スミソニアン博物館の第一次世界大戦の軍用機ギャラリーの
上空にハングされているこの飛行機の正体を突き止めるのに
なぜかものすごく時間がかかってしまいました。
ヴォワザン Voisin VIII
ヴォワザンタイプ8はフランスの爆撃機ですが、当時の飛行機にして
夜間に使用するために内部爆弾ラック、コクピットライト、そして
着陸灯の設備が搭載されていました。
現物を見た限りではフォッカー などと比べても旧式っぽいのに、
意外なくらい?当時の先取だったわけです。
ガブリエルとシャルル・ヴォワザン兄弟は、二人とも
ヨーロッパを代表するパイオニア飛行士でした。
ガブリエルは1905年、ルイ・ブレリオとヨーロッパで最初の
民間航空機製造会社を設立しましたが、二人はすぐに喧嘩で決裂したため、
弟のシャルルとともに会社を改革し、
ヴォワザン兄弟飛行機会社
(アパレイユ・ダビタシオン・レ・フレール・ヴォアサン)
を設立しました。
1907年に登場した最初の古典的なプッシャー複葉機は
第一次世界大戦前の最も重要な航空機の1つでした。
ヨーロッパを代表する飛行士の多くがヴォイザンを飛行させました。
1912年までには、初期タイプをもとに75機以上の飛行機を生産、
そして同年軍用に成功したバージョンを開発し、契約に繋げます。
フランス軍によって採用されたヴォワザン1912(タイプ1)は
二人乗りのスペースを備えた短いナセルと、後部に80馬力の
ルローヌ9Cエンジンを備えた、二枚の翼が同じ大きさの複葉機でした。
十字形の尾が翼に取り付けられており、着陸装置は四輪式です。
ちょっぴりお茶目なガブリエル(右)
ヴォアザン兄弟はその設計哲学において常に保守的でした。
戦時中の機体の設計変更はごくわずかで、性能の改善は、主に、
より強力なエンジンを取り付けることによって行われました。
戦争中、ヴォワザンの「プッシャーシリーズ」は、偵察、大砲発見、
訓練、昼夜爆撃、地上攻撃など、さまざまな任務を遂行しました。
戦争が始まって最初に記録された空中でのヴォアザンの勝利は、1914年10月5日、
フランスのパイロットとその(撃墜)観測者がヴォワザン3から
ホッチキス機関銃を発射し、ドイツのAviatik B.1を撃墜したときのものです。
また、航空機史上最初の専用爆撃ユニットを装備していたことでも注目に値します。
1915年5月26日、ドイツ軍が毒ガスを戦闘に投入したことに対する
報復攻撃を行ったのが、このヴォアザン3の部隊でした。
ヴォアザンは、ドイツ国内の標的への日中の攻撃をこのように成功させてきましたが、
1916年までには、新しく、より高い性能を持つドイツの戦闘機に対して、
低速で後方からの攻撃に無防備な機体は、次第に脆弱になってきていました。
しかし、これらの弱点にもかかわらず、基本機体が頑丈で信頼性が高かったため、
まだまだ訓練機として、そして夜間任務に使用され続けたのです。
また、英国、ロシア、イタリア、および米国を含む12か国に
供給またはライセンス生産されています。
スミソニアンにあるヴォアザンのタイプ8は、1916年11月から
夜間爆撃中隊の任務に使われていたものです。
エンジンに220馬力のプジョー8 Aaインラインを搭載したため、タイプ8は、
このより大きくて重いエンジンに対応するために、自ずと胴体が大きく強化され、
翼幅が大きくされる必要がありました。
機関銃は1門または37 mm機関砲が装備されていました。
新しいエンジンは確かに名目上性能を向上させましたが、しかし、
それは決して信頼に足るとは言えなかったので、ヴォアザンは
軽量で強力な280馬力のRenault 12Feエンジンを
タイプ8の機体はそのままに載せたタイプ10を開発しました。
そうしてようやくタイプ10は、射程、速度、爆弾の負荷が改善され、
1918年の初めにタイプ8に取って代わることができたのです。
NASMコレクションのヴォワザン8は、1917年の初めにアメリカ大使を通じて
米国政府が購入した3機のうちの1機でした。
もともとアメリカが技術評価し、その技術を取り入れるために取得したのですが、
機体が米国に送られてきて、さらに飛行デモの準備ができたころには
すでに時代遅れになっていたのです。
そこで陸軍省航空機生産局の中佐は、スミソニアン長官に、
「展示用の時代遅れ機」について書簡を送り、
こいつを引き取って煮るなり焼くなり好きにしてくれ、と頼みました。
申し出は受け入れられ、ヴォアザン8は他の2機と一緒に博物館に運ばれました。
長らく保管されてきた機体は1989年から1991年に復元され、博物館の
第一次世界大戦関係のギャラリーに展示されました。
