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リバティ・エンジン 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の第一次世界大戦「ウォーバード」ギャラリーは、
当時の参戦各国のエースやアメリカの人種的偏見の歪みなど、
じつに多角的な展示が続いていて、もし時間があって、端から全部
順番に観ていったら、誰でもちょっとした物知りになれそうです。

第一次世界大戦の際に制作された有名な
アンクル・サム(U.Sでアメリカの擬人化)が

「陸軍に君が欲しい!」

と指差ししているリクルートポスターが映り込んだケースの中には、

デイトン・ライト Dayton Wright
デハビランド  De havilnad DH-4
”リバティ・プレーン Liberty Plane"

の16分の1スケールの模型と、

アメリカ陸軍第96航空飛行隊

の部隊徽章が展示されています。
実際の機体はNASMコレクションにありますが、わたしが行ったときには
本体は展示されておらず、この模型だけしかありませんでした。

NASMが所有しているデハビランドDH-4は実戦経験はありませんが、
アメリカで最初の爆撃機の試験機であり、第一次世界大戦で
アメリカ陸軍航空部隊にサービスを提供する唯一のアメリカ製航空機でした。

 

1917年4月6日、アメリカが第一次世界大戦にに参加したとき、
今では信じられないことですが、米航空部隊は
戦闘が可能な航空機をほとんど所有していませんでした。

そこで即戦力となる航空兵器を最短の時間で製造できるように、
以前もお話ししたことがある実業家出身のR・ボリング大佐の指揮の下、
アメリカで航空機の製造を推進する委員会が設立され、
フランスのスパッドXIII、イタリアのカプローニ爆撃機、イギリスのSE-5、
ブリストルファイター、DH-4など、ヨーロッパの航空機などが検討されました。

DH-4が選ばれた理由は、比較的単純な構造と大量生産への適応性の高さです。
また、今日本題となるアメリカ製のリバティV-12エンジンにも適していました。

それでも当時、米国での大量生産を行うには、
元の英国での設計からの大幅な技術変更が必要だったのです。

 

そこで生産が始まったのですが、アメリカで作られたのDH-4には
いくつかの重大な問題がありました。

まず、基本的な設計ミス。
なぜかパイロットと偵察員の席のあいだに大きな燃料タンクがあって、
乗員間のコンタクトを困難にするだけでなく、墜落時に大変危険でした。

リバティエンジンも最初は心配の種でしたが、そちらは問題解決後、
最高速度は当時のほとんどの戦闘機の速度に匹敵するか、
それを超えることができています。

完成後、それは

「リバティ・プレーン(自由の飛行機)」

と呼ばれました。

3つの米国の製造業者が製造を請負いましたが、最大の生産者は、3,106機を製造した
オハイオ州デイトンの(あ、この間行った国立航空博物館のあるところだ)
デイトン・ライト・エアプレインカンパニーです。

DH-4は4か月未満しか戦闘に参加しませんでしたが、その価値は十分証明されました。
第一次世界大戦中の6つの名誉勲章のうち、4つはDH-4のパイロットに与えられています。

そのうち二つは第50航空飛行隊のハロルド・ゲットラー中尉と、

偵察員のアーウィン・ブレックリー中尉が死後受賞しています。

その状況を説明しておくと、二人の乗ったリバティ・プレーンは、
1918年10月8日、敵地上空を繰り返し飛行し、戦闘でで孤立していた第77師団、
通称「失われた大隊」の生存者に物資を届けるという任務の途中、
ドイツ軍の銃撃を受けて両名とも戦死したというものです。

飛行中パイロットのゲットラー中尉がドイツ軍の機銃に撃たれて即死し、
ブレックリー中尉は後部座席の補助装置を使って操縦しようとしましたが、
ゲットラー中尉の体が前に倒れ、操縦桿を押す形になって急降下し、
機体はその後地面に激突したのでした。

これなども、偵察員が操縦席にすぐに乗り移ることができれば
少なくともブレックリー中尉は死なずにすんだのではなかったでしょうか。
つまり、機体の欠陥のために二人は亡くなったことになります。

