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南北戦争の野営生活〜ソルジャーズ&セイラーズ記念博物@ピッツバーグ

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日本でだけ「南北戦争」といわれているところのCivil warですが、
その意味はずばり「内戦」です。

日本史上最大の内戦は戊辰戦争であり、最後の内戦は
1877年の西南戦争なので、日米はともにほとんど同じ頃まで
同じ民族同士で干戈を交えていたことになります。

世界が今ほど交流していなかった時代、戦争はおもに
人が歩きや船で移動できる範囲で行われるしかなかったので、
その結果、地続きのヨーロッパはともかくとして、アメリカも日本も、
南北とか藩とかいう枠組みで対立してドンパチやっていたのです。

このことからふと思うのですが、たとえばあの永遠のお花畑ソング、
ジョン・レノンの「イマジン」の通りに世界が「ノーカントリー」になって
「ビー・アズ・ワン」になったとしても、畢竟人類というのは
何かしらの理由を見つけて対立し、戦わずにはいられない動物なんじゃないかと。

つまり今大国同士が戦争せずにすんでいるのは、はっきりいって
核と同盟による抑止力にほかならないということもできるわけです。

 

閑話休題、ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館の展示から
南北戦争関係のものを粛々と今日もご紹介していきます。

ピッツバーグルームを出ると、The West Hall、西ホールです。
記念博物館はピッツバーグ市民にとって大切な遺産ですが、
ほとんどの軍事博物館に同じく、「人気のスポット」ではないため、
この日も見学者は実質私一人といってもいいような状態でした。

西ホールには同じ南北戦争関係の資料でも、地元ピッツバーグ出身の
兵士やその家族などにまつわるものが多い、と説明には書かれています。

このケースには1861年から1865年までの北軍の遺品が収められています。

JacobBrunnsPicture

ここアレゲニー郡でユダヤ人として史上初めて将校となった
ジェイコブ・ブラン大尉の大理石胸像です。

ドイツから移民してきたユダヤ人セールスマン、ブランは、
ピッツバーグ出身者の中で南北戦争で死んだ最初の将校となりました。

ユダヤ人に対する差別があった当時でしたが、ピッツバーグ市は
最初の犠牲者となった彼を称えるために宗教の別なく彼を顕彰しました。

軍服はペンシルバニア大77連隊のヘンリー・ケイレブスが着ていたもの。
彼は1863年、テネシー州の戦場で負傷しましたが、生還しました。

左側のサーベルは「ノンコミッションド・オフィサー」、日本軍だと特務士官用です。

同じくケイレブス軍曹の銃とホルダー、ベルト。
銃はM1860コルト製アーミーリボルバーです。

左:南北戦争時の雨具

1844年、起業家であったチャールズ・グッドイヤーがパテントをとった
ゴム引きの布は、たちまち雨天時の防水グッズに使用され広まりました。

アメリカ陸軍がグッドイヤーの発明を採用して何を作ったかというと
兵士たちに配るための「ゴム引きブランケット」でした。

このシートは軽くて薄く、従来のウールの毛布と一緒に畳んで
背嚢で持ち運びするのに大変便利でした。

ちなみにグッドイヤーというタイヤの会社名は彼の名前から取られましたが
会社と彼個人には何の関係もないそうです。

右:ハーバーサック(Haversack)

ハーバーサックは背中や肩にかけるキャンバスの鞄です。
フィールドで個人携帯品を持ち運ぶのに使われました。
こちらも防水布が使われていました。

ゴム引き製品は劣化しやすく、どちらの製品も
本物は現存しておらず、復元品が展示されています。

 

