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血塗られたヴェルダン攻防戦 第一次世界大戦〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の展示、「第一次世界大戦の航空ヒーロー」は
一転して地面で行われていた塹壕戦の解説に移ったわけですが、
膠着戦から戦況はここで急に様相を大きく変えていきます。

「SLATEMATE」、つまり行き詰まりを打開したいのはどちらも同じでしたが、
新たな攻撃計画をもって先手を打ったのはドイツでした。

当時のドイツ軍参謀総長エーリッヒ・フォン・ファンケルハイン元帥。
Wikipediaの日本語版だと愛称(じゃないか)は、

「ヴェルダンの血液ポンプ」

「ヴェルダンの骨ミキサー」

ととんでもないことになっていて、どうやらこのおっさんが
このヴェルダンの仕掛け人とされているらしいのですが、
それは、彼が膠着した戦線を打開するために

「消耗戦」

という戦略を史上初めて採用したことからきています。

消耗戦というのは敵をとにかく疲弊させることが目的です。
塹壕戦ではいつまでたっても決戦に持ち込むことはできないので、
回復不可能なほど相手の力を削ぐことだけを目的にしようというわけでした。

ドイツはこの消耗戦の相手をフランスに「選んだ」といわれています。

四方八方と戦争している中で、ロシアは国土が広大すぎて兵力も多く、
消耗戦の相手には大きすぎるし、イタリアは逆に小さすぎて、
消耗させるまでもないし(失礼だな)こちらの犠牲を払うには割が合わない。
イギリス軍も、たとえ消耗させたところで降伏するような相手ではない。
という消去法で残ったのがフランスだったというわけです。

そして消耗戦を実地する舞台として、ヴェルダンが選ばれたわけですが、
ファルケンハインがこの地を選んだ理由は、ここが曰く付きの場所だからです。

フランク王国を独仏伊に三分割する「ヴェルダン条約」が843年に結ばれ、
1648年にはヴェストファーレン条約でフランス領になるも、
1792年にはプロイセンの攻撃を受けて陥落したという因縁の古都。

フランスはおそらくここを攻め込まれたとき、メンツにかけても
防衛戦に全力を傾けてくるに違いないとファルケンハインは踏んだのでした。

彼の読みは恐ろしいくらいに当たりました。
このポスターは、

THEY SHALL NOT PASS!「奴らを通しはせぬ」

と説明があり、それはそのままポスターにフランス語で書いてあります。
(On ne passe pas!)

ヴェルダンには国境の大要塞があり、交通の要所に違いはありませんが、
この地を選んだファルケンハインはそんなことはどうでもよかったのです。
(目的は消耗戦ですから)

フランス軍にしても、ヴェルダンに戦略的価値を認めていたわけではなく、
国内では要塞の価値を問う声もあり、ヴェルダンにそこまで必死にならなくとも、
という意見すら軍部にはあったといわれます。

ところが、前述の歴史的な価値がある地ゆえ、フランス世論は黙っておらず、
(このポスターもその筋のプロパガンダなのかと思われます)
「ヴェルダンにドイツ軍を入れるな」という声が湧き上がり、
この声に後押しされる形でフランスはヴェルダン死守こそ正義、となってゆき、
司令官たちは、不屈の兵士たちを有名なこの言葉で奮起させ、
ドイツの期待通りヴェルダンを死守すべく全力で向かってきたのです。

両軍の要塞攻防戦が始まりました。
戦端が開かれたとき、たがいの戦闘規模は大きくはありませんでした。

まずドイツ軍がこれまでの塹壕戦の常識を破って、塹壕を設けず、
いきなりフランス軍を急襲し、前進基地を奪い取るのに成功しました。

しかし、当時の塹壕は三重に構築されており、そう簡単に
防衛戦を突破することはできません。
ファルケンハインは、砲兵の援護によって歩兵の消耗を極力抑え、
じわじわと攻略していくという戦法をとります。

この頃のドイツ兵はまだスパイクのついたヘルメットを着用していますね。

そして、ドイツ軍はまたしてもフランス軍の不意をついて、
今は戦士の墓となっているドゥオーモン保塁に攻め込みました。

この戦果は、まるで映画「1941」で伊潜がハリウッドを攻撃することを決めたとき
三船敏郎が言っていたように、 攻撃そのものは戦略的に価値は全くなかったのですが、
相手の心理をかき乱すことに成功しました。(え?たとえがあんまりだって?)

事実、フランス側は保塁の陥落で危機感を持ち始め、本気モードになってきます。
そして不調だったジョフル将軍を降ろして、フィリップ・ペタン将軍を投入しました。

ペタン将軍はここで

”On ne passe pas!"

