ソルジャーズ&セイラーズ記念博物館の南北戦争関係展示続きです。
冒頭写真の星条旗はおそらくここSSMMが開館した際、
展示のために寄贈されたもので、1861年から1865年までの間
ボルチモアの連隊に掲げられていた本物だということです。
マスケット銃というとイコール南北戦争というイメージですが、
ここには当時使われていたライフルが見本帳のように並んでいます。
上から
1816年モデル スプリングフィールド・マスケット
1842年モデル フランス製マスケット
ベルギー製 69インチマスケット
1863製 スプリングフィールド・マスケット
1832年製 スプリングフィールド・マスケット
1819年モデル フリントロックライフル
1819年モデル Breechloading(後装式)ライフル
1863年モデル シャープス新後装式ライフル
シカゴの州都であるスプリングフィールドには兵器工廠がありました。
ここには、第102ペンシルベニア志願歩兵連隊の
ジョン・ウィリアムス・パターソン大佐
(John Williams Patterson)
の遺品が展示されています。
戦死した大佐の写真の横には聖書とその横にはさらに
写真で大佐が持っている剣が展示してあるとされます。
しかし、日本人についても言えることですが、
昔の人って今の同年齢より老けてませんか?
パターソン大佐は戦死した時29歳で、写真はそれ以前に撮られているので
確実に20代のはずですが、髭せいなのかとてもそう見えません。
コーナーにはなぜか彼の未亡人の写真まであります。
その理由はパターソン大佐の戦場での負傷ががもたらしたとして
「戦場と銃後の悲劇」
というタイトルでパターソン家の悲劇を紹介しているからです。
それによると、パターソンと妻のアルミラはピッツバーグのサウスサイドに位置する
バーミンガムという地域に住んでいました。
パターソン大佐は1862年5月31日の「フェアオークスの戦い」で胸に銃弾を受け
肺を損傷して重傷を負いました。
翌年1863年の5月、彼と94名の部下はセーラム・チャーチで捕虜になったのですが、
このときあのマスコット犬の
ドッグ・ジャック(Dog Jack)
もついでに一緒に捕虜になっています。
彼らは南軍の兵士と交換というバーターによって1ヶ月後に解放されました。
ジャックも「交換対象」として北軍に帰されています。
おそらく同人数同士の捕虜交換だったと思うのですが、ジャック一匹に対し
北軍は南軍の兵士一人を返還したのかどうかが気になります(笑)
さて、捕虜から戻ることができたパターソン大佐ですが、ちょうどこれから1年後、
1864年の5月に、「ウィルダネス(荒野)の戦い」で戦死しました。
パターソンが29歳という若さで戦死して同じ歳の彼の妻アルミラは
三人の子供を抱えて未亡人となってしまいました。
そこで子供たちは当時の習慣に従ってピッツバーグのorphan court
(孤児院)の監視下に置かれることになります。
ちなみにこのオーファンコートというのはペンシルバニア州では
現在でも機能している法設備で、正確には
ペンシルバニア州アレゲニー群第5法管区
に所属し、未成年者の保護者の制定、委任状、親の権利と養子縁組、
民事上の義務、結婚許可証、非営利団体と法人、そして
相続と地所税の問題などを取り扱っています。
働き手をうしなったパターソン家のために、当時の孤児法廷は、
彼女の家と財産類を売却しています。
「孤児法廷セール・不動産売却」のお知らせチラシが残されていました。
アルミラ・パターソンの名前で、
「アレゲニー郡孤児法廷の命令に従ってわたしは公売を行います
3月2日土曜日午前10時より、ピッツバーグ市裁判所
故ジョン・W・パターソン大佐所有の不動産」
以下、正確な住宅の所在地が記されています。
ちょっと驚いてしまうのですが、当時は夫の所有である不動産は
妻に所有権がなかったということなんでしょうか。
まるでこれでは行政が戦争未亡人から不動産を取り上げたようですが、
つまりこれは、夫を失った妻には収入を得る当てがない、ということを
