはいえ、
たまたま南北戦争について調べていた最中であったことを思うと不思議な気がします。
ここには1754年に構築されたピット要塞の一部が保存されています。
ピッツバーグに残された最も古い建築物と考えられているとか。
南北戦争時代、ここはピット要塞として北軍の司令部ともなっていました。
さて、それでは南北戦争関係展示の続きをご紹介していきます。
ケースごとにテーマがあるようなのですが、ここにはこんなことが書かれています。
「北軍兵士が着用した『普通と違う』ユニフォームのいろいろ」
ほとんどの人たちは南北戦争のユニオン=北軍のユニフォームは
ダークブルーだと思っておられるでしょう。
確かにそれは間違っていはいませんが、その間、ユニオンブルーとは
少し違うタイプのユニフォームを着ていた組織もありました。
この見るからに民族的なユニフォームの男性はズアーブ(Zouave)兵です。
右下のズアーブ兵はノア・パンバーン上等兵といい、ロバートE.リー将軍の正式降伏と
仮釈放に出席するために選ばれた155番目からの小さな派遣団の1人でした。
彼は戦後も連隊のヴェテランとして様々な催しに
ズアーブ兵のユニフォームを身に付けて参加していたということです。
ユニフォームは彼の死後、息子によって当会館に寄付されました。
南北戦争時のズアーブ兵
アルジェリア・チュニジア人が中心となったフランス語を喋る兵隊で、
南北戦争は義勇軍として北軍・南軍のどちらにもズアーブ兵部隊がありました。
第155ペンシルバニア志願連隊は最も有名なズアーブ兵部隊でした。
北軍のブルーをあしらったユニフォームに赤いサッシュベルトをしています。
彼らの民族衣装はファッションにも影響を与え、
ゆったりしたパンツは「ズアーブパンツ」、丈が短くノーカラーで
トリムのあるボレロ 風の上着は「ズアーブジャケット」。
この言葉は今でもアパレル用語として使われています。
ゆったりしたパンツはサルサパンツと言うこともありますが、
ズアーブパンツというのもよく使われる用語です。
エルマー・エルズワース少佐 Elmar Ellswarth
このシリーズが始まってすぐ、「ジョン・ブラウンの亡骸は墓土の下」という歌詞の
「グローリー・ハレルヤ」というタイトルの曲をご紹介したと思いますが、
そもそも、ジョン・ブラウンって誰?といいますと、南北戦争時代、
人種差別=黒人の奴隷制度に反対し、南部の武器組織を急襲して失敗、
死亡した人物であったのです。
いまでもいろんな替え歌ができているこの曲ですが、当時も
「エルズワースの亡骸は墓土の下」
という替え歌がありました。
オリジナルができてから数年後には替え歌ができていたということですから、
あらためにこの曲の汎用性の高さがわかりますね。
そのエルズワースというのがこのエルマー・エルズワース少佐で、
なぜ彼が歌に歌われることになったかというと、彼こそは
「南北戦争が始まって最初に死んだ将官」
であったからです。
その写真がなぜこの一角にあるかと言うと、彼はズアーブ士官候補生部隊を率いていたからです。
リンカーンの大親友でご覧の通りのイケメン士官でもありました。
その死に方というのがなかなか不条理なので、説明しておきます。
エルズワース少佐は、占領した南部の街にあったアレキサンドリアホテルに
南軍の旗が掲揚されていたのを見て、オーナーに無断で屋上に上がり、
オーナーに無断で旗をナイフで切り落として意気揚々と降りてきたところを
オーナーであったジャクソンという男にいきなり撃たれてしまったのです。
この版画は階段を降りてきたエルズワースをジャクソンが撃ち、
エルズワースの部下が銃剣を構えてジャクソンに向かっています。
部下であったこのズアーブ兵は上で紹介した写真のフランシス・ブラウネル上等兵で、
少佐がやられた次の瞬間問答無用でジャクソンを倒しました。
リンカーンはこの親友の死を嘆き、彼の遺体は大統領権限で
