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”西部戦線異常なし” 第一次世界大戦〜スミソニアン博物館

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スミソニアン博物館の展示から、前回は第一次世界大戦に登場した
航空機という新兵器とその搭乗員について、映画や小説を中心足したメディアが
そのイメージを作り上げ、世間が喝采したということをお話ししました。

スミソニアンが、第一次世界大戦の航空について華やかなイメージを
導入部で強調したのは、創造されたパイロットの英雄的なストーリーと
そのワクワクする冒険に心ときめかした彼らは、じつのところ
航空戦の酷い現実などをわかっていなかった、といいたかったようです。

ハリウッドで敵戦闘機役を演じたプファルツと、映画館の入り口のような
掲示板で飾られたコーナーを抜けると、いきなり観覧者は、
こんな写真にお出迎えされて、冷水を浴びせられた気分になるのです。

そう、第一次世界大戦の「塹壕戦の実態」ですね。
ご丁寧その一帯はあたかも塹壕の中にいるような木の枠組みで飾られて。

写真では塹壕が崩れた状態になっているので、
おそらく大攻勢が発動され、敵が陣地戦を破って攻撃してきた跡でしょう。

このころは中国本土からと思われる旅行者の姿も多く見ました。
現在ではもちろんスミソニアンは休館しています。

第一次世界大戦は「塹壕戦」から解説が始まります。

「塹壕での生活」として、

雨が降り、悪臭を放つ泥はさらに酷く黄色くなり、砲弾跡は
緑がかった白い水で満たされ、道路と線路は何インチもの粘液で覆われ、
黒い枯れ木がにじみ出るように汗をかき、砲弾がやってきます。

それらはただ頭上に飛んできて腐った木の切り株を引き裂き、
板の道を壊し、馬とラバを打ち倒し、消滅させ、混乱させ、破壊させ、
そして彼らはみなこぞってこの地の墓に突入してゆくのです...
それは言葉にできない、神も不在の、絶望的な状態です。

イギリスのシュルレアリスム系画家、

ポール・ナッシュ Paul Nash 1889ー1946

が自宅に送った手紙の一節です。

Spring in the Trenches, Ridge Wood, 1917 (1918)

ナッシュは帰還後、戦争と塹壕の自己体験を描きました。

「ワイヤ」1919年

 

1916年、ベルギーでイギリス軍がレーションの食事を取っているところ。

大戦初期から塹壕陣地全体は複数の並行する塹壕線で構成され、
それぞれが連絡壕でつながっていて、警戒用歩哨処、攻撃用砲座などを中心に
将兵が起居する宿舎、便所、救護所など、支援施設が備わっていました。

イギリス軍の塹壕は前方、戦闘区域、後方区域と
三列の塹壕で成り立っていることが多かったようです。

1916年撮影、歩哨に立つフランス軍兵士。
膠着した塹壕戦では歩哨がすこしでも頭を出すと
狙撃兵に狙われるため、体を乗り出さなくても射撃できるように
潜望鏡付きの小銃も開発されましたが、
鏡が一枚だと左右が反対に見えるので狙いがつけにくく、
実用性には乏しいものでした。

1918年、フランス戦線でシラミ退治をするアメリカ兵。

地味に戦闘以外の消耗は兵士の心身を蝕みました。
スペイン風邪が流行っていたこともありますし、コレラ、チフス、
塹壕足(トレンチフット)と呼ばれる凍傷と細菌感染症のダブルパンチなど。

もちろん精神をやられる者は多く、「シェルショック」などと呼ばれました。

ビデオのモニターも、土嚢を積んだ塹壕の壁?にセットしてムード満点です。

"All Quiet On The Western Front"

これがレマルクの「西部戦線異常なし」という小説の英語タイトルです。

主人公の青年が、塹壕から蝶に手を伸ばして狙撃手に殺された日、
最前線の戦況に何の変化もないことから、

「西部戦線異常なし」

と塹壕基地司令が記した報告書の一文が小説のタイトルにされたのですが、
ただしこれも原語はドイツ語で、原作の題名は

 Im Westen nichts Neues

というものです。

直訳すると西部戦線にニュースなし ='Nothing New in the West'
となるわけで、元々えらくあっさりしたタイトルだったわけですが、
「クワイエット」を使った英訳については、レマルク本人が

「ドイツ語とは完全に一致していませんが、お礼を申し上げます」

と出版社に言っており、察するにあまり気に入ってなかったのではないかと(笑)
どちらかというと日本語の「西部戦線異常なし」の方が原作に近い気がしますね。

そしてこのモニターでは白黒の同映画の一部が放映されていました。

スミソニアンの解説は次のようなものです。

地上戦(塹壕戦)をロマンティックに描くことはほとんど不可能だったので、
ハリウッドはそれを取り扱うとき、非常にシリアスに、リアルに表現するか、
さもなければ全く無視するという傾向がありました。