このシリアル番号4640は、爆撃機として特別に設計された現存する最も古い航空機です。
1916年2月に製造されたときは、内部爆弾ラック、コックピットライト、
着陸灯の設備を備えた夜間爆撃機として装備されていました。
フランスの爆撃戦隊VB 109のマーキングで描かれ、
生産された1,100のタイプ8の唯一の生き残りです。
■ 空の戦争に訪れたダイバーシティ「民族多様性」
米国は激しい社会的および政治的激動の時期を経て戦争に参加しました。
南部の田舎へのアフリカ系アメリカ人の移住と、南部と東部の
ヨーロッパ移民の波は、北部の工業都市の人口だけでなく、
確立されていた政治秩序を変えていきました。
一部の政策立案者は、これらの変化に一種の脅威を感じ、
「民族の多様性と階級の分裂が米国の戦争動員を妨げる」
と主張しましたが、実際には、アメリカへの参戦に伴い愛国心が高まり、
それらのうねりは基本的に階級、民族、人種の境界を越えていったのです。
第一次世界大戦は、アメリカ社会の人種差別を消し去ることまでは
決して(そして到底)できませんでしたが、結果的にその愛国心が
あらゆる背景の人々を戦争協力と参加へに駆り立てることになりました。
多くのアメリカ人は、特に彼らを飛行士として「空中に送り出す」ことで
連合国の大義に大いに貢献できると考えたのでした。
ジョージ・オーガスタス・ヴォーン二世
George Augustus Vaughn Jr.1897-1989
当ブログでこの人を紹介するのは二度目です。
以前、初期の戦闘機パイロットは名門校出身率が異常に高い、
ということを書いたことがあるのですが、
わたしだけがそう感じていたわけではなく、スミソニアンの説明にも
「アメリカが戦争に突入する前、同盟国のために航空に志願した男性たちは、
アメリカ北東部の名門校出身が不自然なくらい多かったのでした」
と書いてありました。
このジョージ・オーガスタス・ヴォーン二世も、アイビーリーグの雄、
名門プリンストン大学を卒業し、1917年陸軍航空隊に入隊しました。
ちなみにイギリスにわたってから、彼はオックスフォード卒のパイロットと一緒に
飛行訓練を受けています。
イギリスでも当時の航空にはエリート層が多かったということです。
これは、当時の知識青年たちが、新しい航空という科学に目を開かれると同時に
ノブリスオブリージュとしてその危険で愛国的な任務を選んだからと考えられます。
しかも、彼はプリンストン在学中に飛行機の操縦法を
カーティス・ジェニー複葉機を使って学んでいますから、陸軍は
名門大学の学生に優先的に訓練を行える施設を提供していたのでしょう。
しかし、ヴォーン二世は単なるアイビーリーグ卒のおぼっちゃまではなく、
第84飛行隊で13機を撃墜しエースになっています。
彼が撃墜したドイツ人パイロットの1人に、21勝のエースである
フリードリヒT.ノルテニウス 大尉もいました。
そしてこちらは"パイオニア"代表です。
エリート大学のぼっちゃまがいるかと思えば、下層とされていた
アフリカ系もいたのが、当時のアメリカ軍航空隊でした。
ユージン・ジャック・バラード
Eugene Jacques Bullard1895-1961
は粘り強さ、スキル、そして運の並外れた組み合わせを持ち合わせた、
アメリカ航空史上初めての戦闘機パイロットでした。
この人のことも当ブログでは「タスキーギ・エアメン」の項で紹介済みです。
バラード
当時アメリカでは黒人に対するリンチが日常的に行われていました。
ある時バラードは、父親が暴徒に殺すと脅迫される事件に巻き込まれたため、
1911年にアメリカから家族を伴ってフランスに密航逃亡しました。
そして戦争が始まると、彼はフランス外人部隊に入隊し、
その後正規のフランス陸軍歩兵部隊に移送されることになりました。
外人部隊は1915年、多くの犠牲者を出していますが、彼はそこで2度負傷し、
クロワ・ド・ゲール勲章を授与されています。
まず以前ここで話したこともあるベルダン攻防戦で重傷を負い、回復後、
身体障害者であると認定されたにもかかわらず、銃手に志願します。
その後パイロットのトレーニングを申請し、訓練終了後、あの
ラファイエット飛行隊に編入され、爆撃偵察など20以上の任務を行いました。
一度はドイツ機を撃墜したこともあるようですが、未確認とされています。
戦争が終わるとラファイエット航空隊はそのままの形で
アメリカ陸軍の航空サービスにスライドすることになりましたが、
アメリカ国内で黒人は航空機の操縦をすることはまだ禁じられていました。