ブレックリー中尉は機体から投げ出され、発見された直後は
息がありましたが、車で病院に運ばれる途中で亡くなりました。

彼らが命を引き換えにして行った任務は、アメリカによる
初めて成功した戦闘空輸作戦となりました。

DH-4は戦後も汎用性を発揮し長年にわたって任務を続けました。

1918年に航空便が開始されたときにデリバリー用にとなり、
フロントシート(かつての偵察員の席)の部分に郵便物を乗せて飛びました。

丈夫な機体はまた森林火災パトロール航空機として、輸送機、空中救急車、
農薬散布機として使用される例もありました。

NASMコレクションのDH-4は、アメリカ製のプロトタイプで、
引退するまで2,600回以上のフライトテストで使用されました。

1918年5月13日には、オービル・ライトがこのDHに乗り、
ライトモデルBのテストパイロットとして最後の飛行を行っています。

そしてミサイルを持つ赤い悪魔のマークですが、
やはりアメリカ遠征隊としてヨーロッパで展開した、
戦術爆撃隊、第96飛行隊のものです。

80名の大卒、中退者、ボランティア、エリートグループで構成され、
エンブレムのデザインもグラフィックアーティストだった隊員が
赤い悪魔をモチーフに考案したものです。

オリジナルデザインは悪魔が自分の鼻を撫でているもの。

彼らの試用機はブレゲ Bréguet 14爆撃機でした。

総出撃数1149回、戦闘ミッション86回、交戦22回で
死亡者6名、負傷者10名、行方不明者30名、
失われた航空機17機。

部隊の半数以上が死傷するという壮絶な戦いにおいて、
赤い悪魔たちは撃墜14機、撃破14機という戦果をあげています。

「バルブ-イン-ヘッドモーターの鳴る音で、
フンの血生臭い仕事が止まる」

この禍々しいポスター、なんだと思います?

東からやってくることから、「フン族」がドイツ空軍を意味するというのは
以前このブログでお話ししたことがありますね。

「バルブインヘッドモーター」については、当方エンジン関係に滅法疎いので
自信はないのですがおそらく内燃エンジンのことではないだろうかと思うわけです。

つまり、このエンジンが稼働すればドイツ軍を止めることができると。

地面を血塗れで走りながら逃げているのはフン族、じゃなくてドイツ兵。
頭上の敵機は連合国軍機です。

さらにもう一段下にこう書いてあります。

「誰もが知っている バルブインヘッド、それはビュイックのこと」

ビュイックって、あの車のビュイックでしょうか。
つまりこれ、ビュイックの広告なの?

さらにこのポスターの上には、アメリカ製造業協会議長の言葉として、

「ベルリンへの道は空を通っている。
空飛ぶ鷲がこの戦争を終わらせるのだ!」

とあります。
空飛ぶ鷲、つまり軍用機の製造が終戦への道である、
だから頑張って飛行機を作りましょう、と言いたいわけですね。

 

繰り返しますが、アメリカが参戦したとき、国内には
たった50の時代遅れの軍用機があっただけで、
航空業界は正直未熟といっていい現状だったため、
議会は航空機製造のための資金の大幅な増加を充当しました。

となると製造業界は海外への航空サービスの展開に大きな期待をかけます。

そして、アメリカで当時かなりの進歩を遂げていた
自動車産業の大量生産のノウハウを、
航空機や航空機エンジンの製造にそのまま応用することになったのです。

というわけで、製造業界は大いに張り切りました。

彼らは自国の需要だけでなく同盟国のニーズに対応できるくらい、
この「フィーバー状態」で生産が増えることをを熱く期待していたのです。

ここには、リバティ・プレーンが搭載していたエンジン、

リバティエンジンL-8 第一号

が展示してあります。
工場の中という設定の写真のパネルには製造中の車が置かれています。

リバティエンジンは、第一次世界大戦中の航空技術において
アメリカの為した最も重要な貢献だったといえるかもしれません。

設計はパッカード社のジェシー・G・ビンセントとホール・スコット社の
エルバート・J・ホールが1917年、米国政府のために共同で行いました。

4気筒、6気筒、8気筒、および12気筒バージョンの標準設計で、
米国の戦闘機に装備するために迅速な大量生産が可能です。

可能な限り短い時間でエンジンを稼働させるために、
ホールスコットとパッカードの両方の機能を備えた
実績のあるコンポーネントのみ採用た結果彼らは成功し、
最初の8気筒エンジンが陸軍に納入されました。