エーリッヒ・マリア・レマルクの「西部戦線異常なし」をベースにした映画は、
第一次世界大戦を描いたアメリカ映画の中でもベストと言われています。

戦争を些細なこととしてでもセンセーショナルなものとしてでもなく、
淡々とその残酷さと、その中にある普通の人間を描いています。

ここで放映されているシーンは、フランス軍歩兵が手をあげて、
「塹壕の上」に上った途端、ドイツ軍のマシンガンにあっさりと
倒される様子が描かれています。

こちらはその予告編。

ドイツ人が英語を喋り、たとえば主人公のパウルも「ポール」
アルベルトも「アルバート」になっています。
「英語圏でない国の人が英語を話す」映画の走りだったかもしれません。

こちらは1979年のリメイク版。

All Quiet on the Western Front Trailer 1979 film

兵士役で出演しているイアン・ホルムという俳優は、映画「炎のランナー」で
主人公ハロルドのコーチ、ムサビーニを演じた人ですね(←マニアックすぎ)

荷車に乗り切らず、腕に十字架を抱えて運ぶ兵士。

「心配しないで。すぐ帰ってくるから」

これが言葉の通りにならなかったのは歴史が示す通りです。

最初の戦いがマルヌ川とタンネンベルグで始まって2ヶ月で、
誰もがこれが「長い戦い」になることに気がつきました。

長期化の原因は、新兵器の機関銃の登場が生んだとも言える
塹壕戦の深化にありました。

「STALEMATE」

塹壕のイメージで構成されたスミソニアンのギャラリーには
いきなり突き当たりにこの文字が飛び込んできます。

マルヌ河の戦いで敗北してから前進できなくなっったドイツ軍は、
やおら地面を掘り(dig in)始めました。

これによってドイツ軍の現在位置に到達できなくなった連合国軍は、
同じように地面を掘って塹壕を作り出し、そうなると今度は
ドイツ軍が連合軍の反撃を阻止するために急速に塹壕を頑丈に、
かつ(ドイツ軍らしく)凝った構造となり、文字通りのいたちごっこで
最終的には両者の塹壕は延々とヨーロッパの大地を伸びていき、
スイス国境からフランスとベルギーを貫いて北海に達する
「死の迷路」を作り上げて行ったのです。

前線を突破しようとする試みは、ただ、陣地を取ったり取られたり、
という空しいエンドレスサークルをもたらすだけでした。

その犠牲の多さは誰一人として予想できずかつ驚くべきもので、
フランスでは30万人もの命が最初の1ヶ月で失われています。

絶望の中で軍指導者たちは新しい戦法や武器でこの状態を
何とかしようと試みるようになってきますが、この「行き止まり」を
打開するかに思われたのが、航空機だったのです。

ミミズのように土に塗れながら惨めな塹壕戦を戦っている歩兵から見ると、
空を自由に駆け、騎士のように戦って称賛される飛行士は
まさに雲の上の人であり、憧憬の対象だったに違いありません。

たとえその命が一瞬で燃え尽きる儚いものと知っていたとしても、
この身と交換できるなら構わない、と誰しも思ったのではないでしょうか。

右側は、

ピッケルハウベ 

Pickelhaube Pickel(鶴嘴) Haube (ヘッドギア、帽子)

といわれるプロイセンとドイツ帝国の象徴である、
スパイクのついたドイツ軍のヘルメットです。

プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 の時代、
1843年にプロイセン軍部隊用に新しく制定されたタイプで、
ここにあるのは竜騎兵(ドラグーン)用です。

模型は初期の軍用機、

Jeannin stahltaube

何と読むのかすらわからないのですが、「タウべ」というのは鳩のことで、
翼の形がはとにそっくりということでこの名前になったようです。

イーゴ・エトリッヒ博士が設計した

「エトリッヒ・タウべ」

というタイプが原型ですが、博士とライセンス契約したルンプラー社が
特許料を払わないので、怒った博士があっちこっちの会社と契約し、
その結果、いろんなバージョンの「タウべ」が500機出回ることになりました。

この「ヤンニン・シュタールタウべ」もその一つでしょう(たぶん)

模型の向こうに見えているのは野戦用携帯電話です。

フォッカー Fokker E.III

フォッカー Eシリーズは、(男前の)アンソニー・フォッカー が開発した
マシンガンとプロペラの同調装置
を装備した世界初の戦闘機となりました。

この経緯については以前お話ししたことがあります。
鹵獲したフランスの戦闘機に装備されていたこの同調装置を
フォッカー が魔改造してしまったんですね。

それまではプロペラに弾丸が当たるのは仕方がないので、
プロペラに当たった銃弾を左右に弾き飛ばす溝をつけ、
パイロットに跳ね返らないようにする方法が取られていましたが、
フォッカー はこの問題をやや解決していたフランス機を手に入れ、
これをヒントに完璧な同調装置を作ってしまったのでした。

フォッカー E.IIIは機体そのものが優れていたわけではありませんが、
この装置のおかげで「フライング・マシンガン」と呼ばれました。
後述する「ヴェルダン攻防戦」では、世界唯一の
同期式マシンガンを持つ航空機としてデビューを飾っています。

次回は、そのフォッカー E.IIIが初登場したヴェルダン攻防戦、
消耗戦の嚆矢であり、第一次世界大戦屈指の激戦として
別名「肉挽き機」「吸血ポンプ」とまで形容された戦いについてお話しします。

 

続く。

 


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