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第一次世界大戦 ”初めて”のパイロットたち(おまけ:ラフベリーとライオン) 〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の第一次世界大戦当時の軍用機、
ことにエースに焦点を当てた展示から、リヒトホーフェン以外の
当時の飛行家、マックス・インメルマンやことにオスヴァルト・ベルケという
航空史において創始者となった人物の名前を知ることになりました。

今日は、当時アメリカから参加した戦闘機隊や、
ヨーロッパの航空隊に参加したアメリカ人飛行士たちをご紹介します。

■ ”初めて”のパイロットたち

ステファン・トンプソン
Stephern W. Thompson 1894-1977

がミズーリ大学を卒業後、
アメリカ陸軍沿岸砲兵隊U.S. Coast Artillery Corps
に参加したのは1917年のことでした。
すぐに陸軍航空隊の通信部門に転属した彼は、偵察員として
フランスの第一航空部隊で訓練を受けます。

1918年、フランスの爆撃隊の飛行場を訪問していたトンプソンは
病気で休んでいたフランス人の偵察員兼射手の代わりに
爆撃機に乗ってくれないかと誘われて搭乗。

任務から帰投する途中、ドイツ軍の戦闘機が現れ、トンプソンは
そのうち1機を撃墜し、アメリカ軍の制服を着たアメリカ軍人として
初めて公式に「航空勝利」が公式にクレジットされることになりました。

その年の7月の空戦で、彼のサルムソン2A2は、
「リヒトホーフェン・サーカス」のフォッカー eD.VIIに攻撃されました。

トンプソンは機を撃墜しましたが、3機目の弾丸が彼の機関銃を破壊し、
彼の脚に当たりました。
彼の機のパイロットは胃に弾丸を受けましたが、
亡くなる前になんとか飛行機を墜落させ、トンプソンは命を救われました。

 彼らを撃墜したパイロットは有名なドイツのエース、
エーリッヒ・レーヴェンハートErich Loewenhardt ( 1897 – 1918) です 。

絶対ナル入ってる

トンプソンがアルバトロスD.IIIを撃墜したときに着用していた飛行服と
彼の脚から取り出された弾丸は、米国空軍国立博物館に展示されています。 


Fallen World War I Aviator Gets Posthumous Distinguished Flying ...

ジェームズ・ミラー大尉   James Miller 

ジェームズ・ミラー大尉は、米軍の最初の飛行士であり、
第一次世界大戦で最初の米航空の犠牲者となった人物です。

イエール大学卒で成功したニューヨークの投資家だったミラーは、
(道理で着ている服がゴーヂャスだと思った)
1300におよぶ著名な事業に参入していたプロフェッショナルで、
新聞に「ミリオネアー・ルーキー」などと書かれながら、
1915年、軍事科学の勉強をニューヨークのプラッツバーグキャンプで開始し、
その年の後半にはやはり飛行士だった米国鉄鋼社のエグゼクティブ、で弁護士、
レイナル・ボリング (Raynal Bolling )とともに、ニューヨーク州兵の
初の航空製造会社の立ち上げを行っています。

1918年2月、ミラー大尉は最初のアメリカ人戦闘機パイロットを組織した
第95航空団に配属されて前線に赴きますが、翌3月、
彼は空戦に巻き込まれ、アメリカ人飛行士として初めて戦死しました。

ボリング大佐

ちなみに、レイナル・ボリングもハーヴァードロースクール出身の弁護士で、
また裕福な出の実業家でありながら飛行士となった人物です。
ヨーロッパ戦線に赴き、車で移動中ドイツ軍と遭遇し、射殺されました。

ボリングの死はミラーの1ヶ月後で、奇しくもこの二人の実業家は
アメリカ人として初めて空と地上で戦死したということになります。

 

■ラファイエット航空隊とラフベリー軍曹

ジェルヴェ・ラウル・ヴィクター・ラフベリー
Gervais Raoul  Victor Lufbery(1885-1918)

