航空博物館でもあるスミソニアン博物館では、航空の発達を語るにかかせない
戦争と科学技術の発達について、歴史を中立に俯瞰する立場をとっています。
アメリカの国立博物館ではありますが、地方の航空博物館にありがちな
「アメリカ万歳」といったナショナリズムの立場はかなり抑えられており、
こういう立ち位置がつまり「エノラ・ゲイ」事件で退役軍人たちの反感を買ったのか、
とわたしはちょっと考えてしまったのですが、航空の歴史が幕を開けて
ほとんど同時に始まった戦略爆撃についての説明も、なんとこんな人物の、
ある意味、悔恨、懺悔とも取れる言葉を引用して始まっていました。
■戦略爆撃 戦争の新しいかたち
「これ(原子爆弾)は決定的なものだ・・・
おそらく、ゲルニカで始まったかもしれないステップの最終段階であり、
ロンドンへのブリッツ、ハンブルクへのイギリスの爆撃、
東京に対するわたしたちの爆撃、そして広島に至った」
これは、マンハッタン・プロジェクトの責任者であり、原爆の父ともいわれる
核物理学者、ジュリアス・ロバート・オッペンハイマーの言葉です。
しかし、この見解にあえて意を唱えさせていただくならば、歴史的に見て
核時代への道はゲルニカと呼ばれるスペイン内戦の都市爆撃からではなく、
第一次世界大戦中に歴史上初めて
都市が爆撃されたときに始まっていたということができるのです。
戦略爆撃、つまり航空機を使用して敵の都市、産業、民間人を攻撃する戦術は、
それが戦略によって持続的に実行される前でさえ、すでに予見されていました。
そのため、戦争がまだ始まっていない時期、ドイツの飛行船が飛来可能とされていた
ロンドンやパリなどの都市では、空襲に対する恐怖心が民衆の間に自然に広まり、
時としてそれは集団ヒステリック状態を引き起こすまでに至りました。
アメリカでも、以前当ブログで扱った映画の「1941」で語られた
「ロスアンゼルスの戦い」
(戦っていたつもりだったのはロスアンゼルスの人々だけですが)
ではありませんが、ツェッペリン号による攻撃の恐怖は民衆に遍く行き渡り、
おかげで
ニューヨークを飛行するドイツの飛行船を目撃した!
という誤った情報が当時何度も報告されたりしたそうです。
確かに戦争が始まった当初こそ、道徳的、政治的、および技術的な要因により
民間人への攻撃は制限されていましたが、終わらない戦争への絶望と敵への復讐心が、
結局、大部分の戦争勢力を駆り立て、結果的にそれは現実となっていくのです。
たとえばイギリスでは、ドイツ軍による爆撃のあと、市民が政治家たちを動かして
ロンドンにおける地上防衛を改善し、独立した空軍を創設する動機を与えました。
■ ツェッペリン号の不発弾 ロンドン1915年
ツェッペリンの不発爆弾(手前)
開戦当初ツェッペリンが運んだ爆弾は、実戦経験を踏まえず設計されたため、
空気力学的にいっても正確な爆撃を行うことは不可能でした。
「ボウリング・ボール」と呼ばれたこの爆弾は、建物の破壊を目的としており、
投下後焼夷弾によって点火するという仕組みでしたが、かなり不確実なものでした。
その後完成した
P.u.W.爆弾
はドイツの
Prüfanstalt und Werft der Fliegertruppen
プルーファンシュタット・ウント・ヴェルフト・フリーガートルッペン
(テストセクションと航空サービスワークショップ)
によって開発され、「ボウリングボール」型爆弾とは対照的に、
空力的に効率的な設計が加えられ精度も上がりました。
(なぜかフリー素材の写真がないので、検索結果をご覧ください)
しかしその後(1917年9月以降)作戦が夜間爆撃に移行すると、
そもそも闇の中で標的が見えない中、精度などなんの意味もなくなりました。
ちなみにこのボーリング型不発弾が落とされた1915年5月31日は
ツェッペリンが行った初のロンドン空襲となりました。
死者7名、負傷者35名を出し、損害金額は18,596ポンド相当とされます。
その後ロンドンのほか、ロンドン近郊のハリッジ(Harwich)、ラムズゲート、
サウスエンド(2回)と計5回の空襲任務で合計8,360kgの爆弾が投下されました。
その後ロンドン攻撃を行ったツェッペリンは、ブリュッセル爆撃の際