前提にして、不動産を売った金を寡婦年金として彼女に渡し、
彼女の住居は同種の未亡人を収容するための公的住居である
「ウィドウズ・マンション」に定められたということのようです。
それにしても母親が生きているのに子供を孤児院に入れるなんて
どういうつもりの福祉だったのかと暗然としてしまいますよね。
というわけで、アルミラ・パターソンは29歳という若さで「未亡人の家」に入り、
1908年に73歳で亡くなるまでずっとそこで暮らしました。
夫彼女自身12歳で孤児の身の上だったというアルミラは、夫を亡くしただけでなく
夫の死の数ヶ月後には彼女の三人の子供のうち末の娘を猩紅熱で亡くしています。
家を売りに出したときにはすでに彼女は娘を失い、孤児院に入ったのは
上の二人の男の子だけだったということになります。
この頃のアメリカは、兵士の銃後についてほとんど関心を払わず、
行政も今の感覚で見ればですが、理不尽な対応しかしていなかったことがわかります。
大佐は生前、軍人らしく自分の身にもしものことがあったときのために
このような遺書をしたためていました。
もし私の身に何かあって戦闘で倒れることがあれば、
最後に任務を完全に遂行するための力を与えてください。
もし私が死ななければならないときには、私はキリスト教徒として、
そして愛国者として相応しい死になることを望みます。
そしてその死によって私の妻、子供たち、そして友人たちが
何一つ悔やむようなことがないように。
そのとき私の名はその任務を気高く立派に果たしたものの一人として
後世に評価されますように。
ジョン・ W・パターソン
自分が国のために忠誠を尽くして戦い、「愛国者として」死んでも、
その国は自分の死後、遺族に相応しい待遇を用意していないと知ったら、
誰が好き好んで軍隊に身を投じようと思うでしょうか。
家族がこんな目に遭うならむしろ死んでもしにきれないと思わないでしょうか。
アメリカは現在軍人とその家族に対して非常に手厚い国になっていますが、
一朝一夕にこのような制度になったのではなく、戦争が起こり、
それに伴う社会問題に対して世論がそれを修正していくことで、
段階を経て今の形にたどり着いたのかもしれないとこの例を見て思わされます。
死んでも死にきれないといえば、南北戦争時代、こんな話がありました。
パターソン大佐の展示と同じケースに地面から引き抜いた跡のある墓石があります。
154 E.Z.HAIL
この墓石にはこんな笑えない「ミステリー」がまつわっているのです。
ユージーン・ゼブロン・ホール(Eugene Zebulon Hall)
はミシガンのデクスターの出身で、ミシガン第20歩兵連隊に志願入隊しましたが、
1864年の6月18日、ピッツバーグで戦闘の末負傷し、4日後亡くなりました。
ホールの家族は彼の遺体をミシガンの故郷まで汽車で送り返してもらうために
費用を支払ったのですが、どうやら遺体の防腐処理がきちんと行われなかったらしく、
折からの猛烈な夏もあって、棺から恐ろしい匂いが漂いだし、
気分が悪くなる客が現れるなど、車内が騒然としました。
ホールの棺はピッツバーグの駅ですぐさま降ろされ、市内随一の大きな墓地であり
今でもそこにあって南北戦争の勇士が何人も眠っているアレゲニー墓地に運ばれ、
可及的速やかに有無を言わせず(って本人は死んでますが)埋葬されてしまったのです。
おまけにその際彼のラストネームは「HAIL」と間違って刻まれました。
彼の遺体がいつまでも到着しないので、駅で待っていた彼の遺族は
なにかあったのかと心配しながら待ち続けたのですが、
当時のこととて連絡もいい加減だったのか、結局遺体は到着しないまま
時間は経過し、おそらくホールを知る親族は全て亡くなりました。
この「ミステリー」が解決したのはなんとそれから130年後の
1994年のことになります。
ホールの遺体の行方に興味を持った彼の子孫が、きっと棺は
ピッツバーグから何かの手違いで汽車に乗ることがなかったに違いないと推測し、
ピッツバーグの関係者を通じて、当記念館SSMMに記録を依頼したところ、
・・・・ビンゴ!
