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ブルー・マックスとディクタ・ベルケ 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

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しばらく兵士と水兵のための記念博物館の展示に集中していましたが、
もう一度スミソニアンに戻ります。

というか、早くスミソニアンを済ませてしまわないと、今年の夏見学した
航空博物館にいつまでたってもたどり着かないので・・。

さて、というわけで前回なぜエースというものが誕生したのか、
そして彼らがどのように「利用」されたかという話をしましたが。
今日はその価値観が一般に膾炙したあとについてです。

 

■エースの定義

戦争の初期には何機か撃墜していればエースと呼ばれていました。
その後、空戦そのものが「珍しいこと」ではなくなってくると、
エースになるために必要な撃墜数は増えていくことになります。

そしてその結果、嘆かわしいことではありますが、帳尻を合わせるために
虚偽の撃墜を申告するけしからんパイロットが出て来ました。

そこで各国政府は、全てのエースが国家的英雄とみなされる権利を
正当に得ているということを確認する必要がありました。

撃墜は必ずそれを確認する第三者がいなければならず、
そうでなければその記録は未確認で公認記録とはならない、
というルールができてきたのもこのことからです。

 

■プール・ル・メリット勲章とインメルマン

プロイセンのフリードリヒ大王は1740年、

プール・ル・メリット(Pour le Merite)

という勲章をずば抜けた働きをした陸軍の英雄のために設置していました。

ドイツ政府は、第一次世界大戦になって、このフリードリッヒ大王の勲章を
撃墜数を多く挙げたエースに授与するために復活させたのです。

このメダルのことを別名「ブルー・マックス」といいます。

そういえば昔、ブルーマックスが欲しくていろいろやらかす
下層上がりの野心的なパイロットを主人公にした映画、

ブルー・マックス

 

という映画をここでご紹介したことがあったんだったわ。
今読んでみるとこいつとんでもねえ。

というか、エースの称号欲しさにこういうことをやらかす輩もいたってことなんでしょう。

ところで、なぜこの勲章のことを「ブルー・マックス」と呼ぶかというと、
これを最初に受賞したエースは、インメルマンターンでおなじみ、ドイツ軍の

マックス・インメルマン
(Max Immelmann 1890ー1916)

だったかららしいです。

マックス・インメルマン

襟の中央に燦然と佩用されているのがのちのブルー・マックスですが、
この頃は普通に「プール・ル・メリット勲章」と呼ばれるだけのもので、
まだ勲章そのものの色も「ブルー」ではありません。

勲章がブルー(ドイツ語ではblauer=ブラワー)となり、
名称がブルー・マックスとなったのはマックス・インメルマンが受賞したから、
つまりマックスはインメルマンの名前からきているのです。

彼の開発したインメルマンターンは航空機のマニューバとして
その後も、もちろん現代もその名前のままで使われています。

スミソニアンにあったインメルマンの肖像。
犬はボクサーでしょうか

 

右がプール・ル・メリット、真ん中は大鉄十字章のようですが、中央に
ナチスドイツのマークがなく、『W』と刻印してありますので、
おそらく「1914年章」と呼ばれる軍事功労賞でしょう。

左は航空功労賞ですが、どこのものかはわかりません。

 

プール・ル・メリットは飛行機乗りの究極の目標といわれました。

ルフトバッフェでは、パイロットは最初の訓練を終了すると、
「ファーストクラス」の意味を持つ鉄十字章を獲得することができましたが、
プール・ル・メリットは、さらに、特定の数のミッションを生き残った
熟練の(そして幸運な)パイロットだけにしか授与されることはありません。

その意味するところは、ドイツ将校に与えられる
考えられる限り最高の栄誉とされていました。

そのためには敵機をある程度以上撃墜していなくてはなりませんが、
その数は1918年までに8機以上、と公式に決められました。

 

