スミソニアン博物館の第一次世界大戦における航空関連展示で、
わたしはアメリカの航空は当時ヨーロッパに立ち遅れていたことを知りました。
そして、それを挽回するために開発した
「リバティ・エンジン Liberty Engine」
が、アメリカの航空製造業の偉大なマイルストーンになったということも。
何事にも初めがあるものですが、ジェット開発においても
先陣を切ったのはイギリスでしたし、アメリカは20世紀前半は
今の姿からは考えられないくらい後追いをしていたということに
改めて驚かされたものです。
■ ドイツの航空機工場 1918年ごろ
さて、リバティエンジン第1号型を当時の自動車工場のパネルと合わせて
展示しているコーナーの隣には、こんな光景が広がっています。
工場で布を点検?している女性、横に立っているのは水兵服を着た男性。
後ろには飛行機の骨組みなどが見えています。
壁に貼られたポスターに注目してみましょう。
「Helft uns fiegen!」
我々が飛ぶのを助けてください=飛行機を作ってください、
そのために民間の方々も協力してください、というわけです。
それにはどうするかというと、
「Zeirhnet die Kriegsanleihe」
はい、ここでも出ました。
戦時ローンを購入してくださいということですね。
1917年に発行されたポスターです。
ちなみに後ろで翼部分を作っている工員さんたちは
ほぼ全員がレンズをガン見しています(笑)
さて、このちょっと不思議な工場風景ですが、こういうわけです。
1918年までに、アメリカの航空機大量生産プログラムの動きを受け、
ドイツは労働者と航空機産業を限界まで拡大し、
前例のない数の航空機の生産に乗り出しました。
そして生産を維持するために抜本的な措置をとることを余儀なくされました。
熟練していない労働者、その多くは女性と子供でしたが、
彼らはドイツ公海艦隊の下士官兵によって補助を受けました。
補助を行うために動員されたその多くは海軍で熟練した機械工だったのです。
なるほど、それで女性工員の横に水兵さんがいるんですね。
何年か前のスミソニアンの写真を見ると、この二人の男女の人形は
もうすこしちゃちな作りで、割と最近リニューアルされたらしいことがわかります。
手にマニュアルか指導書か何かを持ち、仕事中の女性を
「上から目線」で見ている水兵さん、なかなかリアリティがありますね。
ともかく、この方式は生産プロセスに大いに貢献し、
労働力の裾野を増やすことになりました。
ところで、この水兵さんの横にあるエンジンをご覧ください。
エンジンのこの見覚えのあるマーク。
そう、これは、
BMWモデルIII A直列6気筒エンジン
(A19710908000)
なのです。
BMWのマークって第一次世界大戦時からこれだったのか、
と思って調べると、ロゴができたのは1917年10月でした。
この工場風景は1918年ごろの設定なので、
できたばかりのロゴがエンジンにプリントされているわけですね。
エンジン前面には
1875 BMW 3A(型番)
ドイツの航空機エンジンの生産については、ダイムラー・メルセデスベンツ社が
実質独占する状態だったのですが、これは言い方を変えると
他のエンジンの研究開発を阻害したということもできます。
そのため、1916年になって同盟国が新世代の高性能エンジンを導入したとき、
ドイツはダイムラー・ベンツに代わる適切なものを見つけることができませんでした。
そこで、ダイムラー・ベンツの設計者であるマックス・フリッツ(Max Fritz)は、
古いメルセデスと同じテクノロジーを使用する新しいエンジンを提案しました。
しかし、彼のアイデアは退けられたため、フリッツはダイムラー・ベンツを去り、
1年前(1916年)にグスタフ・オットーが立ち上げたばかりの自動車会社、
バイエリッシェ・モトーレン・ウェルケ(BMW)に加わりました。
そこで彼は、提案した通り、初期のダイムラー・ベンツエンジンの
6気筒インライン構成を使ったものを設計しなおしましたが、
これは多くの点でダイムラー・ベンツのものより優れていました。
BMW モデルIIIaの燃料消費量は非常に低く(つまりコスパに優れており)
しかも高地では非常に優れた性能を発揮しました。
これは、気化したキャブレターの設定と高い圧縮比の結果でした。
新しいBMWエンジンはフォッカーD VIIなどの航空機に搭載されました。
ちなみに日本語で「マックス・フリッツ」と検索すると、バイク用の
アパレルメーカーのイメージ写真が大量に出てくるのですが、これは
かつてマックス・フリッツがBMWでバイクを開発したことから
このブランドのデザイナーが彼の名前を使用しているのだと思われます。
ところで水兵さんに指導されているこの女性が何をしているかですが、
どうも布を検品しているように見えます。
後ろにかけられているのは出来上がったものでしょうか。
もしかしたら、これですか?
