ここピッツバーグのBLM、ブラックライブズマターについては、
デモなどを見ることはまずないのですが、空き地のフェンスに
これまで警官に命を奪われたとされるアフリカ系アメリカ人の名札を貼って
花が供えてあったり、必ずバイデンの名前とセットで庭に札を立てていたり
おそらく許可を得ていないような場所にデカデカと、
ペイントをする人がいたりして、まあそれなりに一部ムーブメントなんだな、
と感じるものはあります。
この文字の書かれた壁の上にかかる高速道路の橋脚には、
巨大な「犠牲者」の似顔絵がペイントされています。
BLM運動のきっかけになった男性の死亡事件が起こってから
そんなに経っていないのにもかかわらず、ここまでの大作を
一人で仕上げた人がいるわけですね。
大きな運動のきっかけとなったのは5月のジョージ・フロイドの死亡でしたが、
わたしは正直この人が麻薬の常習者で偽札を作っていた「札付き」ということもあり、
警察の対応に問題があったのは確かだけれど、フロイド氏を聖人化して
葬式で天使の輪っかに羽をつけた巨大な肖像画を作ったり、セレブが競うように
彼の遺児に莫大な金額に相当するプレゼントをしたりというのは、
なんだかちょっと違うんじゃないかという気がしたものです。
んがしかし、この絵のブレオナ・テイラーさんという女性の死は
あまりにも理不尽で掛け値なしに気の毒としかいいようがありません。
警察はすでに勾留中の麻薬の売人を検挙しようとして
彼女の家に深夜間違えて踏み込み、警察を不審者だと思った彼女のボーイフレンドが
銃を使ったのをきっかけに、テイラーさんに銃を発射。
彼女はおそらく何が起こったかわからないままに
8発の銃弾を体に受けてほぼ即死したといいます。
大学卒業後救急救命士としてルイビル大学病院に勤務していた
真面目な26歳の女性が、警察の「勘違い」で死亡したのでした。
ただし、警察は、彼女と対面する前に銃声が聞こえたため、
ドアを蹴破って突入し、ほとんど同時に銃を3人で22発撃ったため、
彼女が黒人であることも、女性であることも、銃撃と同時に知ったでしょう。
というか狙いだった麻薬の売人も黒人だったため、家を間違えていても
誰も気づかなかったというのが悲劇です。
彼女は厳密には「黒人だから殺された」のではなく、間違いであったわけですが、
踏み込んだ部屋の中にいたのが白人女性であれば警官はそれでも発砲したのか、
という疑問は当然湧いてきます。
この事件の続報として、ちょうどわたしが帰国してホテルで待機していたとき、
CNNで事件に関与した警官3人のうち2人は不起訴とする大審院の判決に対し、
抗議運動参加者と警官隊と衝突したというニュースを繰り返し報じていました。
この騒乱で警官2人が銃撃を受けて重傷、銃撃を行った容疑者を含む
デモ参加者127人が逮捕されたそうです。
この騒乱でも銃撃されているのが警官であることからもわかるように、
警察がともすれば容疑者に対してオーバーキルになってしまう理由は、
逮捕の際に犯人に撃たれて殉職する警官が非常に多いからと聞きます。
実に不条理な死ですが、BLMは叫ばれても、OLM(オフィサーズライブズマター)
については決して社会問題になることはありません。
人種がどうのこうのの前に、アメリカを銃を持たない社会にしさえすれば
起きなかった事件ばかりではないの、と日本人としては思ったりするわけですが、
とはいえ、アフリカ系がアフリカ系ゆえに差別以前に命の危険に曝される、
という彼らの危機感は、彼らにしか実感できないものであるのも事実です。
そもそもアフリカ系が堂々と差別されていたのはつい最近までで、
人権が制度上改革されてからまだ100年も経っていないのです。
人心に巣食う差別心はまだまだ払拭できていないのが現実なのでしょう。
ところがそんな人間扱いされていなかったアフリカ系を軍隊に
登用することは、南北戦争時代から行われていました。
身も蓋もない言い方をすれば、死ぬことが前提の駒としての命は
国家にとって「多ければ多いほどいい」からだともいえます。
彼らの命は戦争を行う国家にとって「有効活用」すべきものでしたし、
そのためには奴隷のように無理やり引っ張っていくのではなく、
彼らに栄誉を与え、彼らの一部には部隊を率いる指揮官として
白人と同じ階級を与えるということもあえて戦略的に行ったのです。
SSMMの次のコーナーでは、南北戦争時代「黒人の命の問題」が
どのような形で扱われていたかを知るための資料が紹介されていました。
