脱走兵がたまたま放置されていた車の中に軍服を見つけ、
それを着込んですっかり大尉になりすまし、
部下を引き連れていく先々で殺戮を行う。
もしそれが実話をベースにしていたと知らなければ、
突っ込みどころ満載の穴だらけの脚本といわれそうな映画です。
しかしそれは現実に起こったことでした。
映画でも本名で語られているヴィリー・ヘロルト(Willi Herold)は、
盗んだバイクで走り出し、じゃなくて盗んだ制服で大尉となって
「ヒトラー総統の全権を受けた」と豪語し、敗残兵の部下とともに収容所を支配し、
脱獄囚の処刑や拷問を行ったうえ、収容所が爆破されるとこんどは
放浪しながら戦争犯罪を重ねていったというのです。
いくら制服を着ていたといえ、どうして19歳のガキにことごとく皆が騙されたのか、
軍人は誰も疑いもしなかったのか、それくらいドイツ軍はアホの集まりだったのか、
とこれを読んだだけでつぎつぎと疑問が湧いてきます。
ともかくこんな嘘のような話が現実に起こっていた、ということをを後世に知らしめた点で
本作品はある意味人類史に小さな貢献をしたといえるのではないでしょうか。
さて、この映画「Der Haptmann」、英語では「The Captain」。
captainは米海軍では大佐ですが、陸軍と空軍では大尉となるので、
日本語も「大尉」でいいと思うのですが、相変わらず日本の配給会社は
「小さな独裁者」
などと気持ちはわかるがとにかくセンスのない邦題をつけてしまっています。
さて、映画のストーリーは冒頭3行の通りです。
なんなら冒頭に描いた絵で全てが網羅されています。
実話なので流石の当ブログもツッコミようがないということもあり、
今回は数少ない資料(ドイツ語のドキュメンタリーYouTubeなど)を参考に、
この映画というより驚くべきこの人物について書きたいと思います。
冒頭の逃走シーン。
1945年3月、ドイツとオランダ国境から近いグローナウをめぐる戦いの途中、
ヘロルトは脱走し、
このだいたい左上くらいのところをうろうろしていました。
(大雑把すぎ?)
道中、ヘロルトは側溝に落ちた軍用車の残骸を発見するのですが、
車中には勲章のついた真新しい空軍大尉の軍服の箱があったので、
それを着込んで将校になりすました、というのがことの発端でした。
しかしこれはあくまでも本人の供述によるもので、本当だったかどうかは
もう永遠に検証されることはありません。
それにしても、逃走中こんなだった人が、
制服を着たとたんこんな風にいきなりこざっぱりしてしまうとは・・
いくらなんでもかなり無理があると思うのですが、どうなんでしょう。
彼がさらに北に向かって歩いていると、敗残兵に呼び止められます。
「部隊から逸れました。指示をください」
その後も北進を続けるうちに合流する敗残兵は増えてきて、
いつの間にか「ヘロルト戦闘団」「ヘロルト衛兵隊」を自称する
30人あまりの軍団になっていったのです。
車を手に入れると、彼はそのうち一人を運転手に指名しました。
映画ではたまたま野戦憲兵が通りかかったように描かれていますが、
実際は検問所を通過する際、ヘロルトは当時
「憲兵による書類提示の要請を拒否したため取り調べを受けたが、
あまりにも堂々とした振る舞いのため、取り調べの担当将校は
ヘロルトを空軍大尉と信じ込み、シュナップスを注いで歓迎した」
堂々としているかどうか以前に、当時19歳のヘロルトが大尉(通常30代?)を名乗っていて
誰もおかしいと思わなかったんでしょうか。
これですよ?
妙に童顔の将校だなー、とでも思っていたのかしら。
パーペンブルグに着くと、付近の収容所が脱獄囚の捜索を行っている、
という報告を受け、ヘロルトは市長および地元のナチス地区指導者と会談。
映画ではかなーり怪しまれているように描かれています。
ここでヘロルトは、
「自分には任務があり法的な些事のために割く時間はない」
として、脱獄囚を即時射殺させています。(つまり自分ではしていない?)
