ピッツバーグに縁ができ、時間が許す限り現地を歩いてきましたが、
やっぱり最初に発見したシェンリーパークは何度歩いても飽きません。
人工的な構造物はありますが、それらは前にもお伝えしたことがあるように
WPAという大恐慌のあとの失業者対策事業のころにできたものなので、
石積みだったりレンガが敷き詰められたりで実に風情があるのです。
これはまだ暑い頃に撮った写真です。
フラッグフィールドを周りの道沿いに一周し、丘を下るとそこには
ウェスティングハウス・メモリアルがあります。
ウェスティングハウスとは、あのアメリカの電機メーカーの創始者、
ジョージ・ウェスティングハウスJr.(George Westinghouse, Jr)1846−1914
のことです。
技術者にして実業家でもあったウェスティングハウスは、
電気産業を発展させた先駆者でありました。
メモリアルは、若き日のウェスティングハウスが、彼の全人生における
その発明を記した碑に向き合って立っているというデザインです。
恰幅のいいタキシード姿のおじさんが立っている銅像よりも、なにか
青雲の志みたいな、未来を信じることの大切さみたいな(適当)
そういうメッセージが感じられていいですよね。イケメンっぽいし。
ジョージ・ウェスティングハウスは、1846年、ニューヨークで生まれました。
父はマシンショップの経営者ジョージ・ウェスティングハウス・シニアで、
彼の正式な名前はGeorge Westinghouse Jr.だったのですが、彼は
父親の死後「Jr.」をなくしてしまいました。
彼の祖先はドイツのウエストファーレン出身で、ドイツでの名前は
「Westinghousen」つまりドイツ読みだと「ウェスティングハウゼン」となりますが、
移民してきた人の家名の常として英語風に「アレンジ」されています。
技術者として、そして実業家として名を残したウェスティングハウスは、
彼は若い頃から工学ととビジネスの方面に才能を発揮したそうですが、
その土台は父親の所有する工場で子供の頃から働いていたことで育まれています。
老けてませんか
15歳のときに南北戦争が勃発すると、止むに止まれずニューヨーク州兵に志願しました。
正式には志願は17歳からでしたが、その辺は適当だったようです。
軍隊という組織が水に合ったのか、彼は両親が懇願するまで除隊せず、
やっと帰ってきたと思ったら今度は渋る親を説得して
第16ニューヨーク騎兵隊に入隊、18歳で 陸軍を辞めたと思ったら
今度は海軍に加わり、南北戦争の終わりまで、士官として
の補助機関士を務めていました。
USS Maccosta
想像ですが、彼はこのときの機関室勤務で、自分が進むべき道と
自分の天才との相性の良さに気づいたのではなかったでしょうか。
彼の膨大な開発品の中には海上推進用の蒸気タービンがあります。
彼は67歳で死去したとき当初はブロンクスの墓地に埋葬されたのですが、
軍歴があったため、翌年棺をアーリントン国立墓地に移し、そこで眠っています。
さて、若きウェスティングハウスが熱狂した(らしい)戦争も終わりました。
退役した彼は、スケネクタディ(航空博物館のあったあそこ)の実家に帰り、
ユニオンカレッジに入学しますが、最初の学期を終えずに中退してしまいます。
同じ年に彼はすでに最初の発明となる回転式蒸気機関、そして
「ウェスティング・ファームエンジン」などを考案しているくらいですから、
そんな彼にとって教養大学の授業は児戯にも等しいものだったのでしょう。
21歳で彼は線路の引き込み線の分岐器(リバーシブル・フロッグ)、
また22歳で列車事故を目撃した彼は、即座にそのことから着想を得て
脱線した列車を元に戻すための装置をを発明しており、
このことからも早熟の天才ぶりがうかがえます。
さて、ニューヨーク生まれ、スケネクタディ育ちのウェスティングハウスの碑が
どうしてここにあるかっていう話なんですが、彼がマルグリット・ウォーカーと結婚後、
ピッツバーグに居を構え、工場を経営して住んでいたという縁によるものです。
彼らが住んでいたところは彼らが退去後荒廃していましたが、
ピッツバーグ市が買い取って現在「ウェスティングパーク」という公園です。
石柱はかつての邸宅の名残でしょう。
新婚当初のウェスティングハウス夫妻
ウェスティングハウスは経営者としても才能の塊のような人物でした。
彼の会社は、
1日9時間労働
週通算55時間労働
土曜日は半日労働
労働者に女性を採用
とその後の労働体制の基本となったこれらのことを
初めて取り入れたアメリカの会社となりました。
シェンリー公園にはリリーポンドという可愛らしい名前の池があり、
ここが碑の設置する場所に選ばれました。
坂道の上は現在広大なゴルフ場になっています。