「アフリカ系アメリカ人と南北戦争」というコーナーです。
まず、冒頭写真は南北戦争のあとに組織されたアフリカ系からなる部隊、
第24歩兵連隊のポスターです。
第24歩兵連隊は南北戦争が終わった4年後の1869年から1951年まで、
そして再び1995年から2006年まで活動したアメリカ陸軍の部隊で、
1951年の最初の解散前は、主にアフリカ系アメリカ人の兵士で構成されていました。
連隊は、法制度としての人種差別がまだ存在しており、黒人部隊そのものが
「セカンドクラス」として扱われながら、国家に忠誠をつくし
国のために戦ったという点で特筆に値します。
第24歩兵連隊は、ここでも度々お話ししているアフリカ系兵士ばかりの部隊、
バッファロー連隊のひとつです。
南北戦争中に組織された
第38アメリカ(カラード)歩兵連隊(1866年7月24日制定)と
第41アメリカ(カラード)歩兵連隊(1866年7月27日制定)
から編成されました。
いずれも南北戦争のためにほぼ同じ時期に作られた部隊です。
ちなみに、南北戦争時代「カラード(色付き)部隊」と呼ばれる
黒人だけの部隊、連隊はこれだけたくさんありました。
このページをスクロールされた方はあまりにリストが長いので驚かれるでしょう。
戦後組織されたこの第24連帯のような黒人部隊に入隊した兵士は、
南北戦争の退役軍人か、あるいはフリードマンと呼ばれる
奴隷から解放された黒人たちのどちらかでした。
ちなみにフリードマンが多く住み着き、コロニーを結成したのはテキサス州です。
もう一人の人形は、おそらく
マーチン・R・ディレイニー少佐 Major Martin R. Delany(1812-1815)
のつもりだと思われます。
彼は南北戦争中に少佐まで昇進した初めてのアフリカ系アメリカ人でした。
奴隷制廃止論者、ジャーナリスト、医師、軍人そして作家、
おそらく彼は黒人ナショナリズムの最初の提唱者で
「アフリカ人のためのアフリカ」という汎アフリカ主義を掲げました。
ディレイニーは、ピッツバーグで白人医師のアシスタントとして医学を学びました。
彼はピッツバーグで3人の医師の元で研究を行いましたが、
彼らはいずれも奴隷廃止論者であったのは勿論です。
1833年と1854年、ピッツバーグでコレラが流行したとき、
多くの医師や住民が汚染の恐れから街を逃れたにもかかわらず、
街に止まって患者を治療し続けました。
37歳のとき、彼は医学部の受験を決心します。
17名もの医師の推薦状を持っていたのにもかかわらず、
ほとんどの大学は申請すらも受け付けようとしませんでしたが、
唯一それを受理し、入学を許可したのがハーバード大学でした。
このときハーバード医学部は彼を含む3名の黒人学生の入学を許しています。
ところが、授業が始まった翌月、白人の学生のグループが
「黒人の入学は我々が供与されるべき福祉や
医学の講義にとって非常に有害である」
という手紙を教授らに送り抗議をしたのです。
彼らの言い分は、
「黒人が教育を受けたり地位を得ることに対して異議はないが、
当大学で我々と一緒に行われることには反対である」
というものでした。
レイシストという言葉は当時はありませんが、要するに
我々はレイシストではないので差別はしないが、
どこか別のところに行ってくれというわけです。
3週間以内に、ディレイニーと他の2人の黒人の学生、
Daniel Laing、Jr.とIsaac H. Snowdenは、多くの学生や医学校のスタッフが
学生であることを支持していたにもかかわらず退学になりました。
113名のうち27名の白人学生が
「彼らを入れるなら我々がやめる」
と脅迫したので学校側は屈してしまったのです。
医学大学で学ぶ夢を絶たれた彼はピッツバーグに戻りました。
彼は白人の支配階級はたとえ有能であっても有色人種に
社会のリーダーになることを許さないということを確信し、
彼の意見はより先鋭的に、ある意味極端になったと言われます。
彼はその後奴隷制の実態をを直接観察するために南部を訪れ、
その後出版社を興して本を発行します。
そしてリベリアやカナダなどに在住していましたが、南北戦争が始まると
黒人部隊の編成のためにアメリカに戻りました。
そしてリンカーンのために戦う軍の入隊者を集め、最終的にその数は
北軍全体の10%に相当する17万9千人となりました。
黒人将校に率いられた黒人兵による部隊
の設立を提案します。
前述のフレデリック・ダグラスが既に北軍に対し行っていた同様の訴えは
