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華府軍縮会議〜映画「怒りの海」 1日目

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アメリカ滞在中にブログ作成するつもりで画面をキャプチャしたときには、
本作が海軍省検閲済みのいわゆる国策映画であること、主人公は
あの平賀譲であること、ワシントン軍縮条約の結果についての怒りが
映画のテーマになっていることなどがわかったわけですが、
さていつものように情報を集めようとしたら、これがびっくり。

ウィキペディアはない、映画評もない、もちろん解説サイトもない。
おそらくこの映画の知名度はほとんど皆無に近いのではと思われました。

制作は東宝。
立体的な五線譜に「東宝株式会社」という字が流れる、
戦時中のおなじみ東宝映画のタイトルです。



「海軍省検閲済み第48号」であり、もちろん後援を受けており、
「情報局選定国民映画」でもあるというバリバリの国策映画です。

場面は大正10年から始まりますが、この映画が制作されたのは
昭和19年、1944年のことです。

つまり四半世紀昔に遡っているという設定なのですが、
それだけ時が経てば風俗などもずいぶん様変わりしているはず。
そんな時代考証はしているんだろうかとか、昭和19年といえば
かなり敗戦色が色濃くなっていた頃なのに、映画作ってる場合だったのかとか、
これだけでいろんなことを考えてしまいますね。

「ごがいご〜が〜い」

鈴を腰につけて新聞束を持って走っている号外売りが登場。

音声が不明瞭で号外売りの滑舌が悪く、何を言っているのか
さっぱり聞き取れませんが、最初の

「ワシントン軍縮会議でアメリカが」

だけはわかりました。
不思議なことにこの新聞売り、新聞を配るでもなく、手を上げて
走りながら叫ぶだけ(笑)

折しも海軍省(絶対本物)に入っていく黒塗りの車あり。
霞ヶ関の海軍省跡は現在厚生労働省の庁舎が建っています。

海軍省発表の記者会見が開かれました。

「11月12日、ワシントン会議劈頭における合衆国全権、
ヒューズ国務長官の提案中、廃艦の条項について詳細を発表します」

これによると

●アメリカ合衆国

目下建造中の主力艦15隻
「デラウェア」「ノースダコタ」を除く老齢戦艦15隻

●イギリス

未起工であるが既に経費を支出したもの、
「キングジョージ5世」級を除く第1戦艦、老齢弩級戦艦15隻

●日本

未起工戦艦、巡洋艦8隻

既に進水した戦艦「陸奥」建造中の「土佐」「加賀」、
巡洋戦艦「天城」「赤城」その他「高雄」など

ただでさえ聞き取りにくい海軍省の軍人の声に悲壮な音楽が重なり、
余計に何を言っているかわかりません(´・ω・`)

横須賀工廠のつもりでしょうか。
建造中の軍艦「土佐」という設定ですが、これはさすがに模型だと思われます。

誰もいない工廠で「土佐」を前に艦政本部のメンバーが、

「この『土佐』やできたばかりの『陸奥』を廃棄するって
そんな取り決めってありますかね」

「世論だよ。新聞を見たまえ。
世間では陸奥一隻助かるかどうかのヤマカン的興味しかもっていないんだ」

「残念ながら僕には希望的観測は持てん」

と絶望的な会話を交わしています。

さてここで熱心に設計図を見ている後ろ姿の主人公が登場です。
平賀譲を演じるのは大河内伝次郎。

平賀譲という人は兵学校を志望するも近眼のため体格検査ではねられ、
仕方なく東京帝大に行って、卒業後海軍造兵廠に入り、そこで認められ、
この映画の最初のシーン、ワシントン条約締結の頃には造船少将でしたが、
なんとその年齢が聞いてびっくり、32歳なんですよ。