 

この人の写真を当ブログであげるのは3回目となります。
次のコーナーでは

ラファイエット航空隊

の紹介がされているので、フレンチーアメリカンの飛行士である
このラフベリー軍曹の写真が登場しているのです。

この写真で彼は軍服にフランス政府から授与されたレジオンドヌール勲章、
軍事メダル、そしてクロワ・ド・ゲール、十字勲章を付けています。

ラフベリー軍曹はパリのチョコレート工場で働いていたアメリカ人化学者の父と、
フランス人の女性の間に生まれましたが、1歳で母を亡くし、
フランスで母方の祖母に育てられました。

17歳になると彼は放浪の旅を経て父の国アメリカに辿り着き、
陸軍に在籍した後はインド、日本、中国に任務で赴任しています。

フランスの航空会社の整備士として働いていた彼は、
知人がパイロットとして戦死したのをきっかけに訓練を始めます。

訓練中、彼は同僚のパイロットから整備士上がりであることを理由に
ずいぶんいじめを受けたようですが、整備士ならではの忍耐と
機体を熟知し、細部にまで注意を払いそれを飛行に生かすというスタイルで
エースパイロットになることができました。

1916年、アメリカの有志が、フランスの対ドイツ戦を支援するために

「エスカドリーユ・アメリカ」(アメリカ戦隊)

という派遣部隊を結成することを決めました。
この名前は、ドイツから「中立性の違反にあたる」と激しい抗議を受け、
すぐに

「エスカドリーユ・ラファイエット」(ラファイエット戦闘機隊)

と改名されています。
戦隊は、ほとんど飛行経験のない上流階級のアメリカ人で構成されていました。

ここで思い出していただきたいのが、当ブログで以前ご紹介した

フライボーイズ(FLYBOYS)

という映画です。

主人公はジャン・フランコ。

フランス人大佐にジャン・レノという一点豪華主義配役の映画でしたが、



これ、ラファイエット航空隊がモデルなんですね。

で、ドイツ軍の通称ブラックファルコンといういかにも悪そうな奴と
空戦してやられてしまうエースのキャシディ大尉は、
ラフベリー大尉をモデルにしていると考えられます。

主人公のフランコも落ちこぼれっぽい青年でしたし、
銀行強盗したこともあるやつが混じっているあたり、
「上流階級から選ばれていた」という史実に反しますが。

ラフベリーは航空経験を持つアメリカ市民として採用されましたが、
ユニットメンバーとの出会いは決してスムーズだったとは言えませんでした。

労働階級出身の彼の英語には強いフランスなまりがあり、さらに仲間のほとんどは
裕福な家の出身で、全員がアイビーリーグで教育を受けたエリートばかり。
共通点は何ひとつありません。

しかし、戦闘に入ると、たちまち彼は仲間の尊敬と称賛を受けるようになります。

 ある日仲間のパイロットがライオンの仔を購入しました。
ウィスキーを皿に入れて飲むのが好きだったとかで、(!)
「ウィスキー」と名付けられたこのライオンを、ラフベリーは数年間育てました。

 ウィスキーがガールフレンドを必要としていると思われた頃、
たまたま「ソーダ」という名前のメスライオンがやってきました。

(彼は追加でライオンを買ったわけですが、当時のフランスというのは
アフリカからの船で野生動物なんかをバンバン輸入していたようです。

今でもフランスの動物園に行くとその名残が見られます。
決して大きくない動物園にキリンが1ダースいたりとか、ゾウガメがたくさんいたりとか。
当時はさぞや掴み取り取り放題で動物を獲ってたんでしょう)