■「厄介な名機」アルバトロス戦闘機

さて、そんなギャラリーの上方には、カラフルな迷彩ペイントの
複葉戦闘機、

アルバトロス(Albatros) D.va

が空を飛んでいるように展示されています。

1916年、ドイツの航空機製造メーカー、
アルバトロス・フルーク・ツォイク・ヴェルケは、非常に高度な機構を持つ
アルバトロスDIを開発しました。

160馬力のメルセデスエンジンを備えた流線型のセミモノコック胴体と、
機体のノーズにきちんと輪郭が描かれたプロペラスピナーが特徴でした。

D-IIIという小さな下翼を備えた(一葉半)のセスキプラン・バージョンは、
1917年の初めに導入され、急降下で頻繁に下翼が破損する欠陥にもかかわらず、
操縦性と上昇力に優れていたため、大きな成功を収めました。

ちなみにレッド・バロン、マンフレート・フォン・リヒトホーヘン男爵が乗った
D-IIIも、下翼にクラックが発生しています。

アルバトロスDVモデルには、より強力な180馬力のエンジンが搭載されていましたが、
こんどはどういうわけか上翼の故障が急増していました。

このD.Vaは翼の破損の問題を解決するために機体を強化したところ、
重量が増加し、せっかくの新しいエンジン搭載による利点が
打ち消されるという残念な結果になってしまっています。

DVとD.Vaはまた、以前のD.IIIと同様、空気力学的な荷重がかかると
翼にねじれが生じることから、パイロットは、この機体での
長い降下を行わないようにと指示されていました。

つまり最初から最後まで、アルバトロスという名前のつく飛行機は
皆同じ下部翼の故障の問題を抱えていたことになります。

この問題に対処するために、小さな補助支柱が外側の翼支柱の下部に
補強のために追加されましたが、完全には成功しませんでした。

 

しかしながら第一次世界大戦中、約4,800隻のアルバトロス戦闘機が建造され、
オーストリア=ハンガリーもライセンス生産を行っています。

そして1917年を通じてドイツの航空隊によって広く使用され、
終戦までかなりの数のアルバトロスが活動を続けました。

ドイツのエースの多くは、アルバトロスシリーズで勝利の大半を達成しています。


リヒトホーヘンのアルバトロスD.V

ただし、彼らが評価したのは多くが初期のV.IIIであり、後継のD.Vは
改造後でありながら前より問題があるとして、嫌われていたようです。

たとえば、マンフレート・フォン・リヒトホーヘン。

彼もアルバトロスD.Vが製造されてすぐ機体を受け取ったのですが、
すぐに下翼の構造上の問題が解決されていないだけでなく、
構造を強化するための重量の増加が操縦しにくいことに気づき、
こんな風に手紙で知人に伝えています。

「イギリス機に比べるとまったく時代遅れで、
途方もなく劣っており、この飛行機では何もすることができない💢」

そこでアルバトロス社はこのD.Vaでパイロットの要望に応えようとしたのですが、
前述の通り、何を思ったか、重くて操縦性が悪かったD.Vよりさらに
機体が重たくなってしまったのです(´・ω・`)

その分はメルセデスの新型エンジンで相殺されるはずが、
結局最後まで同じ問題は存在していたということで、ドイツのエースたちが
もう少し性能のいい飛行機に乗っていたらもう少しエースが増えていたかもしれません。

 

■ 英雄、オスヴァルト・ベルケ

1916年に戦死するまでに、ドイツのエース、
オスヴァルト・ベルケ(Oswald boelcke 1891-1916)は
40機という第一次世界大戦のドイツでももっとも高い撃墜数を上げ、
大衆からの絶大な絶賛を浴びました。

しかし、かれの最も特筆すべき航空への貢献というのは、
戦闘機パイロットの後進指導であり、航空戦術の発明だったとされます。

このため彼は「航空戦術の父」とも呼ばれています。

ベルケはドイツ戦闘機部隊の組織の責任者でもありました。

かれの先駆的な研究は、今日の空中戦の原型を形作ったといっても過言ではありません。
これは、彼の空戦勝利よりもはるかに後世に大きな影響を与えた貢献といえましょう。

空中戦に特化した新しい航空隊長就任の命令を受けたとき、
ベルケが取ったのは当時にして革新的なアプローチでした。

まず、人を育てること。

搭乗員採用にほとんど関与しなかった以前の戦隊司令官とは異なり、
彼は一人一人を面接し、その資質などをチェックした上で、
戦闘機パイロットとして素質と才能をもち、成功する可能性があると
見込んだ男性だけを選びました。