愚痴を言いつつ帰ってきたこのおっさん、山岸は関西本部の民間設計者のようです。
帰ってきた山岸に向かって平賀少将、

「なんだいこの設計は!」

「その先だよその先を越すんだよ君!」

「僕らは帝国海軍11号艦を設計している。そうだろ君!」

何回聞き直してもセリフが聞き取れないところがあるんですが、
平賀少将が君君君君連発しながらダメ出しをしているのはわかった。

しかし、この劣悪な録音一つとっても、お金がない中の国策映画であり、
映画の品質は二の次三の次であったことが窺えようというものです。

これはそもそも作品として歴史に残らないのも当然かと・・・。

 

叱られた山岸は憤懣を隠さず、平賀に向かって
ワシントン条約をどう思うか尋ねますが、平賀はつれなく、

「それが君の仕事に何の関係があるんだ」

「我々造船官はただ脇目も振らず
御船を造り奉ることに努力すればいいんだよ!」

おお、ザ・国策映画ってかんじですな。

なので、平賀が本当に言ったかどうかわからないことを、
しゃーしゃーとセリフにしている可能性が大いにありますが、
このとき平賀先生はちょうど亡くなったあとなので無問題。

というか、平賀譲が亡くなったので追悼の意味で翌年作られた映画なんですねこれ。

しかし、これどうみても32歳の顔じゃないよね?
大河内伝次郎は46歳、32歳から61歳までを演じきって見事ですが、
さすがにこの頃の平賀を演じるには無理があります。

模型を使った廃棄作業の映像には字幕をかぶせて
あまりお金をかけなかった特撮のアラをごまかしております。

「華府」はワシントンの漢字表記で、変換すると出てきます。

「石見」は日露戦争で鹵獲した「アリヨール」です。

日本が設計した当時最大級の戦艦「薩摩」も。

「安芸」は「薩摩」の姉妹艦です。

これらの軍艦を標的とした廃棄作業を行なった海軍飛行隊の
実行部隊パイロットの中には若い頃の大西瀧二郎がいました。

人員削減のためのリストラだけでなく、兵学校でも
入学生の数を大幅に縮小するなどの動きがありました。

さて、そんなことなどあずかり知らぬ「世間」を表すのは
贔屓の芸者衆を三人引き連れてどこかにお出かけする旦那。
彼らが笑いさざめきながら人力で通り過ぎる同じ道で、

対照的な表情の海軍軍人たちとすれ違います。

怒りを含んで彼らの後ろ姿を立ち止まって見送る若い軍人吉野は
すぐに仲間に窘められますが、窘めた軍人もまた苦々しげに、

「大戦景気に浮かれやがって、娑婆の奴らあの体たらくだ」

すると吉野は、

「娑婆か・・・この俺が明日から娑婆の風に当たるんだ」

大戦景気というのは第一次世界大戦による生産業の好景気のことですね。

吉野、じつはリストラ宣告されてきたばかりだったのです。

「飲もうよ。今夜は大いに飲もうよ・・・なあ?」

「貴様はまだ見たことなかったな?矢守の裸踊り」

「そうそう、墨で腹に人の顔を描いてな」

「よし、滅多に公開しない代物だが今夜は吉野のためにご披露するか」

そうそう、海軍軍人は最後までユーモアを大事にね。あまり面白くなさそうだけど。

この後彼らは「加藤閣下」の見舞いに行くことにして歩き出しますが、
見事に四人の歩調が合っているあたりがさすが海軍省検閲済みです。

彼らが通り過ぎたあとには、

「平和記念東京博覧会」

のポスターが映ります。

第一次世界大戦終了を記念し、産業発展のために行われた博覧会です。
折しも彼らが海軍を去る前日、博覧会は佳境に入り、
花火大会が行われていました。

彼らが訪問する「加藤閣下」のお住まい?
加藤閣下とはいったい誰のこと?

