この「ソルジャーズ&セイラーズのための記念博物館」が
1911年に開館するまでの工事過程とその後の南北戦争ヴェテランを招いての
記念式典については一度当ブログでご紹介していますが、ここにきて
もう一度その関係資料が展示されているコーナーが現れました。
ケース後面に貼ってあるのはオリジナルの設計図ブループリントで、
設計会社であるPalmer and Hornbostelから(おそらく永久に)
リースしているものです。
設計図の日付には1907年10月18日と記されています。
設計者の
ヘンリー・ホーンボステルHenry Hornbostel (1867 – 1961)
は前にも書きましたが今も残るカーネギーメロン学舎のコンペに勝ち、
建築を採用されたのがきっかけで当博物館の建築を依頼されました。
以降ここでは南北戦争ヴェテランのリユニオン(戦友会)が
頻繁に行われていくことになります。
ちなみに白黒写真では全く伝わらないホールの素晴らしさをご覧ください。
当時から寸分変わっていない壮麗な装飾穂の施された内装を。
中段の写真は建物落成後初めてここで行われたGARのリユニオンの様子です。
まだ当時は生存者がたくさんいて盛会であったことがわかります。
下段写真の中二つは、人垣の真ん中を入場(退場?)してくる
南北戦争のヴェテランたちで、ペンシルバニア州のみならず
東部の北軍関係者がかなりの数出席したようです。
ちなみにMKのアパートはここから数ブロックのところで、
わたしがホテルに帰るにはこの前の道を必ず通っていました。
博物館の前庭にあたる緑地帯にはお天気の良い日は
必ずたくさんの学生らしい人たちが座り込んでいます。
COVID19以降学生の社交は外で行われるのが主流のようです。
しかし、今はそれで良いですが、猛烈に寒くなる冬はどうするのか。
MKの学校でもサンクスギビングの休暇以降は、授業を
全てオンラインで行うことが早くから決まっています。
博物館の全景が描かれた(今は道ができ、反対側にビルが建ち、
このような角度からは建物を見ることはできない)
お皿とカップは、開館した最初の年だけ限定で
土産物ショップ(今でも同じところにある)で売られていたものです。
右側のウォーターピッチャーは銀製品で、これも記念品。
「アレゲニー郡メモリアルホール」と刻まれているそうです。
正式な名称が決まっていなかった頃に製作されたものでしょう。
さて、何回かにわたって南北戦争についての展示をご紹介してきました。
最後にはなぜか「軍隊と動物」というテーマが入ってきたのですが、
続いての展示は時系列どおり米西戦争関係となりました。
日本人には南北戦争以上にピンとこない米西戦争ですが、この
Spanish–American War
は、1898年4月21日から8月13日までの4ヶ月足らずの期間、
キューバ、プエルトリコなどのカリブ海諸国、そして
フィリピン、グアムで起こったアメリカ対スペインの戦争です。
ものすごく簡単にいうと、
「アメリカがスペインの支配下にあったキューバを
独立させるためにという名目でスペインと戦い、
勝ったら独立させずにちゃっかり自分のものにしてしまった」
というジャイアンアメリカの本領発揮な戦争だったわけですが、
これはそれまで内戦でだけドンパチやってきたアメリカさんが、
海外への覇権に乗り出し、その後の帝国主義のきっかけともなる出来事でした。
ところで、どなたも次の言葉のいくつかをきっとご存知でしょう。
「リメンバー・フォートサムター」
「リメンバー・アラモ」
「リメンバー・ルシタニア」
「リメンバー・パールハーバー」
「リメンバー・トンキン」
「リメンバー911」
ちなみに日本人に馴染みのないアラモについてさくっと説明しておくと、
「リメンバーアラモ」1835 Remember Alamo
何をリメンバーか;
メキシコの領土であったテキサスに入植したアメリカ人が独立運動を起こし、
アラモ砦でメキシコ軍の攻撃によって守備隊が全滅したこと。
どんな戦争が起こったか;
翌年アメリカはメキシコに勝ち併合、リメンバーアラモを合言葉に
カリフォルニアをめぐってメキシコに宣戦布告
アメリカが勝利で得たのは;
アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ニュー・メキシコ、
ネバダ、ユタ、ワイオミングにあたる地域をメキシコから奪取し、
メキシコは領土の半分以上を失った。
それから、アメリカが第一次世界大戦に参戦したきっかけ、
それが「リメンバールシタニア」でした。
ドイツ潜水艦が無警告で放った魚雷によって沈没した
民間船「ルシタニア」。
これは犯罪であるので我々はこの「悪魔の所業」に対し、
正義の天誅を加えるべく武器を取って戦う、ついては
今日にでも志願して従軍してください、というポスターです。
とにかくアメリカがリメンバー言い出したら必ずその後戦争になる、
ということがよくお分かりいただけると思いますが、
この米西戦争の時も
「リメンバー・ザ・メイン」
というのがありました。
つまり在留米国人の保護を目的にハバナに停泊していた戦艦「メイン」が、
原因のいまだにはっきりしない理由で夜間爆発し、かわいそうに
当時ほとんどが就寝中だった260名の乗員はほぼ即死するという、アメリカにとって
非常に都合の良い、じゃなくて痛ましい事故がそのきっかけになっています。
ちなみにこの時死亡した中には八人の日本人(コックとボーイ)が含まれています。
当時の大統領マッキンリーは戦争には消極的でしたが、メインの爆発を煽り、
スペインの機雷のせいと決めつけた記事で世論を煽ったのが当時のジャーナリズム。
センセーショナルに報じれば報じるほど新聞は売れますからね。
このとき読者獲得競争で凌ぎを削ったのが、ご存知ハーストとピューリッツアーです。
要するにメディアが国民を焚きつけて戦争へと突入していくという構図は
すでにこのときに発生していたということなのです。
キューバに自治を与えて戦争を回避しようとしたスペインでしたが、
アメリカはそれに満足せず、完全撤退を迫ったのでスペインもキレて、
アメリカとの外交を停止してしまいました。
そこでアメリカはここぞとスペイン領のフィリピンに攻め込みました。
キューバを独立させよと言いながらフィリピンを盗っちまおうとは、
さすがアメリカさん、他の国にできないことを平然とやってのける!