ロイヤルエアフォース爆撃機の落とした爆弾によって格納庫ごと破壊されています。
この時の爆撃機パイロットは、爆撃した格納庫に
「にっくきロンドンの敵」がいたことを知っていたでしょうか。
■ カイザーシュラハト(ルーデンドルフ総力戦)
当ブログでは、スミソニアン博物館の第一次世界大戦航空ギャラリーシリーズで、
大戦初期で最も大規模で凄惨な戦いになったヴェルダン攻防戦について
「血塗られた」という形容詞をつけてお話ししましたが、
スミソニアンでは、大戦後期で最も規模の大きな戦闘となったところの
「ソンムの戦い」
についても触れています。
照明で光ってしまって肝心のところがよく見えませんが、
手前の兵士は撃たれて今まさに斃れるところ、彼の右側にはすでに
撃たれて倒れているらしいドイツ軍兵士の体が写っています。
それにしてもいつも思うのですが、これらの残された写真は、
誰かがその場にいて撮影したものなんですよね。
これを撮った人はその後生きて帰れたのでしょうか。
彼らはドイツ軍の兵士で、現在連合軍の前線を突破しつつあるところ、つまり
1918年、「春の大攻勢」といわれるソンムでの一コマです。
ドイツの対アメリカ航空計画はその生産目標を当初達成しませんでしたが、
「春の大攻勢」が始まるまでに、航空機を大量に備蓄していました。
連合国軍の助っ人としてアメリカ遠征軍がヨーロッパ戦線に到着する前に
これを迎え撃つべく、ドイツは、西部戦線への主要な攻撃である
カイザーシュラハト(皇帝の戦い)
における航空力の強化を計画していました。
カイザーシュラハトは、連合軍からは「ルーデンドルフ総力戦」と呼ばれました。
ルーデンドルフ
作戦名は作戦立案をした参謀次長、エーリヒ・ルーデンドルフの名前からきています。
ルーデンドルフは戦後「総力戦」というタイトルでこの攻撃について
本を著したくらいなので、おそらく会心の作戦だったのかもしれません。
きっと、
「ドイツは負けたが、私の作戦は成功した」
とか最後まで思ってたんだろうな。
カイザーシュラハトは1918年3月21日に始まりました。
ドイツはそれまで攻められなかった敵の防衛ラインを突破することを目標に、
航空戦と地上戦を同時に仕掛けたのです。
折しも現地に霧が立ち込めるという条件に恵まれ、陸上部隊を航空部隊が支援、
ガス弾を含む準備射撃と例のシュトゥーストルッペン特殊部隊による浸透戦術、
これらが相まって、ドイツ軍の初動は成功し、大反撃が開始されました。
そしてドイツ軍がパリまであと90キロ、というところに迫ったため、フランス軍総司令官、
ペタン将軍は最悪の事態を覚悟し、ついにアメリカ軍の出動を要請します。
アメリカは要請を受け入れ、6月1日、海兵旅団を含む第二師団を投入、
ドイツ 第7軍の進撃を阻止することに成功。
米国海兵隊は神話の1ページを飾りました。
アメリカ参戦までになんとか勝敗を決したいというルーデンドルフの野望は潰え、
その後の第二次マルヌ会戦でカイザーシュラハトも終了しました。
しかし、カイザーシュラハトでドイツは当初圧勝というくらい巻き返したのは確かです。
ルーデンドルフの作戦は完璧でしたし、彼が戦後「負けなかった」といったとしても
それはあながち嘘ではありませんでした。
ただ、ドイツはすでに対アメリカ計画の最後の戦力を使い果たしており、
一時の戦略的成功によって全体の戦況を覆すには至りませんでした。
■ ソッピース「スナイプ」
ソッピース 7F1 スナイプ Sopwith Snipe
一般的に「ソッピース」とくれば、ほとんどの人は上の句に対する下の句の如く
「キャメル」という言葉が出てくるでしょうし、ソッピース社にキャメルの後継としての
「スナイプ」という飛行機があったこともご存じないのではないかと思います。
そしてその一般的な認識は、そのまま現場のパイロットの声を反映した評価でもありました。
ここからは、名機キャメルの影で全く評価されなかった(という意味で悲劇の)戦闘機、
ソッピーススナイプについてお話ししましょう。
春の大攻勢に遡ること1年前の1917年の春、イギリスで最も有名な
第一次世界大戦の戦闘機、ソッピース・キャメルがデビューしました。
キャメルの最前線飛行隊への調達が始まった直後に、ソッピースの主任設計者、
ハーバート・スミスが設計した新しい単座戦闘機は、