却下されていましたが、リンカーン本人がディレイニーを
「最も並外れたインテリジェントな男」
と評価したこともあって、彼は黒人として最初の指揮官となったのです。
第107カラード部隊の音楽隊。軍隊における音楽隊の任務はある意味今より生活に密着しており、
重要な働きをしていたといえるかもしれません。
ここでちょっと和みネタを。
おじさんの足元にいるこのぬいぐるみの犬は、
前回登場した北軍のアイドル犬、「ドッグ・ジャック」のようです。
ドッグ・ジャックが寄りかかっているこの立派なおじさん、
残念ながら写真に写っていなかったのですが、おそらくこの人は
元奴隷で、奴隷廃止運動家、政治家にまでなった
フレデリック・ダグラス Frederick Douglass、1818−1895
ではないかと思われます。
ダグラス(30代)
奴隷として生まれたダグラスの生涯の方向を決定づけたのは、
12歳のときに彼の女主人が見所があると思ったのか、こっそりと彼に
文字の読み書きを教えたことだったようです。
20歳ごろ(自分自身でも正確な生年月日を知らなかったという)
ニューヨークに逃げたのちは奴隷廃止運動に身を投じ、新聞を発行して
人権の平等を訴える活動を行いましたが、彼は急進的な、力で訴える方法には反対で
あくまでも言論で民心を動かしていこうとしていました。
彼の自叙伝「アメリカの奴隷」は、知性に劣るとされた黒人による著書としては
初めてベストセラーとなり、彼の名前は海外にまで有名になりました。
リンカーンや、リンカーン暗殺後はジョンソン大統領とも黒人参政権について協議し、
南北戦争後は奴隷解放救済銀行の総裁を務めています。
しかしながら、南北戦争で自らの血を犠牲にしていくら戦っても
自分たちを取り巻く環境にさほど向上がみられないと多くの感じた
多くのアフリカ系アメリカ人たちは失望し、白人と平等になるという夢を捨て、
白人のいない黒人だけの街を形成してそこで暮らすことでよしとするようになります。
これを見たダグラスは彼らに
「まだ諦めるな」
と説きましたが、理想と現実は違う、と自暴自棄的になった黒人たちに
お前は理想主義者だと非難され、その穏健的な方法が否定されることもありました。
南北戦争時代の陸軍駐屯地は、メンバーの個々の歴史が記録される本を保管していました。
ペンシルベニア州にあった15の「カラード部隊」駐屯地の1つである
ロバート・ショー大佐の大隊に保管されていたこの珍しい本には、
ピッツバーグのアフリカ系アメリカ人退役軍人の、
南北戦争サービスに関する貴重な情報が含まれています。
たとえば、ここに示されているのはMatthew Nesbittの身上書です。
ネスビット同志が自分の話を駐屯地の記録係に語りかけているとき、
それはほとんどの同志の身の上を代弁していたといってもいいかもしれません。
「わたしはジョージア州のゴードンカントリーで
ウィリアム・ネスビット氏の奴隷でした・・・・」
興味深いのは、奴隷から解放された後、彼がかつての主人(マスター)
の苗字をそのまま名乗っていたことです。
1898年にネスビットはピッツバーグで大工となり、その後陸軍入隊し、
戦後はこのSSMMの近くに結婚して居を構え、1910年に亡くなりました。
最後に、個人的に気になったこととして、ハーバードの医学部は
その後、有色人種の学生の入学を許可したのかどうかを調べてみました。
すると、リンカーンの奴隷解放宣言の署名が行われた後の1866年、
エドウィン・ハワードというアフリカ系の学生が入学し、
1869年に医学の学位を取得していたことがわかりました。
1888年にはフェルディナンド・オーガスタス・スチュアートが
医学部に在籍し卒業後医学博士となっています。
スチュアートの在籍したハーバード大医学部の卒業記念写真。
三列目のほぼ真ん中に、ネクタイ・ベスト着用で写っています。
この頃、ウェストポイントにも黒人の士官候補生が入学しています。
黒人が軍士官学校や名門大学医学部に入学するに至ったことは、
人種的平等をめぐる戦いにおいては重要なマイルストーンとなったのは確かですが、
クラスで唯一の黒人であった彼らは、学校という組織には受け入れられても、
人間関係の中では孤立、孤独、そして完全な拒絶に直面しなければなりませんでした。
それは決して彼らのすべての問題の解決策にはなり得ず、
世紀が変わった今日も、根本的に全く同じ根から発生する事件が
BLM運動が広がりを見せる発露そのものを生んでいるということもできるわけです。
続く。