昭和19年海軍省後援による情報局制作の国策映画、
「怒りの海」最終回です。
場面は暗転し、いきなり英語の放送が流れ出します。
ロンドン条約終了後、アメリカ全権が発表した声明でした。
「我が合衆国代表の目的は、我がアメリカ海軍が
日本海軍を現勢力のまま釘付けにすることであった」
「しかも日本が国民の支持せる三原則案を敢然放棄し、
敵手の跳梁を拱手傍観する如き本条約を承認せる」
いわばアメリカの「勝利宣言」です。
場面はロンドンから帰国する船の船室で、放送を聞いているのは
随員として参加した朝香少佐でした。
「日本が三原則を放棄したことに対し敬意と賛辞をおくる」
とありますが、これは、対米七割を軸にした三大原則のことで、
具体的には
補助艦対米7割、大型巡洋艦7割確保、潜水艦現状維持
という「これだけは譲れないライン」でした。
実際は重巡洋艦保有量が対アメリカ6割に抑えられ、
潜水艦保有量も希望量に達せずに終わったのはご承知の通りです。
ちなみラジオ音声はネイティブの英語話者がいなかったらしく、
どう聞いても日本人の英語です。
立ち上がって船室内のラジオのスイッチを切る朝香少佐の後ろ姿。
そして、このあと何をしたかと言うと・・・・
実際に自刃した随員は草刈英雄少佐で、自刃した場所も汽車の中と
フェイクありで表現してありますが、これは事実です。
草刈少佐の自殺とその後起こった五一五事件について、当ブログで過去、
自分で言うのも何ですが、実に簡潔にかつ面白く整理してまとめておりますので、
よろしかったらもう一度ご覧ください。
映画では新婚だったとありますが、草刈少佐の妻は自決当時妊娠しており、
生まれた男子は海軍兵学校67期に入学し、父が死んだのと同じ
少佐のときに終戦を迎えました。
草刈少佐の出身地は会津若松だったということですが、
映画で朝香少佐のお墓があるのも、猪苗代湖を見下ろす
丘の中腹という設定になっています。
この墓前に参り花を手向ける平賀の姿がありました。
偶然墓前で平賀は浅香の同期の吉野と出会います。
吉野は大陸に渡って任務に就いていたと説明します。
墓前で吉野が同級生に呼びかけるように
「浅香・・・日本は立ち上がったぞ」
と言います。
これはおそらく、ロンドン軍縮会議から5年後の第二次会議で
軍縮会議から日本が脱退し、それまでの条約も破棄したことを言っているのでしょう。
「帝国海軍は無敵だ」
吉野は平賀に、上海事変の際現地で「夕張」を見た、といいます。
「ほお、そうでしたか」
第一次上海事変を受けて、野村吉三郎中将率いる第三艦隊、
巡洋艦7隻、駆逐艦20隻、空母2隻(加賀・鳳翔)を派遣しましたが、
その巡洋艦の中には「夕張」が含まれていました。
(その他は平戸、天龍、対馬、那珂、阿武隈、由良)
「あの凄まじい威力に毛唐ども、すっかり度肝を抜かれておりました」
ちょっとお待ちください上海事変なら「毛唐」の「毛」はいらないのでは。
吉野は海外で我が軍艦を目の当たりにしたとき落涙した、と語ります。
「閣下、どうか新鋭艦をどしどし作ってください」
しかし平賀はそれに対し力なく笑いながらこういうのでした。
「海軍の技術力は充実しておりますので、僕なんかが引退してもびくともしませんよ」
「・・・・引退?」
この少し前から平賀は海軍技術者の藤本喜久雄と対立、
この内部対立により、艦船設計の担当部署である艦政本部から
海軍技術研究所の造船研究部長という閑職に左遷されていました。
しかし、海軍後援の本作品では、そういうドロドロはもちろん、
平賀が軍服を脱ぐに至った事情には一切触れずに、
後進の指導に当たることになった、と表面的なことだけ述べます。
平賀の伝記であれば、友鶴事件、第4艦隊事件が起こった後、
平賀が調査委員会を率いてその対策を講じたことも描くべきだと思いますが、
このあたりは海軍的に「触れられたくない」黒歴史なのでこちらもなしです。
東大総長となった平賀先生がさっそく第二工学部を設立せよ!と
鶴の一声を(咳き込みながら)下命しています。
総長就任後、平賀の肝煎で東大には第二工学部が設立されました。
ついでに興亜工業大学(現在の千葉工業大学)を興したのも平賀です。
ついでのついでに、平賀先生、総長に就任するなり
派閥抗争を起こしていた教授を13名追放するという
「平賀粛学」を行っています。
咳を気にして診察を受けるようにおずおずという事務長に
大丈夫だと言っていると、来客がありました。
この士官が誰なのか全く説明がないのですが、彼は開口一番、
浅香の墓前で会った吉野少佐が亡くなったといいます。
なんと、「マライ」でスパイの嫌疑を受け収監され、釈放後、
マラリアに罹ってしまったというのです。
っていうかマライってどこ?マレーのことかしら。
「そうですか・・・」
この人は、なぜだか吉野が生前各国の印象などを書き込んだ手帳を
持ってきて、机の上に置き、
「閣下に読んでもらえば吉野も本望でしょう。
閣下を崇拝しておりましたから」
って、二回しか会ったことがない人の遺品をもらっても
平賀先生も困っちゃいますよね。
というかこのおっさん、なんで人の遺品を勝手に他所に持って行ったりするの。
普通返すならまず家族だろーが。
しかし、この士官の目的は実はこれが目的ではなかったのです。
「わたくしは吉野を連れて行きます」
はて、亡くなった士官を連れて行く・・・?