そこにシビ(以下略)
そしてマニラに行く途中にあったスペイン領のグアムにも攻め込みました。
独立戦争の機運を受けて蜂起が起こったキューバにも攻め込みました。
つまり一挙にスペインから独立させるという名目で4カ所を取り上げたのです。
さすがアメリカさん(以下略)
まあいっちゃなんですがそれが当たり前の時代でしたからね。
ここには米西戦争の陸軍の制服が展示されているわけですが、
特筆すべきはOD色、オリーブドラブと呼ばれる色の軍服が
初めて登場したのがこの戦争の時からだったということです。
その直前までアメリカは「ブルーとグレイ」しか存在していませんでした。
この将校用制服の襟の形は我が帝国陸軍のものに似ていますが、
1912年つまり第一次世界大戦の頃には立ち襟に変更されます。
後ろにある説明によると「Undress Blouse」、この言葉は
軍服のジャケットを含むセットのことを指すようです。
ボランティア歩兵師団の制服が着用主の写真付きで展示されていました。
米西戦争ではとにかく新聞が世論を煽りまくったため、志願兵だけでなく
義勇軍などにぞくぞくとやる気満々の男たちが志願しました。
ところでアメリカにも当時の規格で軍服を再現し作るという会社が存在していました。
このサイトの米西戦争のページです。
米西戦争のことを英語では「スパナム・ウォー」と略すんですね。
米西戦争でアメリカ陸軍騎兵隊の少佐として指揮を執った
セオドア・”テディ”・ルーズベルト
です。
彼が率いたのは「ラフ・ライダーズ ’Rough Riders'」という義勇軍部隊で、
米西戦争中最も有名となった「サン・フアン・ヒルの戦い」の勝利に貢献しました。
このことがその後政治家となった彼をニューヨーク州知事、副大統領、
そして第26代アメリカ合衆国大統領に押し上げたと言っても過言ではありません。
もっとも彼が若干42歳で大統領に就任したのが、副大統領時代に
マッキンリー大統領が暗殺されたからでした。
ちなみに、日本人があまり知らないことの一つですが、日露戦争の停戦を仲介し、
そのことによってアメリカ人で初めてノーベル平和賞を受賞しています。
棍棒外交、ホワイトフリートと彼が行った外交政策は、決して
ノーベル平和賞受賞者にふさわしいとは思えないのですが、似たような例は
アメリカ史上初めてアフリカ系として大統領になった人の時にもありましたよね。
ところで熊ってこんな動物だったっけ・・・。
これ中に子供が入ってないか?
ついでにルーズベルトの愛称「テディ」はテディベアの語源ですが、それは
大統領となったルーズベルトが熊狩りに行ったとき、同行のハンターが忖度し
「下ごしらえ」としてすでに弾を撃ち込んだ瀕死の熊を、
「大統領、ささ、どうぞ仕上げを」
と差し出してきたので、
「そういうのを撃つのはスポーツマン精神に悖る」
と拒否したのが美談として報じられ、それを知った街の菓子屋が
熊のぬいぐるみを作って「テディベア」と名づけたのが起源です。
なぜ菓子屋がぬいぐるみを作ったのかはわかりませんが。
ただし、彼も熊を狩りに来ていたわけですから、巷間いわれるように、
「瀕死の熊を不憫に思って断った」というのではなかったと思います。
まあ、普通に腕に自信があって、この手の忖度はプライドが許さなかったんでしょうね。
米西戦争ではアフリカ系の部隊、「バッファロー・ソルジャーズ」が投入されました。
このブログでも何度も紹介してきましたが、しかし当時は白人の義勇軍、
「ラフ・ライダーズ」の方が有名でしたし、メディアも黒人部隊の活躍はガン無視していました。
米西戦争に投入された「トラップドア」ライフル、と説明があります。
正確には、
スプリングフィールドM1873 トラップドア
(U.S.Springfield Model 1873 Trapdoor)
で、最初の標準装備となった後装式ライフルです。
歩兵銃型と騎兵銃(カービン)型のヴァリエーションがありました。
続く。