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ベルリンの壁〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

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今日11月10日はベルリンの壁が崩壊して41年目だそうで、めでたいことです。
そこで、SSMMにあった展示をご紹介しながら、
ベルリンの壁とその崩壊についてなんとなく語ってみたいと思います。

その展示というのは、なんと。

「よろしかったらお好きなようにお触りください」

と記されたベルリンの壁(部分)でした。

 

冷戦下で東西陣営に分裂していたドイツですが、人口の流出を阻止するため、
1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、
西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、そしてできたのがベルリンの壁です。

東西冷戦の象徴であった壁は、1989年11月9日、一人の東ドイツ政府の報道局長が、
勘違いして

「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」

と発表したことからあっという間に崩壊してしまいました。

ちなみにこの「勘違い発言」が午後6時、人々が検問署に殺到し、
どこかの誰かが壁を壊し出したのは日付が変わってすぐのことです。

壁崩壊については一度ここでも語ったことがありますし、
皆様もご存知のことと思いますが、ここの説明を一応翻訳しながら進めます。

■なぜベルリンの壁ができたのか

 

第二次世界大戦が終了したとき、戦前のドイツに残っていたものは、
四つの占領地域に分割され、それぞれが連合国である
アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソ連によって統治されていました。

ドイツの位置

こういうことですね。
わたしが昨年訪れたザルツブルグ もアメリカに占領されていて、
その期間にあの「サウンド・オブ・サイレンス」を
ハリウッドが映画化するという流れが作られていったということも
ここでお話しした通りです。

そこで、ソ連地域占領区の中にあるベルリンをご覧ください。

首都ベルリンはベルリンだけで同じように四分割され、
同じ4カ国に統治したわけですが、その際、連合国は
ドイツの「非ソビエトゾーン」を統合しました。

Occupied Berlin.svg

これはどういうことかといいますと、ソ連地域の赤と別に、
米英仏三ヶ国の「西側諸国」の地域は一つに統合されたということです。

統治が始まって2年以内に、ソビエト連邦とその他の統治国の間に
政治的軋轢が高まっていったため、米英仏はこの統合を行いました。

ここに「ソ連対西側諸国」、東西冷戦の構図が目に見える形で
はっきりと誕生したのでした。

1949年、5月に西ドイツが、5ヶ月遅れて東ドイツが独立します。
しかし、分割統治されたまま独立したので、二つの思想の違う国が誕生したのでした。

東から西への何年にもわたる移民と亡命の後、
ドイツ国内国境は閉鎖され、有刺鉄線のフェンスが建設されました。

壁ができる1961年までは、ベルリンでの東西の往来は自由だったため、
東から西に人々がどんどん流出してしまいました。

なぜかというと、皆がソ連の共産主義を嫌ったからなんですね。

共産主義というのは、そもそも人民の意見を汲み上げる思想ではないので、
それだけ嫌われているのに、その体制に何か悪いところがあるのかも、などと
自省をするようなことはせず、それを抑えるために
いきなり極端な弾圧的行動を取ったりするわけです。

この場合は、国境閉鎖でした。

このことによってベルリンは、たまたまソビエトの支配下に置かれた
東ドイツの人々が、必死になってそこから逃げるための「磁石」と化しました。
そして、大国アメリカとソビエト連邦の間の緊張の引火点となったのです。

「磁石」(magnet)とは上手いこと言うな、と思ったのですが、
それはともかく、「磁石」となったベルリンから西に逃れるには、
張り巡らされた鉄条網と2mの壁を突破しなくてはならず、
そこではいくつもの悲劇が起こりました。

■ ベルリンの壁の犠牲者たち

2010-03-08-berlin-mauer-by-RalfR-04.jpg

最初に犠牲になったのは、ギュンター・リトフィン(Günter Litfin)という
仕立て屋でした。

1961年夏、リトフィンは西ベルリンに引越しするための新居を用意しており、
壁の建設が始まる前日の深夜、新居の整理をしてから東に帰りました。

ベルリンの壁の建設は翌日早朝に始まり、同時に東西のベルリン往来ができなくなり、
リトフィンは用意していた新居も、そして職も瞬時にして失ったのです。

かれは西ベルリンへの移住を断念せず、国境となる運河に飛び込み、
東側の警官に射殺されて亡くなりました。

リトフィンを射撃した警官2名は、脱出を食い止めた功労者として
東ドイツ政府から表彰され、記念品として時計を受け取り、200マルクを得ました。

この2名はドイツ再統一後に殺人罪で起訴されて有罪となりましたが、
執行猶予つきの判決だったため刑務所への収監は行われていません。

ちなみにベルリンの壁での死亡者は、ポツダム歴史研究センターの調査によれば125人、
2009年8月のベルリンの壁記念館などの調査によれば136人とされますが、
この数はどこまでを犠牲者とするかで変わってきます。

たとえば、この死者数には逃亡者や逃亡幇助者などの反撃によって死亡した
国境警備兵8人も含まれているというのです。

逃亡者の射殺を命じられて任務を行った警備兵たちのなかには、
阻止しなければ厳罰を受けるにもかかわらず、明らかに殺人をためらい、
わざと狙いを外したとされる者もいたといいますから、
広い意味で彼らもまた「犠牲者」であったということもできましょう。

