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シュターケンとイリヤー・ムローメツ 第一次世界大戦の大型爆撃機〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の第一次世界大戦のコーナーに、
この、見るからに大きさを感じさせる飛行機の模型がありました。

これが調べてみてびっくり、ツェッペリン製の飛行機だったのです。

ツェッペリンというと、わたしなど飛行船しか思い浮かびませんが、
実は普通の形の飛行機も作っていたんですね。

 

■ ツェッペリンの巨大爆撃機 

ドイツのイギリスに対する「爆撃キャンペーン」は1917年夏頃になると
いっそうエスカレートしていき、

リーゼンフルークツァイゲ
(Risenflugzeuge=giant airplanes)

巨大飛行機がついにイギリスの市街地に初めての爆弾を投下し始めました。

 

ドイツでは巨大飛行機の頭文字をとって「R飛行機」と称し、
巨大飛行機による爆撃計画を「R計画」と呼び、4気筒エンジンの爆撃機、

ツェッペリン-シュターケン 
Zepperin Staaken R.IV

が「R計画」のR飛行機として使われました。

これはロシアの飛行機設計家であったあの有名な

イーゴリ・イヴァノビッチ・シコルスキー

の設計した

イリヤー・ムーロメツYe-2

にインスパイアされて誕生したといわれています。

Sikorsky, Igor.jpgシコルスキー

これがスミソニアンの模型であるシュターケン。
冒頭写真を見ていただければわかりますが、迷彩柄をしています。

結構大きな模型だった記憶がありますが、写真が不鮮明ですみません。

こちらがR飛行機のモデルとなったシコルスキーのイリヤー・ムーロメツです。

翼はシュターケンの方がわずかに大きく、上下の翼はほぼ同じ大きさですが、
こちらは下翼が小さいデザインとなっています。

この「イリヤー・ムローメツ」というのは人名で、ロシアの叙情詩の登場人物です。
正教を守り国を乱すものと戦ったという伝説英雄であり、ロシア人ならおそらく
誰でも知っている名前なのだと思われます。

日本でいうと須佐之男命とか、そんなかんじ?知らんけど。


このシュターケンを設計したドイツ人は、

アレキサンデル・バウマン

という設計家なのですが、なぜか顔写真が単体で一枚もなく、仕方がないので
シュトゥットガルト大学のHPの「かつて本校に在籍した教授」
というページから拾ってきました。

この人についてはぜひ余談として触れておきたいことがあります。
シュトゥットガルト大学に籍を置いている間となる1925年のこと、彼は

三菱重工業の招きで日本を訪れ、

設計コンサルタントとして、中田信四郎技師、徳永技師と共に
いくつかの日本の軍用機の製作に携わっていたということです。

この間バウマンは

鳶型試作偵察機(2MR1)

鷲型試作型爆撃機(2MB2)

隼型試作戦闘機

などの設計を行っています。

エンジンはいずれもイスパノ・スイザを搭載しており、とくに隼はその後
完成品が九一式戦闘機として制式採用されることになりました。

ですから、日本の戦闘機界にとっては恩人というべき人であるはずですが、
どうしてここまで名前が残されていないのかちょっと不思議です。

このバウマン教授は日本滞在中の1927年、妻が病気という知らせを受け
帰国したのですが、翌年妻が他界すると、2ヶ月後に後を追うように死亡しています。

 

 

さて、ツェッペリン・シュターケン、R飛行機は、第一次世界大戦時に製造された
シリーズのいかなる飛行機よりも大きなものとなりました。

翼のワイドスパン9mという大きさは、のちに登場する
ボーイング727−200ジェットエアライナーより大きかった、
といえば、その大きさがご想像いただけるでしょうか。

最初のR飛行機は1915年ロシア戦線に配備されていましたが、その存在は
実質的に1917年9月28から29日にかけて行われたイギリス各地への
最初の夜間爆撃まで全く知られていませんでした。

そして1917年9月から1918年5月にかけて、28種類のR飛行機がイギリス本土に飛び、
合計1,000キログラムの爆弾をイギリス本土に投下しました。

能力的には爆弾の最大搭載量は2トンまでが可能でしたが、
ロンドンへの爆撃は長距離となるため、これでも重量を抑えていたということです。

 

ここでシュターケンとイリヤー・ムローメツとのスペックを比較しておきます。

ツェッペリン・シュターケン/ イリヤー・ムローメツ Ye-2

全長:   22.10m  /18.8m

全幅:   42.20 m / 34.5m

全高:   6.30 m / 4.72m

翼面積:  332.0 m2 / 220 m2

虚重量:    7,460kg / 5,000kg

全装備重量: 11.460kg / 6,500kg

エンジン: ダイムラーベンツ メルセデスD.IVa×2 / ルノー・エンジン ×4

最大速度: 130km/h / 130km/h

最高到達高度: 3.800m / 3,200m

乗員: 7名 / 4名

 