生徒の戦闘スキルを開発する彼の方法も同様に革新的でした。

従前のドイツ軍では戦闘訓練といいつつ飛行することだけを学生に教えましたが、
彼が教えたのは空中戦闘の技術(アート)でした。

彼はパイロットの指導につねに積極的な役割を果たすため、
地上で見ているのではなく、つねに生徒と一緒に飛行し、
彼らのパフォーマンスを彼らと同じ目線で見て評価しました。
(またそれができる教官は彼だけでした)

彼はまた、彼自身の戦闘経験についても非常に論理的に分析し、
空中戦のための最初のルール(dicta)を書きました。

これらの簡単な「基本法則」はすぐに初心者に理解され、記憶され、
新しい戦闘機パイロットの血肉となって、後に続く者たちに受け継がれました。

 

■ベルケのディクタ(Dicta Boelcke)

1. 攻撃する前に常に有利な位置を確保するようにしてください。
 敵の不意を突いて、相手がアプローチする前、または最中に上昇、
 攻撃のタイミングが近づいたら後方から素早く飛び込みます。

2. つねに太陽と敵の間に自分を置くようにしてください。
 これは太陽のまぶしさで敵があなたを視認できなくなり、
 正確に撃つことを不可能にします。

3. 敵が射程内に入るまで機銃を発射しないでください。

4. 敵が攻撃を全く予測していないとき、または偵察、写真撮影、
  爆撃などの他の任務に夢中になっているときに攻撃します。

5. 決して背を向けて、敵の戦闘機から逃げようとしないでください。
  後方からの攻撃に驚いたら、振り向いて銃で敵に立ち向かいます。

6. 敵から目を離さず、敵に騙されないでください。 
 対戦相手がダメージを受けているように見える場合は、
 彼が墜落するまで追跡し、偽装ではないことを確認します。

7. 愚かな勇気は死をもたらすだけです。
 Jasta (戦隊)は、すべてのパイロット間で
 緊密なチームワークを持つユニットとして戦う必要があります。
 つねにその指導者の命令に従わなければなりません。

8. Staffel スタッフェル(squadron)の場合:
 原則として4人または6人のグループで攻撃します。
 戦闘が一連の単一の戦闘に分かれた場合は、
 数人で1人の敵に向かわないように注意してください。

 

今これを見て気がついたのですが、ハリウッドの三流映画、
「ブルーマックス」の主人公の名前は確かスタッフェルでした。
「飛行中隊」という名前だったのね。

まあ、イェーガー(戦闘機)という名前のアメリカ人もいるのでそれもありか・・。

  Fokker Eindeckerシリーズの戦闘機(s / n 216、軍用s / n A.16 / 15 )
ベルッケは、これらの航空機の1つを飛行させる空中戦術を学びました。   ■英雄の死

エースの葬式

ベルケが亡くなったフランスでの告別式には、ドイツ皇太子が出席し、
彼の棺にはカイザー・ヴィルヘルム自らが花輪を捧げました。

ベルケはドイツ国民だけでなく、敵国からも尊敬され崇拝されていました。

このときイギリス軍の航空機が上空を飛行してローレルの花輪を墓地に投下しましたが、
それには、

「我々の勇敢な騎士である敵

 ベルケ大尉の思い出に

 大英帝国王立航空部隊より」

と記されていました。


オスヴァルト・ベルケは1917年10月28日、敵と交戦中、僚機と接触し、
翼が破損した機が墜落して頭蓋底骨折で死亡しました。

墜落したとき、どういうわけか彼はヘルメットを着用しておらず、
安全ベルトも着用していなかったということです。

 

続く。

 


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