後ろで作っているのは飛行機の翼の骨組ですから、
翼の表面に貼る布ではないかと思われるのですが・・・。
そういえば、「ブルー・マックス」という映画で、主人公が
自分が撃墜した相手の機体の翼から、番号の書いてある部分を
ナイフでざくっと切り取って、隊長に突き出し、
「撃墜確認お願いします」
と言い放ち、皆がドン引きするシーンがありましたっけ。
あまり考えたことはなかったですが、複葉機の翼って
骨組に布を貼っていたようですね。
この翼もカラフル迷彩ですね。
彼女のような工員が作った翼なのでしょう。
フォッカーFokker D.VII(デー・ズィーブン)
ドイツのフォッカーD.VIIは、第一次世界大戦の最高の戦闘機の1つです。
有名な話では、連合軍から出された戦争を終わらせる休戦協定に、
「すべてのフォッカーD.VII戦闘機を直ちに降伏させること」
という要件が入っていたことで、これはこの戦闘機が
いかに高い評価をされていたかを簡潔に証明しています。
1917年の後半、連合国はSE5とスパッド戦闘機で優位に立っていました。
これに対抗するために、ドイツ政府は航空機メーカーに、
単座戦闘機のプロトタイプ設計を提出するように要請し、
その結果10のメーカーからの31機の飛行機が提出されました、
その中から選ばれたのが1基のロータリーエンジン、そして
1基の直列エンジンの設計で、それはいずれもオランダの航空機会社、
アントニー・フォッカー が提供したものでした。
コンペで優勝したエンジンを設計したのは、フォッカー 社の主任設計者、
ラインハルト・プラッツでした。
プラッツ
プラッツこそはフォッカー戦闘機の背後にある真の創造者だったといわれています。
彼は1916年以降、会社の航空機の基本的な設計のほとんどを行っています。
フォッカー
それではこの伊達男アントニー・フォッカーはというと、彼は
設計技師としてよりもテストパイロットとして天才的な才能を発揮しました。
彼にはいかなる実験機をも難なく繰る天性の勘の良さと、また、
それを成功させるためにどのような改善が必要か知る直感を備えていました。
フォッカーのこの本能的な感覚と、プラッツの革新的な設計を組み合わせることで、
彼らは全ての航空機製造会社にとって手ごわいチームになりえたのです。
しかし、写真を見るだけでもなんとなくわかるのですが、(なんていっちゃいけないか)
フォッカーは基本的にエゴイストで支配的な性格をしており、
そのため、真の革新者としてのプラッツの役割を軽視する傾向にありました。
そして彼は全てのデザインにフォッカーの名前を冠したのはもちろん、
自分の功績を過度に喧伝し独り占めするような人物でした。
しかしそれにもかかわらず、プラッツが紙の上に設計したものは
フォッカーの力なくしては最終的に形にならなかったのも厳然たる事実です。
これは、フォッカーD.VIIの場合に特に当てはまりました。
フォッカーD.VIIプロトタイプ、V.11は、コンペ直前に完成したため、
フォッカーには事前に機体をテストする時間がありませんでした。
そこで有名なドイツのエース、マンフレート・フォン・リヒトホーヘンが
フォッカーの要求に応じてV.11を飛行させました。
このときリヒトホーヘンは、機体に機動性があり、全体的に性能が良いものの、
特に急降下では操縦が難しく、方向が不安定であると評価しています。
そこでこれらの問題を解決するために、フォッカーは、胴体を40 cm長くし、
固定された垂直翼と新しいラダー形状を追加し、エルロンバランスを変更しました。
そこで再びリヒトホーヘンが改良されたV.11を操縦し、機体が扱いやすく、
またデザインも非常にイケているんでないかい?と評価したこともあって、
このコンペではアンソニーフォッカーが最高の成績を収めたのです。
フォッカーは、このコンペでは速度や上昇率などの部分的な能力よりも、
戦闘機としての全体的なパフォーマンスの方が重視されているということを
他のどの競合他社よりもよく理解していたといえるかもしれません。
実はこのコンペに出た他社の航空機は、個々の性能パラメーターでV.11より優れていました。
しかし、審査に受けやすい全体的なパフォーマンスだけでなく、
構造上および生産上の問題解決に関しても、完全な意味で戦闘機の設計としても、
フォッカー を超えるものはなかったということです。
結果、コンペティションで優勝したフォッカーは、400機の製造注文を受けました。
しかし工場がそんなに多くの生産をこなせないという考えから、
フォッカーは偉大なライバルのアルバトロスにライセンス生産を依頼し、
アルバトロスは二つの工場で製造を請け負いました。
ところが、フォッカー工場では製造図面を作成せず、アセンブリスケッチから
直接作業するというようなことをしていたため、アルバトロスはしかたなく?