「銃弾が貫通した軍帽」

1863年5月3日、ペンシルバニアの志願歩兵連隊で戦闘に参加していた
ジェームズ・ハービソン大尉は、銃弾を額に受けて戦死しました。

この写真では残念ながら確認しにくいのですが、彼が被っていた帽子には
縦断の貫通した跡がはっきりと残っています。

偶然彼の兄が軍曹として同じ戦場で戦っており、弟の遺品を取得しました。

「ハードタック」

兵士たちの主食は『Hardtack』(堅パン)といわれるクラッカーでした。
呼び名の由来は文字通り硬いからです。

我が帝国海軍では乾パンという伝統の保存食があり、
現在でも海上自衛隊は昔と変わらない乾パンを糧食にしています。

実はわたくし、隊員用の乾パンを試食させていただいたことがあるのですが、
ちゅーるみたいなものから出して塗るジャムと一緒に食べると、
お腹が空いていさえすれば美味といってもいいくらいの味でした。

ただし猛烈に堅かったです(笑)

兵士はハードタックを湿らないようにハーバーサックに入れていました。
中にはベーコンの油でこのハードタックをフライして、さらに砕き、
パウダー状にしてパンケーキを焼くという「工夫」をする兵もいたそうです。

小麦粉が酸化しまくりであまり健康的な工夫とは思えませんが、
まあ戦場で栄養とか言っている場合ではないかもしれません。

写真のハードタックはもっともポピュラーな形です。
南北戦争の間の1861年から1865年まで作られていました。

ガラスのケースに入れられていてわかりにくいのですが、椅子です。

椅子に描かれている肖像はグラント将軍のもの。

南北戦争の北軍司令部でグラント将軍が使っていた椅子に
ハリウッドさんという人が将軍の似顔絵を描き、
それを手に入れて35年間愛用していた人がいたのですが、
彼が死んでから遺族が当記念博物館のオープンを知り、
寄付をしたという経緯でここにあります。

つまり、開館初日から展示されている椅子ということになります。

南北戦争の野営生活を再現したコーナーです。

床に敷かれているキャンバスの布はここが幕営内部であることを意味します。

当時の内戦であるところの南北戦争は、しょっちゅう戦闘が行われる、
というようなものではなく、兵士たちはいつ始まるかわからない戦闘を待つ間、
野営生活で延々と時間を潰さなくてはなりませんでした。

退屈(Boredom)はある意味兵士たちにとって最大の「敵」で、
彼らはそれを克服するためにいろんなやり方を編み出しました。

最もポピュラーだったのはカードゲームで、ドミノ、チェスなどは
自分たちで道具を作って(それだけ暇だったので)行いました。

その辺の木を取ってきて木彫作品を仕上げる兵士や、
日常生活、戦闘の様子をデッサンする「芸術家」もいました。

 

スポーツは気晴らしとしても最適で、その中でも野球は人気があり、
2ベース、3ベース、ときには4ベースでゲームが行われました。

兵士たちは時間があれば手紙を書き、故郷から受け取る手紙によって
彼らは故郷や家族に起こった出来事を知ることができました。
また、回覧される新聞によって最新のニュースを知りました。
彼らは時折カメラマンに写真を撮ってもらい、自分が写っていれば
それを故郷に送って自分の様子を伝えていました。

彼らのほとんどは故郷から持ってくる荷物の中に聖書を入れていたそうです。

バンジョーなどの小さな楽器をたずさえてくる兵士もいて、
伴奏付きで火を囲み皆で歌を歌うなどという夜もありました。

ドラムは軍隊生活の合図、そして戦闘時のほかに、このような
余暇の時間にも大活躍で、もしかしたら軍楽隊のドラマーは
南北戦争機関を通じて食事係とならんで一番仕事をした兵種かもしれません。

トーマス・モーガンさんが自分が新兵として入営するときに
どんなものを持っていったかを自画像とともに書いています。

ホームスパンの毛布
下着2セット
ウールの靴下4足
ハンカチ6枚
新しい靴、靴墨と靴ブラシ
家で作った石鹸2個(レンガくらいの大きさ)
シャツのカラー半ダース
ネクタイ
虫眼鏡
剃刀
シェービングブラシとマグ
ペン一箱
書類やマニュアルのための革製バインダー
ホームメイドのパイいくつか
小さな砂糖漬けハム
ボローニアソーセージ何連か
家族、友人などの写真を収めたアルバム
ピストル
大型ボウイ-ナイフ