Idasiekmannbz.jpg

イーダ・ジークマンというこの59歳の女性は、
壁が建設されてすぐ、西側に脱出しようとして死亡しました。

彼女は東西ベルリンの間にあるビルの4階から西側に飛び降りようとし、
下で消防士がジャンプシートを広げようとしていたのに、気がはやったのか、
それが適切に広がる前にジャンプし、最初の犠牲者となったのです。

Peter Fechter.jpg

わずか18歳で命を失った人もいます。

ベルリンの壁建設の翌年、煉瓦職人だったペーター・フェヒターは、
壁の建設によって生き別れとなってしまった姉妹に会うため脱出を決意。

友人と共に2mの壁をよじ登っているところを警備兵に銃撃を受け、
背中に銃弾を受けたまま壁の東側の有刺鉄線に落ちてしまいます。

この騒ぎに群衆が東ベルリン側と西ベルリン側の両方から集まってきて、
有刺鉄線に絡まったフィヒターが弱っていくのを手の下しようもなく、
アメリカ合衆国の兵士やジャーナリストを含む群衆、東側の警備兵が
彼が死んでいくのを全員で見ているという異常な事態となりました。

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フィヒターが事切れてから遺体を運ぶ東側の兵士。
彼には西側の人々から罵声が浴びせられたといいます。

フィヒターを撃った警備兵たちは統一後裁判を受け、
やはり執行猶予付きの有罪判決がくだされています。

Window chrisgueffroy.jpg

壁の崩壊するわずか9ヶ月前、当時20歳のクリス・ギュフロイが射撃され、
彼は壁を越えようとして射殺された最後の人物になりました。

彼はスポーツが得意でしたが、東ドイツで「スポーツエリート」になるには
その後国家人民軍の将校になることを意味していたため、
それを拒否した彼はスポーツの道を閉ざされ、ウェイターの職業訓練を受けていました。

彼の友人で西側への脱出に成功した者がいたので、彼もまた
西側でレストランを開きたいと考えるようになったのでした。

1980年代にもなると、出国申請を行えば西に行けるということになっていましたが、
あくまでも特殊例で、うかつに申請などしようものなら、
当局からの差別や嫌がらせを受け、シュタージの監視対象になったので、
彼もまた申請を行おうとは全く考えていませんでした。

彼はある日、国境警備兵の友人から

「国境での発砲命令が失効している」

という情報を聞き、脱出を決心するのですが、これは誤りで、
彼が計画を実行したときにはまだ発砲命令は生きていました。

彼も友人とともに壁を越えようとし、発見されて友人は足を、
ギュフロイは至至近距離から胸を撃ち抜かれて死亡しました。

彼を撃った警備兵は徴兵によって任務についていた電気工の男でした。

 

この事件は、世界中に報道されて東ドイツはその残虐性を批判されました。

当時の東ドイツは経済が停滞しており、西側からの借款に依存していたため、
この殺人について西側からの非難の声が高まったことは政権に打撃を与えました。

当時の東ドイツ首相ホーネッカーは東ドイツの国際的な立場の失墜を恐れ、
発砲命令の撤廃に初めて許可をすることになります。

 

彼を射殺した26歳の電気工始め、27歳と26歳の電気工、
26歳の機械工ら四人はいずれも徴兵によって軍務に就いていました。

彼らは事件直後功労賞と報奨金を与えられていましたが、壁崩壊後、
殺人罪で裁かれることになりました。
被告席に立った4名は怯えきっていて、誰とも視線を合わさず、
何度も涙を流していたということです。

■ 日本分割統治計画

統一後に行われたこれらの裁判は、戦勝国が事後法で敗戦国を裁いた
日本での極東軍事裁判、ドイツでニュールンベルグ裁判を思わせます。

ドイツはニュールンベルグで痛い目にあっていたはずなのに、
壁崩壊後に同じことを同国民に対して行ったということになります。


ところで、分割されたドイツについて書き連ねていると思わずにいられないのは、
戦後日本でもドイツのような分割統治が行われるかもしれなかったという話です。

 

アメリカは日本が降伏する前から、終戦後の日本をどう統治するかについて
すでに計画を立てていたことは有名な話ですが、それによると
日本は分割統治されるものとして、具体的には

ソ連:北海道、東北地方

アメリカ:本州中央(関東、信越、東海、北陸、近畿)

中華民国:四国

イギリス:西日本(中国、九州)

となっていました。
ちなみにイギリス連邦による中国地方と四国の占領は実現しています。

子供の頃、わたしの住んでいた近畿地方はアメリカ領になるかもしれなかった、
と聞いたとき、

「(もしそうなっていたとしても)アメリカで良かったー、ソ連よりずっとまともだから」

などと姉妹で言い合った思い出があります。

このアホ発言については子供の言うことなので大目に見ていただくとしても、
これは決して実現不能な架空の話ではなく、もし北海道、東北が
ソ連占領地域に置かれることになっていたら、人々には共産主義教育が施され、
たとえばギュフロイを撃ち殺した警備兵がのちに告白したように、