と兵たちの下がっていた士気を鼓舞させ、次々に師団を投入させて
フランス軍の足並みが揃い始めました。
消耗戦を企むドイツ軍には待ってましたという状況ですが、ところがどっこい、
ドイツはドイツで攻勢だったために手を緩めてしまったこともあって、
思った通りに攻撃ははかどらず、文字通りの消耗戦に突入してしまうのです。

もう一つ、ドイツ側で消耗戦ということを意図していたのは、
おそらくファルケンハイン一人だけで、ほとんどのドイツ軍指揮官は
本気でヴェルダンを攻略することを目的として戦っていたため、
この状態になると、こんどはドイツ側の士気が全体に落ちてきました。

Kronprinz Wilhelm 1. Leib-Husarenregiment.jpgヴィルヘルム

ドイツ軍攻撃軍司令官は皇太子ヴィルヘルムでしたが、
彼もまたファンケルハインの計画をつゆ知らず、
一進一退となったヴェルダンから一歩も引かず、
がむしゃらに攻撃規模を増やす指令を下したのです。

攻略に固執して戦力を逐次投入したため多大な損害を出す結果となった。
被害の甚大さを痛感したクノーベルスドルフとファルケンハインは
攻撃の中止を進言するが、ヴィルヘルムは聞き入れず攻撃を承認させ戦闘を続行した。
(wiki)

なんと、首謀者ファルケンハインその人がに中止を進言してますがな。

しかし燃えるペタン将軍は次々に新しい師団を送り込み、前線の部隊と
入れ替わらせていったため、最終的にはフランス軍のほとんど、
78個師団がヴェルダンに参加して、文字通り消耗していくことになりました。

 

また、この戦いが歴史的に重要なポイントとなった出来事は

「歴史上初めて戦争に自動車が本格的に使われた」

ことです。

ヴェルダンには鉄道がありましたが、砲撃があまりに激しく、
使用が不可能になっていたので、フランス軍は貨物自動車で
増援部隊を前線に送り込みました。

これを見ていた各国軍隊は、自動車の軍事的価値を認識することになります。

この自動車で送り込まれたフランス軍兵士は40万人。
そしてその半数以上が死傷したということになります。

そしてその後は取ったり取られたり、押し込んだり押し返されたり、
ファルケンハインもその頃にはすっかりやる気をなくして皇太子に進言したわけですが、
前述の通り皇太子はいうことを聞かず、ペタンもまた撤退の時期を探りながら、
1917年の5月、ようやくドイツ軍を最初の位置まで押し戻すことに成功。

長い長いヴェルダン攻防戦をようやく集結させることができたのです。

さて、地上での戦況ばかりをお話ししましたが、この一進一退には
実は航空機の参加もあることはあったわけです。

写真は、ドイツ軍の将軍(ファルケンハインかどうかは不明)が
フォッカー E. III 戦闘機を点検しているところです。

ドイツ軍はそれまで無敵のフォッカー が空を支配して、
彼らの地上での戦略を後押しし、勝利に導いてくれると信じていました。

The Luftsperre: An Aerial curtain

ドイツ語のルフトスペーレは「航空カーテン」という意味になります。
彼らは敵陣地上空までに航空機を送らずして敵の位置を観察し、
自軍の空域を守ることができると信じていました。

ドイツ軍指揮官たちは空中封鎖、またはルフトスペーレを行いました。
彼らの飛行機は前線を上下に飛行し、(カーテンがあるように)
ドイツの占領地を飛行しようとする連合軍の航空機を攻撃しました。

そして航空機や気球は自軍の陣地上にいながら、
フランス軍に対する砲撃の着弾を観測することができました。

ドイツ戦略の終焉

ところが、ヴェルダン攻略戦が始まるや否や、ドイツ軍の指揮官たちはすぐに
空中で敵を封鎖するには、あまりにも飛行機が少ないことに気がついて愕然とします。

一方フランス軍のニューポールXI戦闘機軍団はフォッカーE.IIIに明らかに数で勝り、
やすやすとドイツ陣地上空に入り込んで飛行機を撃ち落とし、地上の軍隊を攻撃しました。

ドイツ軍の「カーテン戦術」とは対照的に、

「探し出し、追跡して撃ち落とせ」

つまり攻撃的な空中戦略を展開したのです。

絵を見ていただくと、ジャーマン・ラインの上空で、ニューポールが
飛行船やドイツ機を撃墜している様子が描かれているのがわかるでしょう。
中隊、または戦隊を1人の指揮官の下に統合させることにより、
フランス軍はドイツの前線に対する攻撃を組織し、調整することができました。