これは連れて「往く」ということなのでしょうけれど。
「いや、浅香も・・飛行機で死んだ澤井も今度の航海に連れて行きます」
最初に訓練で亡くなった飛行士官ですね。
このシーン、わたしはなぜだか’ぞっ’としてしまったのですが、
士官は湧き上がってくるような不気味な微笑みを浮かべながら笑いを含んだ声で、
「ひょっとしたら、赤道を、超えるかもしれません」
言い終わるとその顔から生気が抜けるように急激に表情がなくなりました。
海軍後援であり情報省が制作に関わった国策映画といいながら、
この士官の表すものはどう見ても闘志や軍人精神ではなく、
まるで魂がすでに幽界を彷徨っているかのような虚脱と諦めなのです。
これは何なんだろう。
「往く」ではなく、「逝く」の意味であることを隠していないのです。
わたしはこのシーンを挿入した制作者の意図について深く考えてしまいました。
「そうですか・・・」
またしてもそうとしか言えず下を向く平賀。
気まずい沈黙が総長室を満たしていきます。
士官の出て行った後、平賀がまたもや「土佐」の文鎮に目を止めると、
その映像に行進曲「軍艦」が重なります。
病の床に伏せっている平賀のために妻がつけたラジオは
「・・敵航空母艦4隻、戦艦1隻、その他1隻を撃沈、
戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻を中破し、
敵機200機以上を撃墜せしめたり」
「我が方の損害、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻小破せるも、
戦闘に支障なし、未帰還機15機」
はて、いったいどの海戦の結果なんでしょうか(すっとぼけ)
実は平賀の床の周りには見舞客が来ていました。
周りが寝ているように勧めても
「大丈夫だよ。それほどの病人じゃない」
と相変わらず強気な平賀先生です。
彼らは東大の評議会員でした。
病気の平賀を気遣って、入学式には休むように言いに来たのです。
しかし平賀は相変わらず
「大丈夫だよ。自分の体は自分が一番よく知ってる」
平賀は晩年結核に喉頭を冒されており、それが死因となりました。
平賀、入学式に出るどころか祝辞を読む気満々で
下書きを済ませておったのです。
「読んでくれたまえ」
「新入生諸君。
諸君は国家の期待といちもんきょうとうの輿望とを一身に担うて、
今日帝国の最高の学府に入学したのであります。
諸君がこの栄誉を勝ち得たのはもとより良き指導を受け、
多年蛍雪の功を積んだためとは申しながら、畢竟、
生来のお恵に他ならないのであります。
今や皇国は世界の二大強国を敵とし、総力を上げて乾坤一擲、
一大決戦を敢行しつつあるのであります」
声はかすれた平賀自身の声に代わり、場面は東大講堂になりました。
30歳から晩年までを演じ切った大河内伝次郎の巧さがひときわ光る場面です。
「諸君が安んじて日日の学業に専念できますのは、ひとえに
皇恩の広大無辺なるによるものであります。
さらに諸君は二十幾年、諸君の訓育に心血を注がれたる父母の恩の
三界にも渡ることを回想し、尽きせん感謝の念に絶えぬものがありましょう」
「皇国に学徒たるものの本分は、至誠を持って
’すめらみくに’に仕え奉るにあるのであります」
一言一言区切るように話をしながら身体を手で支えていた平賀総長、
前によろめくと、スタッフが思わずはっと身体を固くします。
「まことの創意とは、まことの独創とは、ただ国家の希求に身を呈し、
皇軍の扶翼に心肝を砕く、尽忠一途ぞ至誠より生るるものであります」
「諸君はよく学生たる本文を忘れることなく、いつにても、何時にても
召さるれば、勇躍戦場に赴き、一死君国に奉ずる決意を固めつつ、
而も、沈着冷静に勉学すべきであります」
この祝辞は、念願だった第二工学部の創設が成った昭和17年4月の
入学式のものであろうと思われます。
昭和18年2月。
死の床にある平賀を見舞いに来たのは、
艦政本部で苦労を共にした竹中と、
山岸でした。
ここに谷がいないのは、彼が早逝したということでしょう。
「どうだね。皆んな元気にやっとるかね」
「はい。皆一生懸命にやっております」
「いいふねが・・・・続々できて陰ながら喜んでいるよ」
「山岸くん。覚えとるかね。土佐を沈めたときのことを」
「は」
「皆・・・泣いたねえ・・・あの気持ちだ。
あの気持ちさえ失わなかったら、日本の海軍は益々無敵になっていくよ」
「君たちがうらやましいよ」
竹中が
「私たち折行ってお願いがあるんですが」
山岸が引き取って、体が回復するまで総長をやめてはどうか、
というのですが、うーん・・この容体はそういう段階かな。
しかしこんな状態でも平賀は、自分が役に立つ限りやめられない、
と弱々しい声ではありますがキッパリというのでした。
「これが最後の御奉公になる」
「先生!」「先生!」
「斃れてのち止む・・斃れてのち止む・・
戦えるよ・・・わしはまだ戦える」
彼の脳裏には大海原を駆ける軍艦の姿がありました。
その艨艟の姿に重なる軍艦行進曲で平賀譲の物語は終わります。
平賀は昭和18年2月17日 午後7時55分、東京帝国大学医学部附属病院で
嚥下性肺炎により64歳にて死去しました。
翌日遺体から取り出された脳は現在も東大医学部に保存されています。