アレゲニー墓地の埋葬記録には確かに
「E.Z.HALL」
という名前が残されていることが判明したのです。
間違っていたのが墓石の名前だけだったのが幸いしました。
そこでホールの子孫は正しく名前の刻まれた墓石をあつらえ、
間違いで130年間ホールの墓の上に立っていたのを引き抜いて、
お世話になったSSMMにお礼方々(かどうか知りませんが)寄贈したというわけです。
こちら、不幸にも異郷で戦死し、故郷に帰ることもできず、130年の間
間違った名前の墓石の下で眠っていたユージーン・ホールさん。
こんな無念な死後、死んでも死にきれない魂が、アレゲニー墓地を
毎夜彷徨っていたとしても全く不思議なことではないような気がしますが、
執着しない人だったのか、それとも彷徨っていたけれど誰にも気づかれなかったのか。
いずれにしても130年後に子孫が探し出してくれたので
彼はようやく安らかに眠りにつくことができたに違いありません。
写真の下に手書きの文字が見えますが、これはホールが
故郷の人々に当てた手紙です。
彼の遺体を探し当てた「好奇心旺盛な」(そう書いてあった)子孫は
この手紙を読んで彼のことを知ったということなのでしょう。
その内容が抜粋されているので書き出しておきます。
これは当時の奴隷制度のひどさを生々しく物語る資料とも
なっています。
「彼らは皆奴隷を残酷に扱うことを当たり前と思っているようで、
別の日、僕は黒人女性が地面を耕すのに雄牛のツノに縄で縛り付けられて
雄牛と一緒に鋤を引かされているのを目撃しました。
また、黒人の女の子の首に鎖をつけ、大きな木までくくりつけて
とうもろこし用のクワを引かせるのを10回から15回くらいは見たことがあり、
どうやらそれは何かの罰のようでした。
とにかく白人というのはこういうことを何も知りません」
「僕は不幸なことに兵士が持っている唯一の慰めともいえる
ナップサックを紛失してしまいました。
手紙や日記、4月以来の写真、ウールの毛布一枚、防水用の
ゴム引き毛布1枚、シャツ2枚、ソックス2足などが入っていたのに。
思うに多分グリーンビルからノックスビルに移動する車の中で失くしたのでしょう。
僕たちは屋根無しの木の車で移動したのですが、僕はそれを
枕にして寝たりしていて、30マイル移動しているうちに
車から滑り落ちてしまったものと思われます」
記述は短い文章の中にいくつもスペルの間違いがあり、日本語で
「ママ」と書くところの英語の「sic」がこれだけの短い文章に五箇所あります。
それでも当時は字をかけるだけまともな教育を受けたということになります。
実物を見てもこれがなんなのか全くわからなかったのですが、
説明によると、これは第102ペンシルバニア連隊の旗だそうです。
戦闘に入る前に、この旗は石に包まれ、敵に奪われないように
ラッパハノック川に沈められました。(不思議なことをしますね)
その後3年経って旗は浮き上がってきたので、当時の連隊長、
ジェームズ・パッチェル大佐は旗をソルジャーズ&セイラーズに寄贈しました。
3年間水に浸かっていたのでこのような状態になったというわけです。
The Grand Army of the Republic、GAR
は、「南北戦争従軍軍人会」は、南北戦争に参加したユニオン軍の
陸海軍、海兵隊と歳入カッターサービス(のちの沿岸警備隊)のヴェテランの会です。
南北戦争従事者が生きている間は存続していましたが、1956年、
最後のヴェテランであるアルバート・ウールソン Albert Woolson
が106歳で亡くなった瞬間消滅しました。
彼は重歩兵部隊のドラマーだったということでGARの上層部になりましたが、
実際に軍隊で活動していた時期はごくわずか、誰も彼を覚えていないそうです。
しかし、ほとんどのアメリカ人は、
「そんなことは彼がヴェテランであることに何の関係もない」
として、彼が死んだ時にはアイゼンハワーが声明を出したりしています。
こちらは南北戦争における最後のピッツバーガー、
Joseph CaldwellがGARの催しに参加したときのもの。
カールドウェルは南北戦争ではペンシルバニア砲兵連隊に所属し、
1946年、98歳で亡くなりました。
退役軍人の会はアレゲニー墓地を行進したり(右)
リユニオン(同窓会)などの活動を行なっていました。
左のブルーリボンはメキシコ戦争のヴェテランのものです。
退役軍人会であるGARの「司令官」に就任したのは、
ウィリアム・クローゼン博士 Dr. William B. Krosen
志願歩兵で終戦時には中尉まで昇進した人物ですが、元々医学生で
戦後医師となり、下院議員でもあったという経歴でこの役職となったようです。
GARのケースに展示されていた水筒を、わたしはこの字を見るまで
太鼓だと思っていました。(それくらい大きい)
ペンシルバニア州アレゲニー郡の退役軍人会の名前が刻まれているので
実際に使用されたものではなく、軍人会の記念品として特注されたものでしょう。
「我々は同じ水筒から水を飲んだ」
”We drunk from the same canteen"
という文字が刻まれています。
続く。