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レマゲン鉄橋の石とティンマーマン中尉〜ピッツバーグ 兵士と水兵の記念博物館

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ピッツバーグの「兵士と水兵のための記念博物館」を見学し、
写真を撮ったのはコロナ肺炎の流行る前の年の夏のことです。

こういう博物館で撮影するときにはとにかく時間との勝負なので、
展示の内容をじっくり読み込んだりせず、瞬時に重要度を判断して
フォーカスするものを取捨選択しつつ、シャッターを切っていくわけですが、
あまりに展示場の照明が暗いと、画像の説明文が読めないという事故が
(最近ではまれですが)起こります。

1910年に開館したこのソルジャーズ&セイラーズメモリアル・ミュージアムでますも
とにかく施設自体が古いこともあり、とにかく暗くてこれがありました。

展示方法は昔から全く変わっておらず、テーマごとにガラスケースに収められていて、
見学者が決められた方向(ケース右側)から歩いていくと照明が点くのですが、
それが何の工夫もない天井からの蛍光灯だったりして苦労しました。

ということを念頭にこの画像を見ていただきたいのですが、
ガラスケースの使用が開館以来変わっておらず、正面から撮ると
ドアの桟が映り込んで展示を隠してしまうわけです。

後から写真を見たとき、欠落している部分が多いので
次にピッツバーグ行くことがあったら必ずもう一度行って
撮り直そうと思っていたのですが、今回のコロナの影響で
当博物館は

「オープンしているが必ず予約してガイドと一緒に歩くこと」

という面倒くさいことになっており、とにかく自分のペースで
撮影して回りたいわたしにはちょっと無理っぽいことがわかりました。

・・・というわけで、細部の情報収集不可能な展示、
たとえばこのDデイコーナーなども説明をスキップします。

まあ、ノルマンジー上陸作戦に参加した地元の軍人たちの制服と写真、
そのときに使った星条旗というだけなので説明も要りませんよね?

アメリカ陸軍第78歩兵師団コーナーです。

第一次世界大戦に参加するために1917年に創設され、
現在もアクティブであるという知る人ぞ知る名門ですが、
一つの陸軍師団だけに焦点を当てた展示というのも
数ある軍事博物館ではあまり見なかったような気がします。

師団徽章である赤にイナズマの意匠には
何やら深いストーリーがありそうです。

ポーズを取るイケメン兵士が着用している上着は、
第二次世界大戦中アメリカ陸軍で「アイクジャケット」と呼ばれていました。

アイクとはもちろんあのドワイト・アイゼンハワーのことで、
将軍アイクが写真を撮るときに着用していたジャケットは
イギリス軍のバトルドレスユニフォームを参考に、丈は短く、
そして胴を思いっきり絞ったデザインでした。

左肩には第78師団の渾名「ライトニング」を図案化した徽章が、
ラペルのピンにより、彼が第311歩兵の所属であることがわかります。

また、左肩に組紐の飾緒があしらわれていますが、これは

「fourragère 」(フォーラジェール・フォーラゲール;仏)

というのが一般名詞で、軍事ユニットを区別するものです。
フランス軍が発祥で、オランダ、ベルギー、ポルトガル、そして
ルクセンブルグなどの他の国々に採用されていました。

他国の軍隊にも授与されることがあり、この兵士のフォーラゲールは
ベルギーで戦闘に参加した部隊にのみ与えられたものです。

色によってその持つ意味が違い、赤は

Fourragère aux couleurs de la Légion d'honneur
(レジオンドヌール・名誉軍団)

となります。

制服の左胸には授与したメダルを表すリボンがありますが、
第78師団第311歩兵部隊がいかにメダルコレクターであったかは、
このジョン・ルール4等特技兵(T/4)一人が受けたメダルを見ればわかろうというものです。

シルバースター、ブロンズスター、オークリーフ部隊章、パープルハート、
英国ノルマンジー勲章、アメリカンキャンペーン、フランス解放勲章、
ベルギー第二次世界大戦勲章、勝利メダル・・・。

まるで軍人が受賞できる栄誉メダルの見本のようです。

第二次世界大戦におけるアメリカ軍のスタンダードだった
スプリングフィールド社製のM1ガーランド銃。

日本国自衛隊ではつい最近まで特別儀仗のスタンダードだったのですが、
2019年から儀仗用に作られた「儀仗銃」に変更されていたそうです。

うーん、ということは去年の音楽まつりはすでに変更になっていたわけですね。
今にして思えば写真を整理していた時、銃の色が明るいなと思ったんですが、
まさか銃そのものが変わっていたとは気づきませんでした。