おそらく加藤友三郎のことでしょう。

中央加藤

加藤は「八八艦隊計画」を推進した中心人物でしたが、ワシントン会議では
米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成し、
これによって世界の「好戦国日本」の悪印象は一時的ながら払拭され、
各国代表に

「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」(痩せて背が高いため)
「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスをもった提督)」

と称揚されました。

その後彼は内閣総理大臣に就任しますが、在任期間に大腸癌に斃れ、
青山南にあった自宅で療養中だったのです。

まるで病院のようなご邸宅ですね。

海軍を去る軍人たちは、口々に平和に浮かれた世間のアメリカ迎合を嘆き、
華府会議の「敗北」は国民の後押しがなかったせいだ、と言います。

いやちょっとお待ちください。
アメリカの提案を積極的に指示したのは目の前の閣下なんですがそれは。

この頃(昭和19年)には、加藤は決定を覆そうとしたということになってたのかな。

しかし加藤は若い軍人たちを噛んで含めるように嗜めるのでした。

「軍艦は減っても海軍魂は減らんはずじゃ・・
東郷閣下はそう慰めてくださった。
それに訓練に制限はない!この意気だ」

「はっ・・・」

そこにやってきたのは平賀譲でした。
加藤は平賀に彼らを

「海軍大学の強情者共でな」

と紹介します。

そして、辞めていく予定の吉野を呼び止め、

「身の振り方は決まったのか」

吉野が首を振ると、

「故郷の温泉にでも浸かったらまたわしのところに来い」

顔を輝かせる吉野・・・でも加藤閣下この一年後お亡くなりになるんですよね。
吉野の運命やいかに(涙)

加藤は、造船官たちが八八艦隊の計画に対し
無理を言う軍部の期待に応えてくれたことをねぎらいつつ、
今回の条約の結果になったことを詫びます。

「あんたがたにも申し訳ない・・わしらの力が及ばんでのう」

それに対して平賀は、戦艦の分は巡洋艦で補い、量より質で戦う、
と力強く宣言するのでした。
加藤はもう戦争は始まっている、と言った上でこう呟くのでした。

「敵はアメリカだ。はっきりと海の向こうに姿を現しおった」

加藤寛治1939年(昭和14年)2月9日、脳出血により薨去。
対米強硬派でしたが、最晩年にはアメリカ、イギリスとの交戦を
避けたいという心境にあったともいわれています。

条約で決定され、廃艦が決まった「土佐」の廃艦式典が
5月19日に行われるという告示を造船所の工員たちが見ています。

進水式後「土佐」は造船会社から海軍に所有が移譲していたので
廃艦式典も海軍主体で執り行われることになったのでした。

神式の式台が設えられた「土佐」甲板では式辞が厳かに奉じられています。

「まさにその威容を太平洋上に示さんとするとき、
建艦を中止するも止むなきに至り、今や帝国海軍の貴重なる実験の碑となりて
横須賀港外に光輝なる終焉を告げんとす。

嗚呼、我ら再びその勇姿を見る能わずと雖も・・・」



そして、直後に実験海域まで曳航されていく「土佐」。
「土佐」は進水式の時に薬玉が割れず、縁起の悪さが囁かれていた艦でした。

実際には「土佐」は廃艦が決まって式典を終えた後、「土佐」は
運用術練習船「富士」に曳航されて長崎港から呉に回航され、
2年後の1924年から6ヶ月かけて実験の標的となって没しました。

ちなみに長崎県端島の「軍艦島」の愛称は、島の形がほかならぬ
この「土佐」に似ていることから命名されたということです。

港湾にいるすべての人々が帽子を振って「土佐」を見送ります。

おそらく撮影当時横須賀に係留されていた実際の軍艦と、
エキストラに動員されたらしい本物の水兵さんたちの帽振れ姿が写ります。

撮影は昭和19年ですが、大正時代の軍艦という設定なので
時代がバレないように軍艦の全体とか艦橋は映りません。

帽子を振る一団から少し離れたところに、
平賀をはじめとする海軍の造船官たちがぽつねんと立っていました。

 

 

続く。

 


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