ここにあるリバティ L-8 は、L-12エンジンのプロトタイプです。
その後L17の15個のプロトタイプは、ビュイック 、 フォード 、 リンカーン 、
マーモン 、 パッカードなどの複数の自動車会社によって製造されました。

ここにあるエンジンは史上第1号生産型となります。

唐突に現れた乗馬ブーツとカウボーイハット。
部隊の記章は、まさに荒馬に乗るカウボーイを表しており、
じゃじゃ馬(飛行機)を乗りこなすカウボーイ(アメリカ人)
ということで、第88航空部隊のエンブレムです。

88th Aero Squadron.jpg

第88航空飛行隊は第一次世界大戦中に西部戦線で戦った航空部隊で、
偵察飛行隊としてフランスの西部戦線で活動し、
敵軍団を近距離から戦術的に偵察し、情報を収集しました。

部隊使用機は、

ソッピース 1½ ストラッター単座爆撃機、

ドランドAR 1および2、

サルムソン2A2

など。
西部戦線には1918年5月24日から11月11日まで参加し、

出撃:1,028回
戦闘ミッション:557回
敵との交戦:13回

戦死:パイロット3名、偵察員3
負傷:パイロット1名、偵察員6名
未帰還:偵察員3名(POW)

喪失機:46機

撃墜:4機
撃破:4 機

という実績を挙げています。

ウィリアム・”ビリー”・ミッチェル将軍 
Gen. William"Billy" Mitchell 1879-1936

ウィリアム・ミッチェルで検索すると、この人より先に
パックマンですごいスコアを出したゲーマーの名前が出てきます(笑)

ミッチェルといえばB-25はまさにこの人の名前が付けられています。

軍艦と違い陸軍機にはあまり人名が付けられたことがないのですが、
それだけこの人が陸軍航空で功績があったと思われていたのでしょう。

ところでさきほどの乗馬ブーツと帽子はミッチェル着用のもので、
この乗馬好きというのが彼の作戦立案に影?を落としていたようです。
というのは、ミッチェルは彼の部下の航空隊飛行士たちを、

「独立した奇兵隊」

と称し、さらに航空戦術立案においても、

「爆撃、追跡、独立した騎兵がそれぞれの任務を請け負ったように、
航空隊もまた独立した任務を行うべきである」

つまり南北戦争で使用された機動戦の経験に基づき、ミッチェルは
飛行機は馬に代わる新技術であるという考えに立っていたのです。

いつかミッチェルについては取り上げるつもりですが、
陸軍航空のパイオニアのこの意見については、当時の若い将校なども、
飛行機と馬は違うんだよなー、オヤジわかってねーなー、
くらいのことは内心考えていたかもしれません。

スミソニアンもその辺は辛辣で、

「ミッチェルは、しかし、自分が期待する作戦通りに作戦が運ぶには
航空機には限界があるということを認めるのに失敗しました」

と評しています。

カーティス Curtiss HS 2L フライングボート

今回初めて海軍機が登場です。

カーチスHSは、第一次世界大戦中に アメリカ海軍のために建造された
単発エンジンの巡視飛行艇で、1917年から1919年にかけて多数が建造され、
フランスの基地から対潜哨戒を行うために使用されました。

1928年まで米国海軍で使用され、その後は民間で使用されています。

HS-1Lは1918年の初めに就役し始め、米国の東部海岸にある
多数の海軍航空基地とパナマ運河地帯から対潜哨戒隊を飛行させていました。

実はこの飛行機、

ドイツのUボートを発見し、これに航空機攻撃を行った

唯一の航空機でもあります。
1918年7月21日、マサチューセッツ州チャタムから飛んだ2台のHS-1Lが、
アメリカ海域でUボートを発見し攻撃を試みたのですが、
投下した爆弾は爆発せず、Uボートには逃げられています。

 

終戦後、ヨーロッパの米海軍航空サービスは大幅に縮小し、
多くの海軍航空基地が閉鎖されました。
その後かなりの数のHSボートは、エンジンなしで200〜500ドルで売却されました。

 

 

続く。


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