■ イリヤー・ムローメツ

ところでイリヤー・ムーロメツですが、最初は軍用機ではなく、
豪華旅客機として考案され、建造されたものでした。

航空史上初めて、室温が保たれた旅客サロン、快適な籐の椅子、寝室、
ラウンジ、そしてこれも世界初となる客室内トイレが備えられており、
暖房と電気照明があるという大変ゴージャスなものでした。

機体の両側には開口部があり、整備士は飛行中でも
エンジンを調整するために翼の上に出られるようになっていました。

メインキャビンには両側に外が見える大きな窓が開いており、
奥にはプライベートキャビンがあって、ベッド、小さなテーブル、そして
キャビネットまでが備えられていたのです。

照明は風力発電によって提供され、暖房はキャビンの外を通る
長いエンジン排気管の排気熱を利用するという今のエコ仕様です。

テスト飛行では、サンクトペテルブルグからキエフまでの距離、
1200kmを往復し、当時の世界記録、14時間38分を打ち立てました。

 

しかし、第一次世界大戦が始まると、シコルスキーは機体を再設計して、
軍用に転換すべく、最大800kgの爆弾を搭載し、尾部を含む機体の9箇所に
機関銃を取り付けるという改装を行いました。

機体が大きく航続距離もあるので、爆撃だけでなく長距離偵察も可能。
戦争中イリヤー・ムーロメツは通算400回以上の出撃を行い、
65トンにおよぶ爆弾を敵地に投下するなど大活躍しましたが、
絶え間ない出撃によって機体は目に見えて消耗していき、
最後には最前線に4機しか残っていなかったそうです。

 

このときロシア政府とシコルスキー自身が設計と製造のライセンスを
イギリスとフランスに売却していましたが、ドイツは自国に墜落した
「イリヤー」の残骸から「インスパイアされて」シュターケンを作りました。


また、ロシア革命のあとには、あるイリヤー・ムロメッツのパイロットが、
ウクライナに機体ごと亡命し、結果的に機体が「密輸」されたという事件もあったそうですが、
これなど、昭和の時代、日本を中継にアメリカに亡命しようとして
MiGごと逃げてきたベレンコ中尉(なぜか覚えているこの名前)を思い出しますね。

 

■ その他の大型爆撃機

スミソニアンには当時の大きな爆撃機の機体比較図がありました。
先頭の大きなのがシュターケン、右上がイリヤー・ムローメツです。

ほとんどがイリヤー・ムローメツの後追いだといわれていますが、
各国は競ってこの大型多数搭載エンジンの爆撃機を開発投入しました。

イリーヤ・ムローメツの下のシルエットは、

ハンドレイページ 0/400

ハンドレイ・ページ社は
1909年、フレデリック・ハンドレイ・ページが興したもので、

ハンドレイページ ハリファックス爆撃機

などの名作もうみだしていますが、1970年、
ジェット機時代についていけず、倒産しました。

ハンドレページ0/400は、ハンドレイ・ページ社が作り続けた
重爆撃機で、エンジンはロールス・ロイス社などの双発でした。

(ところでちょうどこれを作成していた日、イギリスのロールスロイス社が
コロナ肺炎による営業悪化のため、五千人をレイオフしたと報じられていました。
名門のエンジン会社がこのような事態になる日がくるとは・・・)

 

このタイプはイギリスでは約700機が製作され、アメリカでは先日ご紹介した
「リバティエンジン」を搭載したものが107機製作されています。

1917年に初飛行し、翌1918年8月から部隊配備され、
8月25日に2機がドイツ本土のマンハイムの化学工場を夜間爆撃しました。

その後、軍飛行場のみを爆撃していましたが、おそらくイギリス都市部の
ドイツ軍の爆撃への報復として、ドイツ本土の都市爆撃を行うようになりました。

戦後は、しばらくイギリス空軍で現役でしたが、
引退してからは民間の輸送機などとして使用されています。

翼の全幅はイリヤー・ムローメツよりわずかに大きく、
19.16mというものでした。

Caproni Ca36 050309-F-1234P-003.jpg

その下にある、P-38のような相胴っぽいシェイプのは

カプロニ  Ca.33

イタリアの航空機デザイナー、ジョバンニ・バチスタ・カプロニが設計した
一連のシリーズの中の重爆撃機です。

ちなみにこのカプロニさん、

Giovanni Battista Caproni cropped 2 GiovanniBattistaCaproniLefteBrother png.jpg伊達なイタリア男

ネクタイ一つ見てもただものでない洒落orzな感じですね。

彼はドイツのミュンヘン工科大学とベルギーのリエージュ大学で
土木工学と電気工学を学び、飛行機設計者となったという経歴の持ち主で、
1908年、なんと22歳で複葉機製造のための会社、カプロニを興しています。

カプロニCa.33は第一次世界大戦が始まり、爆撃機の必要性に応じて
それまで作っていた旅客機の基礎を流用して作った大型機です。

第一次世界大戦中は王立空軍によってCa.3と名付けられていました。
カプロニがCa.33にたどり着く前に、初期Ca.3バージョンが存在しましたが、
こちらはそれとは全く別の飛行機となります。

 

続く。

 

 

 


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