この頃の軍隊では軍から支給されるものが限られていたようです。

聖書、手紙、トランプ、新聞の上のフォークやブリキのカップ、
コーヒーフィルター、コーンパイプ、そしてサイコロに当時のお札が並べてあります。

当時はクォーターがお札だったんですね。

喫煙の習慣は南北戦争の時代広がったといわれています。
普通の吸うタバコ以外に嗅ぎタバコや噛みタバコのニコチン製品が
兵士たちによって愛好され、これ以降喫煙人口が爆発的に増えました。

これらのパイプは兵士たちが時間潰しも兼ねて木を切って
それを彫刻して作り、写真のように輪になって喫煙しました。

写真のパイプは通信部隊の兵隊が月桂樹の木から作ったもので、
装飾と製作年月日である1862、9月17日という日付が彫り込まれています。

「サマーキャンプ・ウィンターキャンプ」

南北戦争時代の野営地は巨大なテントの街といった様相でしたが、
これは、テントが移動可能となる夏の間だけで、冬になると
部隊は一つの場所に留まり続ける傾向にありました。
そしてテントでは寒いのでログキャビンが建設され、
兵士たちのごく限られた期間だけの住居となりました。

この上の写真は冬に作られ、戦後放置されたかつての野営跡です。

もともと南北戦争の遺物を展示するための建物ですので、内部は
このように最初から廊下に展示ブースが設置されているという作りになっています。

最初の展示ブースは南北戦争時代の砲弾でした。

もちろんこの妙にグラフィカルなアレンジはごく最近
リノベーションされたものだと思います。

24lbのschenkl caseとあります。
この「シェンケル」または「シェンクル」は南北戦争時代使われた
砲弾の名前であるようです。

中に鉄の小球が収められていて、これが破裂すると飛び散って
人体やものに損害を与えるようなたぐいのものでしょう。

ゲッティスバーグの戦場から見つかったシェンクルケース

様々な大きさの砲弾、いずれも右写真の「アレゲニー・アーセナル」
(Arsenalは兵器廠のこと)の跡から発掘されたものです。

ピッツバーグにも「フォート・ピット・ファウンドリー」という
鋳鉄所があり、ここはアメリカにおける初期の大型兵器製造所でした。

ロッドマンと言われる大型武器もここで製造されています。

砲手象限(四分儀)

1545年に発明された照準装置は非常に基本的なため、その原理はまだ使用されています。

この指矩のようなもの象限、四分儀ともいい、ユークリッド理論によって定義されます。

45度の高さの大砲は、砲身が0度の高さで水平であった場合よりも
10倍遠くまで発砲するため、象限は10個の等しい部分にマークされていました。

したがって、射程が四分円の次のマークまで上がるたびに、射程は1/10になります。
高度0度の20ポンドの鉄球は、最初に200ヤードの範囲にあり、
45度の高度では、10倍または2000ヤードで発砲されます。
もちろん空気抵抗は砲弾に影響を及ぼします。

博物館開館の際、デュケイン陸軍砦に駐留していた部隊から
「チカマウガ Chiokamauga の戦い」のあった戦場の木が寄贈されました。

Chickamauga.jpg

チカマウガの戦いは1863年に行われ、北軍のかけた攻勢でも最後の戦闘でしたが、
北軍は西部戦線では最大の敗北を喫しています。

この絵の左側が北軍で、劣勢を表すようにたくさんの兵が傷つき倒れています。

この戦いでは両軍で34,624名の損失が出たとされています。
北軍16,170名で、勝ったとされる南軍の犠牲は、それよりも多い18,454名でした。

 

続く。


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