ソーダはウイスキーよりもはるかに野性的で、人に慣れず、それどころか
隙あらば人に襲いかかる気満々だったのですが、ラフベリーにだけは懐いていました。

最後までウィスキーはペットの犬のようにラフベリーの後をついて回っていましたが、
 彼が亡き後、ペアは自動的にパリ動物園に連れて行かれたということです。

ラファイエット航空隊のメンバーが集合写真を撮ろうとしていたところ、
ウィスキーがやってきてラフベリーにすりすりを始めてしまったので、
写真が撮れないだけでなく、みんなちょっと引いているの図。

 

ラフベリーはラファイエット航空隊で17機の撃墜記録を立て、
エースになりました。

1918年5月19日、ニューポール28で出撃した彼が
攻撃のため敵機に近づいたとき、ドイツの砲手が発砲しました。

 高度が200から600フィートの間を下降している時、
ラフベリーは飛行機から飛び出し、落下した彼の体は、民家の庭の
金属製のピケットフェンスに突き刺さったと言われています。

ラフベリーはフランスにある飛行士墓地に軍の名誉をもって葬られ、
後にパリのラファイエット・メモリアルに運ばれあらためて埋葬されました。

彼の公式撃墜数は17機ですが、彼の仲間のパイロットは、
25機から60機は未確認撃墜をしている、と証言しています。

彼もまた、フランス系アメリカ人として初めてのエースとなりました。

ラファイエット航空隊のパイロット、
エドウィン・パーソンズが着用していた「ケピ」という
フランス軍独特の帽子。

金糸のブレード飾りがフランスらしく粋です。

冒頭の航空機は、ウドヴァー・ヘイジー(別館)にある

ニューポール Nieuport 28C.

です。

著名なフランスの航空機メーカー、

ソシエテ・アノニム・デ・エスタブリセメンツ・ニューポート

は1909年に設立され、第一次世界大戦前に
一連のエレガントな単葉機のデザインで有名になりました。

会社の同名のエドゥアール・ド・ニューポールと彼の弟シャルルは、
どちらも戦前に飛行機事故で死亡しています。

才能のある設計者のギュスターヴ・ドラージュは1914年に会社に加わり、
セスキプラン・Vストラット単座偵察機の非常に成功し、戦時に
ニューポール11とニューポール17は最も有名な飛行機となりました。

ニューポール28C.1は1917年半ばに開発されました。

ニューポールが製造した最初の複葉戦闘機の設計で、上下翼の弦がほぼ同じです。
スパッドVIIとそのころ発表されたスパッドXIIIの優れた性能と競合するために、
セスキプランシリーズで採用されているタイプよりも強力なモーターの使用を検討しました。

より強力で重い160馬力のGnôme製ロータリーエンジンが利用可能になったことで、
下翼の表面積を増やして新しいエンジンのより大きな重量を補うという決定が促され、
典型的なニューポートセスキプレーンVストラット仕様は廃止されました。

1918年の初めごろのフランスの航空界は、より新しい、より先進的な
スパッドXIIIを愛好する派が多かったため、彼らは新しいニューポールデザインを
最前線の戦闘機として使用することを実質拒否していました。

しかし、ニューポール28は新しい「居場所」を得たのです。
それは大西洋の向こうから到着したアメリカの飛行隊でした。

自国に独自の適切な戦闘機がなかったため、米国は、
需要の多いスパッド XIIIをフランスから入手できるようになる前に、
一時的措置としてニューポール28を採用しました。

ニューポール28は、
アメリカ遠征軍=「駆け出しのUSエアサービス」
の最初の運用機として、信じられないほどの性能を発揮することになります。

全米航空コレクションにおけるニューポール28の主な重要性とは、
アメリカの指揮下にあり、米軍を支援するアメリカの戦闘機と一緒に戦う
最初の戦闘機であったということでしょう。

また、アメリカ軍部隊で空中勝利を収めた最初のタイプでもありました。

1918年4月14日、ニューポール28を操縦する第94航空飛行隊の
アラン・ウィンスロー中尉とダグラス・キャンベルは、
それぞれゲンゴール飛行場で直接行われた空戦で敵機を撃墜しています。



続く。

 


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