4月12日、ヘロルト一行はエムスラント収容所アシェンドルフ湿原支所に到着しました。
ここで行った大虐殺のため、後に彼には
「エムスラントの処刑人」
という別名が与えられることになります。
同収容所にはドイツ国防軍の脱走兵や政治犯が収容されていました。
直前に周辺からの移送があったため、数は3000人を越していたといいます。
ヘロルトはこのとき収容所および地元党組織の幹部らに
「ヒトラー総統は自分に全権を与えた」
と言い切ってこれが信用されています。
嘘は大きいほどバレないということなのか、あまりにも
話が大きすぎてつい信じてしまったのか。
相手がヒトラー総統とくれば、疑わしくても確かめる術がありません。
下手に疑ってもし本当だったら、そのときは自分の命取りになりかねません。
おりしも収容所で秩序が崩壊しつつあり、脱走者を相次いで出すなど、
不祥事に悩まされていた幹部連中は、中央からの、という言葉を聞いただけで
やましさから萎縮してしまい、ヘロルトを疑うこともしなかったらしいのですが、
それを読み解いた(かどうか知りませんが)ヘロルトは機を見るに敏、
状況を読むに長け、ある意味天才的な策略家だったといえます。
ただしその才能らしきものはろくな使われ方をしなかったわけですが。
彼は野戦裁判所を設置して秩序の回復を図ると宣言し、
さっそく血の粛清を行いました。
逮捕された脱獄囚たちは長さ7m、幅2m、深さ1.80mの大きな穴を掘らされ、
4月12日18時00分、高射機関砲の一斉掃射が始まりました。
生き残りがいないか死体を蹴って確認し、念入りに殺人が行われました。
映画ではたった一人、殺人にドン引きしていた部下をわざわざ指名し、
穴に入らせて生き残りを射殺させるという筋金入りの冷酷さ。
この日、日没までに囚人のうち98人が射殺されました。
収容所の将校が一人、ヘロルトの処分を「違法だ」としたうえで
上に報告する、と言っていましたが、その後どうなったのでしょう。
地元国民突撃隊部隊も出動させ、脱獄囚の捜索逮捕および処刑に当たらせますが、
映画では「埋め戻し」を拒否したとして、彼らまで処刑してしまいます。
相変わらず自分の手をあまり汚さず、宴会で余興の漫才をしていた囚人に
わざわざ銃を持たせて撃たせてあげるヘロルト。
ちなみにこの囚人は自分の犯罪について誤魔化して語ろうとしませんでしたが、
相方?が同じように銃を持たされるや自分を撃って自殺してしまったのに対し、
冷静すぎるほど狙いをしっかり定め、一発で逃げる人を撃ち殺してしまいます。
「ただの物盗りですよ」
といっていたけど多分嘘だったんだろうな、と観ている人に思わせる演出です。
実在したのかどうかわかりませんが、これ、いかにも頭悪そうな収容所監督の嫁。
逃げる囚人をいきなり銃で撃ち出すって、なんていうか、お里が知れるわー。
この翌日、4月13日には74人の「処刑」が行われ、もちろんそれは
ハロルトの指示によるものでした。
最初の処刑から1週間後の4月19日、イギリス空軍の爆撃により
収容所は破壊され、生き残っていた囚人は脱走しました。
収容されていた囚人にしてみれば、イギリス軍は神の使いのようにみえたことでしょう。
ヘロルトは敗残兵を集め、収容所の場所から逃走し、放浪しながら
各地で殺人(ヘロルト野戦即決裁判所 Standgericht Heroldという名のもとでの
即決裁判による処刑)と略奪(地元のホテルや商店に供出させ、
通行税と称して道ゆく人々からものを取り上げる)を行いました。
4月20日、ハロルトはパーペンブルクで連合国の到着に備えて白旗を揚げていた
農夫を「逮捕」して即決裁判で絞首刑に処しています。
(映画では英語で『WELCOME』とバナーを揚げている市民を射殺)
続いて2人の男性を逮捕して処刑。
海軍の脱走兵1人と精神障害者1人を処刑。
4月25日、レーア刑務所に収監されていたオランダ人5人の身柄を引き取り、
数分間の裁判でスパイ容疑者として形式的に裁き、墓穴を掘らせた後に射殺。
映画では好みの娼婦を横取りされたのに腹を立て、私的感情から
もっとも自分に反抗的だった部下を「裁き」、路上で処刑していました。
そしてアウリッヒに到着したとき、現地のドイツ軍司令官の命令で
全員が逮捕されることになります。
映画ではご乱行の大騒ぎの翌朝、野戦憲兵に踏み込まれたということになっています。
この野戦憲兵(フェルドゲン・ダルメリー)については当ブログでは
首に独特の鎖をかけている怖い憲兵集団ということを書いたことがありますが、
その鎖を首にかけた一団がどどどっとホテルになだれ込んでくるわけです。
あわててヘロルトは手帳を食べて証拠隠滅をはかるも阻止されます。
これは本物のヘロルトが処分し損なった軍隊手帳?