コクピットからの視認性が向上し、滑らかな操縦性を備え、
初期のソッピースを彷彿とさせるもので、基本性能はキャメルから派生していました。
ほぼ1年の開発期間の後、新しい戦闘機は1918年の春に生産されました。
さて、話は少し巻き戻りますが、1918年初頭までに、RAF(王立空軍)は
4機の新型機を調達しようとしていました。
まず1機目は、
オースティンの三葉機、A.F.T.3オスプレイ。
2機目は
ボールトン・ポール、P3 ボボリンク(コメクイドリ)。
3機目はニューポールBN1、そしてソッピーススナイプの計4機です。
これらはすべてベントレーBR2ロータリーエンジンを搭載することになっていました。
この3機のパフォーマンスはほぼ同等であると判断されましたが、
スナイプは評価が低く、製作は一番最後にされたそうです。
しかも、それまでソッピース・キャメルに乗っていたRAFのパイロットは
キャメルの優れた戦闘機動性を秘めた「トリッキーな」マウントを乗りこなすことで
実績を挙げていたため、スナイプに乗り換えることに消極的でした。
当時、戦時中のすべての航空機を操縦した経験豊富なテストパイロットである
オリバー・スチュワートは、次のように違いを表現しています。
「スナイプは落ち着きがあり、より品格のある飛行機でした。
それはよりパワフルで全てのパフォーマンスの面で優れていましたが、
キャメルの持っている雷のような操縦特性はありませんでした。
キャメルからスナイプに乗り換えるのは、8馬力のスポーツカーから
8トンの大型トラックに換えるようなものです。
大型トラックは確かにより強力で、より多く、より大きいですが、
8馬力のスポーツカーの軽さと反応の良さは持ち合わせません」
つまり操縦はしやすいが鈍重な機体ということでパイロットには嫌われたようですね。
というわけで、戦争中、スナイプは護衛任務中心に使用され、戦闘機なのに
胴体の下に4つの9 kgクーパー爆弾を装備していました。
そして1918年4月に創立したイギリス空軍にとっては
新設部隊の最初の戦闘機という称号を得ることができましたが、
しかし、それは時期的に戦争での運用に間に合わず(カイザーシュラハトにも)
もちろん戦局に何も影響を与えることのないまま終わっています。
戦後、スナイプは夜間戦闘機になりました。
戦争が終わり、戦闘行為が停止すると自動的に航空機の開発もストップしたので、
(開発技術もまた極端に低迷することになったのですが)スナイプは
そのおかげで空軍での運用寿命だけは延びたということになります。
そして1920年代の半ばには退役したのですが、いわば、
最初から最後までパッとしないまま終わった飛行機でした。
さて、今一度スナイプの機体を見てみましょう。
上部と下部の翼を接続する2セットの支柱があり、強度はありますが、
この配置では抵抗力の増加は避けられそうにありません。
スナイプがキャメルに勝る速度を提供できなかったのはこのためです。
ただし、何度もいうように決して悪い飛行機ではなく、キャメルの優れた機動性を受け継ぎ、
逆に「悪質なハンドリング特性」は克服していました。
素人目には操縦しやすく駆動性に優れているならなんの不満があるのかというところですが、
じゃじゃ馬を乗りこなして設計予想以上の性能を引き出すことに喜びを覚えていた(多分)
キャメル・ドライバーにしてみれば、意外性がなく数式通りの結果がでるようで、
やっぱり一言で言って面白くない飛行機だったのかもしれません。
NASMコレクションのソッピース・スナイプは1918年8月、
ラストン・プロクターカンパニーで製造されましたもので、
このタイプで世界に現存する2機のうちの貴重な1機です。
米国での最初の記録の所有者は個人の輸入業者で、この業者から買い取った
個人所有者は、スナイプを新しい布地で覆い、木材を再仕上げし、
130馬力のエンジンを取り付けるなど熱心にレストアを行っています。
次に購入した人が地元の博物館に売却し、1966年まで航空ショーなどに出演していたそうですが、
ある日着陸に失敗して墜落したため、それ以来引退して二度と飛んでいません。
そして4人目の所有者が亡くなった後、遺品として博物館に譲渡され、翼を休めています。
続く。