もちろんアメリカのゴルフ場なので柵などありません。
モニュメントの設計俯瞰図。
ウェスティングハウス・モニュメントが完成したのは 1930年、
会社の従業員がお金を出し合ったそうです。
モニュメント全体の主任設計者であるヘンリー・ホーンボステル(左)。
出来上がったばかりの碑の前で。
モニュメントの設計はカーネギーメロン工科大学(当時)の教授で
ノルウェー系アメリカ人のポール・フィヨルドが手掛けました。
しかし落成から100年という年月の間にモニュメントは劣化し、
途中で洪水などもあったため、現地は一時荒廃していました。
ウェスティングハウス財団とメロン財団、そして市が共同で
この部分の大々的なレストアを行い、現在の姿になっています。
地面の敷石はそのときにあらたに設置されたものだということです。
落成当時より周りをあふれるばかりの緑が覆い、よりいい感じに。
若き日のウェスティングハウスが向かう半円形のスクリーンには
かれの業績がレリーフとともに並べられています。
「幹線鉄道の操作が初めて高圧電気に置き換えられる」
「省スペースでハイパワーと素晴らしい低コストによる蒸気タービンは、
普遍的な電力の基本的な供給源になりました」
「ナイアガラの滝のエネルギーを電気に変換する
最初の大きな電力システムは産業帝国を築くことに寄与しました」
「1893年にシカゴで行われたコロンビア万国博覧会では、
安全なACシステムが供給できるという史上初のデモをおこないました」
「ウェスティング・エアブレーキは世界中の鉄道輸送の速度の
安全性と経済性を計り知れないほど高めました」
「安全なスピードでの輸送を可能にした最新の信号システムは、
ウェスティングハウスの先見性の賜物でした」
ジョージ・ウェスティングハウス
北軍兵士
ピッツバーグ市民
ウェスティングハウス創始者
その発明と労働によって人類に恩恵をもたらした人
1846−1914
このメモリアルは、産業という軍隊で彼と一緒に働いた
ウェスティングハウス記念協会の54251人のメンバーによって建てられました
ウェスティングハウスの発明の恩恵を受けた人々の代表である
労働者とビジネスマン二人の後ろ姿も裏に回ると見ることができます。
石碑に金で彫り込まれたウェスティングエアブレーキの展開図。
ところで、ウェスティングハウスといえばトーマス・エジソンとの葛藤が有名ですが、
どうもこれ、読めば読むほど日本では「発明王」として偉人化されているエジソンが
実は偉人どころか悪人じゃないかという気がしてきます。
彼らはウェスティングハウスの交流送電システム、エジソンの直流送電システムで
電流戦争と呼ばれる戦いを繰り広げました。
エジソン「高電圧システムは危険だ」
ウェスティングハウス「いや、管理可能なものであり、利点が多い」
エジソン「よし政治家に働きかけて送電電圧を800 Vに制限する法案を成立させたる!」
→失敗
エジソン「くそっ、こうなったらあいつの理論のイメージそのものを落としたる」
→交流電流で象を公開処刑する実験をおこなう
エジソン「ウェスティングハウスの理論では象ですらこの通り、
人ならもっと簡単に死にますから、処刑に利用するのがいいでしょうな」
→初めて電気椅子を使って人間が処刑される
エジソン「電気椅子の処刑は採用させたぞ。
電気椅子による処刑を『ウェスティングハウスする』 (Westinghousing)
と呼ばせるように扇動してやれ」
ウェスティングハウス「なんて残酷で異常な処刑法なんだ!
失敗した上8分間も処刑者を苦しめるなんて許せん!訴える」
→「コール・ウェスティングハウジング」作戦失敗
→ついでに交流送電システムの信用を傷つけることにも失敗
エジソン・ゼネラル・エレクトリックを吸収合併したゼネラルエレクトリックが
交流用の設備の生産を開始することを決定し、エジソン完敗
この経緯について電気椅子と象さんの処刑シーンを含む
説明映像がありましたのでよろしければ色々覚悟の上ご覧ください。
象だけでなく犬などの動物も実験で処刑したということですが、
今なら動物愛護団体がだまってませんわ。
Westinghouse - Chapter 16 - Battle of the Currents
しかし、エジソン、あのニコラ・テスラにも酷いことしてますよね。
直流用に設計された工場システムをテスラの交流電源で稼働させたら、
褒賞として5万ドル払うと提案しておいて、テスラが成功させると
交流を認めたくないがあまり「冗談だった」といって支払いをせず、
テスラは激怒して退社し、ウェスティングハウスのところに行ったとか。
このおっさんどう控えめに言ってもクズです。
どうして日本ではウェスティングハウスとテスラよりエジソンが有名だったのか、
誰か理由をご存知の方いますか?