もうひとつ、あまり語られない航空史のトリビアですが、
この時フランス軍が「エスプリ・ド・コーア」(部隊精神)を養うために、
飛行機の側面に部隊独自のエンブレムを描き始めたのが、
航空機のノーズ&ボディペイントの事始となりました。

エスカドリーユ(戦隊)・ニューポールNo.3、精強とされた部隊の一つは、
Cigogne、コウノトリをあしらったマークでした。
コウノトリはまたアルザス地方のシンボルでもあり、フランス軍は
戦争後ドイツ軍から国を取り戻す希望をこのマークに込めたのです。

また、コウノトリはヨーロッパ全体で幸運のシンボルでもあります。

 

ニューポールNieuport XI(11)の模型も展示されています。
イギリスの飛行機ですが、フランス軍のマークが尾翼に見えます。

右側は同調装置のついた機銃、という説明があるので、
ニューポールではなくフォッカー に搭載されていたものだと思われます。
ヴェルダン攻防戦で出撃したドイツ軍の戦闘機のものでしょう。

それまでの戦線では、圧倒的にフォッカー が優勢でした。
連合軍の偵察機が易々とフォッカー に撃墜される現象を、イギリスのメディアは

「フォッカー の懲罰 Fokker Scourge」

と名付けていた頃もあったくらいです。

ベルギー軍のニューポール 11 C.1

ところが、「ベベ」という愛称を持つこのニューポール11は、
この戦闘で「フォッカー の懲罰」の時代を終わらせてしまいました。

1916年1月にヴェルダンに到着し、その月のうちに90機が投入され、
ほぼ全ての面でフォッカー を圧倒する働きを見せました。

この損失で、ドイツはその航空戦術に急進的な変革を強いられることになります。

 

さて、最初にペタン将軍の言葉として紹介されていた、
「THEY SHALL NOT PASS!」という文字とポスターの隣には、実は
その言葉と対比させるように、こんな言葉とともに同じ大きさの写真があります。

「THEY DID NOT PASS」。

彼らは突破することはなかった

ヴェルダンでは航空機がフランス軍を援護し、ドイツ軍の
手っ取り早く勝利を得るという希望を阻むことに成功した。

しかしながら航空機は地上で起こっている虐殺を防ぐことはできなかった。

1916年の12月に攻撃が終わったとき、54万2千人のフランス兵、
そして43万4千人のドイツ兵の犠牲者が出た。

このうち、死者不明者はフランス軍16万2,308人、ドイツ軍10万人となります。

局地的な戦争で3ヶ月間にこれだけの犠牲がでたというだけでも
第一次世界大戦のヴェルダン攻防戦の熾烈さがわかります。

 

写真の、まるでオブジェではないかと思われるほど整然と積み重ねられた
夥しい人骨は、そのどれもがかつては生きてものを思い、エーリッヒとか
ジョルジュとか呼ばれて、誰かを愛し愛されていた男性だったのです。

写真の上にある、

「THE VERDUN OSSUARY」

は、戦場となったヴェルダンにあるドゥオーモン納骨堂のことで、
小さな外​​の窓から、両国の少なくとも130,000人の戦闘員の白骨が、
建物の下端にあるアルコーブを埋めているのを見ることができます。

MORSという文字が見える気がするのですが気のせいかな。

ヴェルダンの戦いは結局両軍に膨大な犠牲を生み、ファルケンハインの意図した
消耗戦になりましたが、当初こそ成功していたものの、
引き際を知らない皇太子のせいで(たぶん)ドイツは引き返せなくなり、
その結果泥沼にはまってセルフ消耗戦になってしまいました。

つまり作戦失敗です。
ファルケンハインはこの責任をとって参謀総長を辞任しました。

フランスへの影響もまた大きなものがありました。
終わらない戦争にフランス軍の兵士たちもまた極端に士気低下し、
忍耐力は限界に達しつつありました。

1917年、春に行われたニヴェル攻勢で、それはついに爆発し、
113個師団の内49個師団でによる命令拒否、反乱軍が立ち上がるなど
革命一歩手前の状況にまでになりました。

ヴェルダンの英雄となったペタン司令官が着任してこの反乱を収束させ、
その後フランス軍では多数の犠牲をともなうとわかる突撃は避けるようになったそうです。

なお、フランスはこのニヴェル攻勢をとくに恨みに思っていて、
「リメンバー・ニヴェル!」・・・といったかどうかは知りませんが、
とにかくヴェルサイユ条約ではドイツにさんざんこのときの「仕返し」をしたとか・・・。

犠牲者を多数出すより、自軍に叛乱されたことの方がよっぽど応えたようですね。

 

 

続く。


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