ホワイトハウスの一室に一時納められていたということです。
Veteran Reserve Corps、VRCの制服です。
日本語で言うと「古兵予備軍団」ですが、実態は、障碍を負っていたり
衰弱した軍人および元軍人からなる部隊で、南北戦争時代、北軍にのみ存在しました。
彼らは前線で必要とされる健常な兵士らに代わって軽作業等に従事していました。
第21VRC歩兵連隊B中隊の兵士傷病兵軍団のユニフォームは一般部隊とは違うデザインで、ここにもあるように、
ジャケットは空色のカルゼ地、紺色のトリム、
騎兵用ジャケットと同型の裁断、腰/腹部にかかる丈です。
ズボンはジャケットと同じ空色でした。
写真の右袖に見える階級章の裏布はトリムと同じ紺色です。
VRCには将校もいて、空色の布地に襟および袖口に
紺色のベルベットをあしらったフロックコートが支給されましたが、
空色は汚れが目立ちやすいと現場からクレームでもあったのか、
後には通常部隊と同様の紺色のフロックコートの着用が許可されています。
VRCの軍楽隊です。
軍楽隊員というのは当時の基準でいうところの
「軽作業部隊」「invalidな人でもできる部隊」とされていました。
それにしても「古兵」といいつつ若く見える人ばかりですね。
健康そうに見えてもどこかに具合の悪いところがあるのでしょうか。
ここの説明に
”Invalid Corps"=傷病兵部隊
が別名だったと書かれていますが、
実際はこちらが最初の正式名であったのです。
しかし、イニシャル「I.C」が廃品(Inspected-Condemned)を想像させ、
この部隊名が士気に悪影響を与えているということになったので、
南北戦争期間中に名称をVRCに変更することにしたのでした。
2大隊からなっており、一等大隊には障害が比較的軽い者が配属されました。
軽い、つまりマスケット銃を扱えたり行軍ができる程度の能力があれば、
警衛や憲兵(Provost)としての任務に従事できました。
二等大隊はより深刻な、例えば手足の切断やその他の大怪我を負った者が
料理人、倉庫番、看護師、公共施設の警備員の任務に配属されるために組織されました。
古兵予備軍団は24個連隊を擁し、各連隊は1個師団および3個旅団が編成され、
いかに対象となるような将兵が増え続けていたかがわかります。
障害が軽度であるとされた一等大隊員は二等大隊員の2倍から3倍程度いて、
次のような任務に就いていました。
捕虜収容所の看守
徴兵の執行
憲兵隊長(Provost marshal)補佐
前線と後方の間の交代兵員の移送
新規入隊者、捕虜の護送
鉄道の警備
ワシントンD.C.での警邏
動乱の際の市街の防衛
戦争を通じて、60,000人以上の陸軍将兵が古兵予備軍団に参加し、
そのうち1,700人がいわゆる殉職しています。
このうち戦闘における戦死者は24名でした。
連合国軍(南軍)にもこの種の傷病兵部隊が存在したそうですが、
北軍ほど組織化された者ではなかったようです。
ちなみに、1865年7月7日、リンカーン大統領を暗殺したとされる
共謀者4人の絞首刑が執行されていますが、これを担当したのは
第14古兵予備連隊F中隊から派遣された4人の兵士でした。
ついでのついでに、よくご存知かもしれませんが、
この時に絞首刑になった4名の顔写真をあげておきます。
メアリー・サラット
ルイス・パウエル
デビット・ヘロルド
ジョージ・アツェロット
の女性を含む4名で、刑の執行場所はマクネア砦でした。
処刑台の近くに2名兵士の姿が見えますが、これがVRCから派遣され
執行を行った後の4名のうち2名の兵士であろうと思われます。
リンカーン暗殺とその後の処刑についてはもう少し後で
詳しく説明したいと思います。
南北戦争が終結すると、必要性もなくなり、古兵予備軍団の部隊は
1866年までにほとんどが消滅し、残っていた部隊も普通連隊と統合され、
古兵予備軍団は完全に消滅することになりました。
続く。