フォッカーから入手した完成した機体に基づいて独自の図面を作成しました。
このため、そこに独自の建設技術と基準が適用されるようになり、その結果
一見似ているようで、三つの生産工場ごとに互換性のない異なる機体が生まれました。
さらに、アルバトロスによって製造された航空機は、どういうわけだか、一般的に
フォッカーが製造した航空機よりも高品質であると考えられていました。
そのせいなのか、アルバトロスはフォッカーよりも多くの機体を製造しています。
フォッカーD.VIIは1918年4月に最前線の部隊に調達され始めました。
当初、D.VIIは160馬力のメルセデスD.IIIエンジンを搭載していましたが、
先ほど書いたように、最新の連合国の戦闘機に遅れを取ってきたため、
BMW IIIaが装備され、パフォーマンスが劇的に向上することになります。
しかし限られた数しか入手できず、D.VIIFとして知られるBMW搭載モデルは、
ドイツ軍パイロットに渇望されながらも少数しか配備できませんでした。
フォッカーD.VIIが西部戦線に登場したとき、連合軍のパイロットは
最初、アルバトロス戦闘機のような洗練された優雅な機体には程遠い
この無骨なラインを持つ新しい戦闘機を過小評価していました。
しかし、彼らはすぐに認識を改めることになります。
この理由の1つは、連合軍の2人乗り偵察機の保護されていない下面に
機体の下部分から撃ってくるというフォッカー の恐るべき能力でした。
さらにその厚い翼の構造は、飛行機に優れた失速特性を与えました。
機体がほぼ失速した状態から、フルパワーで機首を上げて立ち直ることができ、
この機動を可能にするD.VIIの能力は、戦闘を行う対戦相手の脅威となりました。
D.VIIの翼と胴体は、従来の木材および布を貼ったものとは異なり、
アメリカのカーチスJN-4D「ジェニー」のようなものでした。
支柱とリギングはジェニーの翼と胴体の複雑な内部構造をまとめたものとなり、
対照的に、 D.VIIIのよりシンプルな木材と管状の鋼の内部フレームワークは、
支柱とリギングワイヤーが少なくて済むだけでなく、強度も向上しました。
骨組状態のD.VII。
D.VIIの多くの実験的なバリエーションは大戦最後の数か月に開発され、
主にそれらは異なるエンジンを搭載することになって今いた。
しかし、どれも生産状態にはなりませんでした。
2人乗りバージョンがフォッカーCIに指定されましたが、
ドイツ航空では正式に採用していません。
ところで、アントニー・フォッカー は、終戦時に出身地のオランダに亡命しましたが、
その際、120機のフォッカーD.VII、60機のフォッカーC.Isを
密輸しています。
NASMで展示されているフォッカーD.VIIは、アルバトロスの二つの工場のうち
シュナイデミュールで製造されたものです。
機体の入手経緯は以下のような事情によります。
戦争が終了する2日前の1918年11月9日、
ハインツ・フライヘア・フォン・ボーリウ=マルコネ中尉(フライヘア=男爵)は、
アメリカ軍の第95飛行隊の飛行場にNASMフォッカーD.VIIを着陸させました。
中尉は航空機から降りて処分のため機体に向けて発砲しようとしたのですが、
3人のアメリカ人将校によって取り押さえられ、機体は鹵獲されました。
彼が本当に敵基地をドイツ軍基地だと勘違いして着陸してしまったのか、
それとも、戦争が終わることを悟って降伏したのかは謎です。
(本人は間違えたと言っていたそうですが)
そしてその時鹵獲されたフォッカーD.VIIは戦後米国に持ち込まれ、1920年に
戦争省からスミソニアン協会に供出されました。
1961年に博物館によって完全に復元されたあと、改装を加え、
博物館の新しい第一次世界大戦の記憶となるギャラリーに加えられたというわけです。
ところで、冒頭写真にも挙げたのですが、アルバトロス社の工場で
新しくマウント作業をしているのに立ち会っている将校、
この人が問題の(笑)ハインツ・フォン・ボーリウ=マルコネ男爵中尉です。
騎兵隊将校であった彼は、第10戦闘航空隊立ち上げの際、
なんと、パイロットになる前に部隊に配属されています。
馬に乗れるから飛行機にも乗れるだろうってか?
まあ、この頃はよくあることだったのかもしれません。
工員の後頭部の部分ハゲがリアル・・・ってどこに注目してんだ(笑)
続く。