下の段は「目=青」ですよね。
逮捕の翌日、ヘロルトは海軍軍事裁判所で罪を自白しました。
ところが現実でもヘロルト裁判は不可解ななりゆきとなるのです。
本来死刑になってもおかしくないほどの重罪を犯しているにもかかわらず、
ヘロルトは一種の執行猶予、つまり処刑しない代わりに前線に送られる、
という甘々の判決を受けることになるのでした。
つまりこれは映画でも判事?が言っていましたが、兵隊が足りないので
処刑はしないかわり前線で死んでね、という処置だったということになります。
この執行猶予大隊または懲罰大隊はドイツ陸軍に組織されていた部隊で、
兵役不適格者や軽犯罪者など、「潜在的な厄介者」を兵力として認めたものでした。
これに所属する隊員は最前線において「並外れた勇敢」(außergewöhnliche Tapferkeit)
を示すことが求められ、さもなくば猶予されている刑罰が執行されたり、
一般の犯罪者としてエムスラント収容所に収容されることになっていました。
つまり、ヘロルトは執行猶予大隊でもし「並外れた勇敢」を示さなければ、
自分たちが君臨したエムスラントに送られることになるはずでしたが、
もちろんそこは爆破されてその跡地はそのころすでに畑になっていました。
とにかく、案の定ヘロルトは懲罰大隊に大人しく参加するどころか
ちゃっかり姿をくらまして、煙突清掃員(昔の仕事)として潜伏していたのですが、
1ヶ月も経たないうちにパンを盗んで現地のイギリス海軍に逮捕されました。
そして取り調べによってその恐るべき犯罪がもう一度明らかになったのでした。
イギリス海軍の現場検証に立ち会うヘロルト。
ヘロルトと彼の部下の敗残兵たちは集められ、皆で
アシェンドルフの犠牲者の遺骨を掘り返す作業を命じられました。
これは連合軍がよくやる?ドイツ軍に対する「懲罰的作業」で、
強制収容所の看守や軍医、ナチスの幹部が遺体の「片付け」をさせられるシーンが
動画として残されていますのでご覧になったことがあるかもしれません。
その際、彼らは手袋などを着用することを許されなかったそうですが、
ヘロルトらもきっと素手で掘り返しをさせられたでしょう。
裁判中のヴィリー・ヘロルト。
連合軍がドイツ人に対し、戦時中のドイツ人の殺害について裁く、というのは
ちょっと違和感を感じないでもないですが、つまりはそれだけヘロルトは
普遍的、人道的に許しがたい犯罪を犯したとされたのでしょう。
1946年8月、ヘロルトと敗残兵ら14人を裁くための軍事裁判が設置されました。
彼らは125人の殺害について有罪となり、同月29日(判決が早い)
へロルトと6人の敗残兵に対して死刑判決が下されました。
(うち一名は控訴のち無罪)
裁判所におけるヘロルトの写真を見る限り、総統の勅命を受けて
中央から派遣されたものすごい切れ者の空軍将校である、
と田舎のおっさんたちが信じてしまったとしても無理はない、
なんというか、一種「できそうな」雰囲気だけはあります。
ヴィリー・ヘロルトは1925年、屋根葺き職人の息子として生まれました。
演習を無断欠席してヒトラーユーゲントを追放され、
煙突清掃員をしていたそうですが、写真で見る彼は
顔立ちのせいなのか、ブルーカラーの育ちというには上品な感じに思えます。
18歳で空軍に徴兵されて兵役に就き、降下猟兵の連隊で訓練を終えました。
彼が脱走中に見つけた軍服が空軍大尉のものであったというのは、
この経歴から見て偶然の一致すぎる気がするのはわたしだけでしょうか。
さらに映画では、「見覚えがある」といわれた将校との会話で
「降下猟兵だった」
と誤魔化すシーンがありました。
しかし、たかだか1年の軍隊生活で大尉を演じ切るだけの知識を
かれはどうやって仕入れたのでしょうか。
ところで、わたしはこの映画を最初に観て歴史上の人物に対しては
ついぞ抱いたことのないほどの激しい嫌悪感を抱き、
「こんなやつは絶対に死刑になっていて欲しい!」
と怒りに任せて検索をしたところ、1946年11月14日、ヴォルフェンビュッテル戦犯収容所で
へロルトは他の5人とともにギロチンによる斬首刑を執行されていたこと、
しかも、彼は尋問中、虐殺の動機について問われると、
「何故収容所の人々を撃ったのか、自分にもわからない」
と答えたということを知りました。
大尉の制服によって自分が濫用できる権力を手に入れたことに気づいた彼は
それを思いつく形で試してみたくてたまらなくなったのでしょう。
おそらく、抵抗できない人間の命が自分の意のままになることが
精神的に未熟な幼児のままの彼には楽しくて仕方がなかったのだと思われます。
映画のエンディングシーンで、ヘロルトら一味が現代のドイツに現れ、
チンピラさながら略奪を行う様子が延々と描かれますが、製作者もまた
彼らに対してのこの嫌悪感をどうしてくれよう、とばかりに、怒りに任せて
この一見不可解なシーンを付け足したらしいのがわたしにはよくわかりました。
とはいえ、映画的にこの付け足しシーンは正直全く評価できなかった、
ということもお断りしておきます。
Lilian Harvey - Das Gibt's Nur Einmal
それでは最後に、ヘロルトが大尉の軍服を着込んで調子はずれに歌っていた歌、
乱痴気騒ぎのときにも女性たちと一緒に恍惚として歌っていた、
映画「会議は踊る」の挿入歌「ただ一度の機会」をお聞きください。
その歌詞とは・・
ただ一度だけのもの
二度と帰ってこないもの
それは多分ただの夢
Das gibt's nur einmal,
Das kommt nicht wieder,
Das ist vielleicht nur Träumerei.
終わり