「幼稚園のころから何をなすべきかを教えられた。
幼稚園のころから西側に対する非難を聞かされ、
それは学校へ通うようになっても、軍隊に入っても同じだった。
そのうちに、西側のやり方はつねに正しくないと思うようになった。
東側の社会主義、もっと正確に言えば共産主義こそ未来なのだ」

というような「東日本人」になっていたかもしれないことを考えると、
(西ドイツの運命と同じになったと思われる)アメリカ領だったらマシ、
という感想はあながち大外れではなかったことになります。


そしてこの占領計画でもっと背筋が凍るのは、

東京は四カ国に共同占領される

となっていたことでしょう。

万が一そうなっていれば、アメリカが選択した如く、日本統治を潤滑に行うために
天皇を残すという必要性もなくなり、したがってその時には中国とソ連の要求により、
天皇陛下は処刑されるという最悪の可能性は大変高かったと思われます。

さらに、ドイツ分割の4カ国は西東が3対1でしたが、東京は

英仏中華民国 対 ソ連

という絶望しかない対立ののち分断が起こり、それこそ
皇居のお堀沿いに「東京の壁」ができていたかもしれないのです。

東京がそうならなかったのは、ベルリンがすでにあったからであり、
四分割統治、とくにソ連への割譲が実現しなかったのは、トルーマンの意向で
マッカーサーがこれをはねつけたからであり、ソ連は日本を諦める代わりに
ブルガリアとルーマニアを差し出されて?納得したからといわれています。

 

もうひとつ、蛇足ですが、この歴史に埋もれていた日本分割計画を発掘したのは、
広島大学の助教授だったあの!五百旗頭真大先生だったそうです。

■ 一山いくらの「ベルリンの壁の石」

さて、冒頭のこの不可思議なオブジェですが、これもまた
ベルリンの壁みやげ?というようなものです。

ベルリンの壁を取り巻いていた鉄条網に壁の石のかけら。

石は触り放題なのに、こちらは「触らないように」。
先端で怪我するから、とアメリカには珍しく丁寧な説明です。

Y字型に組み合わされた鉄の棒は、かつて鉄条網を張るために
西側と東側に向けて立っていた実物だと思われます。

左が東ドイツ、右が西ドイツ、そして真ん中にあったのがベルリンの壁。


わたしは、ここでこれらの「ベルリンの壁グッズ」をみたとき、
壁崩壊の時につるはしをふるって壁を粉砕している人々の映像に

「これ絶対壁のかけら拾って売る人出てくるよね」

というツッコミが入っていたのを思い出しました。

これ(石のかけらを売って)で金儲けしようとする人も必ずいるだろう、
というのは、おそらく世界中の人がことの重大さはさておいて、
あの壁壊しシーンを見ながら心に浮かべたことだったのではないでしょうか。

そして、調べてみると案の定・・・。

ヤフオク ベルリンの壁で検索

これによると、土産用にアクリルガラスに閉じ込めた石の置物が
3,980円というお値段で大量にオークションに出されています。

最近、ドイツのトランクメーカー、リモワの精巧なニセモノが
本物としてネットショップで出回っていると言うことを知り、
我が家にあるリモワを全てあらためてID登録してみて、本物かどうか確認し、
盛り上がったばかりなので、どうしてもそう言う目で見てしまうのですが、
これ、そもそも本当にベルリンの壁だったかどうかもわからないよね?


仮にこれらが本物だったとしても日本人が買う意味が果たしてあるのか?

 


さて、最後にベルリンの壁関係のメディアネタを2件紹介しておきます。

■ ウサギ目線

TRAILER OF RABBIT A LA BERLIN - OSCAR NOMINATION 2010

「 (前略)そんなある日、野菜畑に鉄条網が張られ、
ブロックが積み上げられ、壁が建てられていく。
人びとが争ったり、逃げたり、叫んだりする数日間が過ぎ、そして突然に静寂が訪れた。
恐る恐る穴から出てきた野うさぎたちは、自分たちが
2つの壁の間に挟まれた細長い土地に取り残されていることを知る。

二重の壁の内側はうさぎたちにとって外敵のいない楽園となり、大繁殖。
望むものを手に入れ、周囲の世界への興味をなくし、次第に無気力になっていった。
(略)ある日、突如としてうさぎたちの目の前で壁が次々と壊されていく。
好奇心を取り戻したうさぎたちは、壁を越えて西側へなだれ込む。
しかし、行動の自由を得た代償は小さくなかった。

彼らを待ち受けていたのはさまざまな外敵や困難だったのだ」NHKBSの解説より


■ すきあらばトランプ非難

【現場から、】平成の記憶、「ベルリンの壁」崩壊から30年 今は

ベルリンの壁と不法移民を防ぐ壁を一緒にするな(怒)

それにしてももし民主党政権になったら国境そのものを無くしてしまいかねないですが、
ここの壁だけは作っておいた方がいいんでないか?と他人事ながら思います。

 

 


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