戦後の彼は、決して戦中の功績を尊重されることはなく、むしろ辛酸を舐めたようです。
同じラファイエット飛行隊を描いた映画「フライボーイズ」で、黒人青年スキナーが
「アメリカより自分を人間として扱ってくれるフランスに尽くしたい」
と言っていましたが、これはバラードの心情そのものでもあったかもしれません。
第一次世界大戦時に発行された公債「victory liberty loan」のポスターです。
「アメリカ人みんなで」とか「皆アメリカ人!」というロゴが踊っていますが、
注意していただきたいのがここに書かれている名前です。
何系であるかは当ブログ調べです。
デュボワ→フランス系
スミス→イギリス、スコットランド系
オブライエン→アイルランド系
チェスカ→ボヘミア系
ハウケ→ドイツ系
パッパンドリコポロウス→ギリシャ系
アンドラッシ→ハンガリー系
ヴィロット→南イタリア系
レヴィ→ユダヤ系
トゥロヴィッチ→ユーゴスラヴィア、ウクライナ系
コワルスキ→ポーランド系
クリツァネヴィッツ→ロシア系
クヌッソン→スカンジナビア系
ゴンザレス→ヒスパニック系
有名なポスターですが、これらの人物を個人的に特定するのは
非常に難しいことのように思われます。
これだけ多様性を持った人々が一つの目的=戦争に向かって
一致団結していくのがアメリカである、ということを表しています。
そのアメリカの理想を絵に書いたようなイタリア系アメリカ人飛行士、
フィオレッロ・ヘンリー・ラ・グァルディア(Fiorello Henry La Guarudia)。
イタリア移民の彼はアリゾナ、ニューヨーク、ヨーロッパで幼少期を過ごし、
自力でロースクールに入学し、1916年には下院議員に選出されています。
その後、飛行機の操縦を学び、1917年、ラ・グァルディアは陸軍航空隊に入隊。
その飛行士としての経験、政治的立場、そしてイタリア語が堪能なため、
ヨーロッパではイタリアの航空訓練学校の司令官に任命されました。
彼のご指導ご鞭撻のもと、406名のアメリカ人がフォッジアで訓練を終了し、
イタリア軍の戦略爆撃隊に参入しました。
ラ・グァルディアの部隊はイタリア人設計技師で航空会社オーナーだった
ジャンニ・キャプロニが設計したキャプロニ爆撃機を使用していました。
写真で右側に立ってにやけている伊達男がキャプロニです。
しかし、水を差すようですが彼が成功したのは、
彼が肌の色が白いヨーロッパ系の出自だったからです。
アメリカの旗のもとにドイツ兵に立ち向かっていくのは
肌の色の濃いアフリカ系アメリカ人です。
ひげをはやしてビール腹の比較的爺様ばかりのドイツ軍を
どうやら無茶苦茶にやっつけているようですが、左には
「カラード・メン
前線に我々の旗を立てた最初のアメリカ人たち」
と書いてあります。
これも有名なミリタリーポスターのようですね。
天上からこれを見守るリンカーンが
「自由(リバティとフリーダム)は
決して与えられるものではない」
と呟いております。
アメリカ人はフリーダムという言葉が好きですが、それは
自分の手で、血を流して勝ち取った自由という意味でもあります。
ダメ押しとしてポスター下部には
「フリーダムの真の息子たち」
とアメリカのために戦うアフリカ系を称えているのですが、
これは裏を返せば、黒人として生まれたからには
血を流すことで初めてアメリカ人として認められるという意味でもあります。
しかし今ふと思ったんですが、こういう考え方がDNAに組み込まれている
アメリカ人全般にとって、血を流さず自国をアメリカに守らせようとしている
(ように見える)日本というのは、いうならば「卑怯者の集まり」であり、
したがって真の自由を勝ち得ていない、ということになるんだろうなあ。
まあ、そういう国になったのは外でもないアメリカさんのせいなんですがね。
それはともかく、スミソニアンの歴史家の、このポスターに対する
皮肉な解説は以下の通り。
満たされなかった期待
多くのアフリカ系アメリカ人が軍サービスに志願しました。
しかし、この募集ポスターの画像とは対照的に、
アメリカの遠征軍と一緒に戦闘した黒人部隊はほとんどありませんでした。
黒人兵士がフランス軍の指揮下で歩兵として戦った一方で、
米軍はアフリカ系アメリカ人を港湾労働者や人足、その他
雑用労働者としてサービスするようにと要求していたからです。
海兵隊は黒人は決して入隊させませんでしたし、陸軍は
アメリカ軍の航空隊から当初彼らを除外していました。
「セグレゲート・ユニット」つまり有色人種だけ分離された部隊で
彼らが民主主義の原則のために戦っていたという現実は、
アメリカ社会における理想主義との間の隔たりを強調していました。
続く。