こちらはドイツ軍使用のワルサーP-38ピストルです。
先日取り上げた映画「Uボート」で、錯乱した機関室のヨハンに対して
艦長が持ち出したのがこれでしたよね。

ワルサーという言葉はおそらく子供の頃から聞いて知っていましたが、
そのスペルが開発者のCarl Wartherからとられていて、
ドイツ語だとそもそもTHの擦過音発音ではなく、Wも「ワ」ではなく、

「ヴァルター」

と読まなければならないことに気が付いたのは最近のことです。
ルパン三世でもおなじみ「ワルサー(ぴーさんじゅうはち)」という読み方は
英語読みに忠実であったということになります。

Colt Model of 1911 U.S. Army b.png

戸棚に一部が隠れてしまっていますが、
M1911コルト銃もありました。

コルト社のM1911は軍用に開発されたモデルで、アメリカ軍に
第一次世界大戦からベトナム戦争までの間使用されました。

上の銃架に載っているのが

M1919ブローニング中型機関銃

左にあるのがブローニングの弾薬ケースです。
この空冷式タイプは第二世界大戦からベトナム戦争までの期間使用されました。

2〜4人の歩兵のチームが携行するという目的のために作られました。

画面下にある錆びた銃剣は、アメリカ軍のM1ガーランドです。
ドイツのケステルニッヒで戦闘の30年後、地元住民がガーデニングをしていて(笑)
発見したもので、ダン・ロウ軍曹という持ち主もわかっているそうです。

なぜ持ち主までわかったかというと、落としたロウ軍曹本人が、
1990年「思い出の戦場ツァー」をしていてこの銃と再会したからだそうな。

彼の部隊は1945年現地で展開していましたが、彼のいた「キツネ穴」の近くで
迫撃砲が爆発した際彼は銃をとり落とし、それっきり見つかりませんでした。

サビた銃剣を見た途端、かれは45年前のできごとをありありと思い出し、
この銃が自分のものであると確信しました。

その後の経緯については書かれていませんが、おそらく現地の博物館が
本人に返還することになり、その後博物館に寄贈されたのでしょう。

 

 

「レマゲン橋頭」

というタイトルのこの絵は、第78師団第310歩兵部隊が
ライン川に唯一残されていたルーデンドルフという鉄橋橋で
ドイツ軍と戦いを繰り広げた様子を描いています。

「レマゲン鉄橋」というハリウッド映画にもなったこの戦いでは、
橋を確保しそこに橋が頭堡を築こうとするアメリカ軍と、あの手この手で
爆破を試みるドイツ軍の激しい攻防戦が繰り広げられました。

橋の上のアメリカ軍

ここには、注意して見なくてはわからない小さな石が展示されています。

最初にレマゲン橋を渡った第75師団第310歩兵部隊の兵士
(アレクサンダー・ドラビク軍曹という名前が残っている)が
拾った現地の石ということです。

ルーデンドルフ鉄橋を占拠したことは、メディアによって

「レマゲンの奇跡」(Miracle of Remagen)

と呼ばれ、アイクジャケットのアイゼンハワー将軍は

「レマゲン鉄橋の重さと同じ金の価値にも相当する」
(worth its weight in gold)

と彼らの功績を称えました。
それくらいこの時のドイツ軍の攻撃は熾烈だったということですが、
逆に総力を上げてフロッグマンまで投入したのに攻略できなかったドイツでは、
ヒトラーの一声で爆破作戦を指揮した五人の将校が軍法会議にかけられ、
四人は即座に(その日のうちですかね)に処刑されてしましました。

将校のうち一人は捕虜になっていたため欠席裁判での死刑判決でしたが、
判決をアメリカ軍から聞かされた本人は、内心、助かった、と
ひそかに胸を撫で下ろしたかもしれません。

このドイツ軍将校がどうなったかその行方を知りたいのはわたしだけかな。

ついでに余談ですが、隅田川にかかる永代橋、いまでも1923年に架橋されて
変わらない姿を見せるあれは、ルードルフ橋つまりレマゲン鉄橋をモデルにしたそうですよ。

Eitaibashi2.JPG

ルーデンドルフ鉄道橋:レマゲン鉄橋 | cynthia-dr-murazumiのブログ

なるほどアーチが似ている。

永代橋の建造は間組が行い、橋脚の部分だけ神戸の川崎造船所が請け負っています。
当時は水の上と水の中の工事は分業しなければならなかったようですね。

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ちなみにこれが映画「レマゲン鉄橋」Bridge of Remagenです。
アメリカの制作なのですが、wikiの説明がなぜかドイツ軍目線(笑)

ドイツ軍のブロック将軍は、担当地区に残る橋を全て爆破するように命じられたが、
川の向こうには7万5000人の兵が残されており、この友軍が撤退できるよう
レマゲン鉄橋をぎりぎりまで残し、連合軍が間近に迫ってから破壊しようとする。

将軍は腹心の部下、クリューガー少佐を橋防衛部隊の指揮官に任命し、
連合軍が橋の目前まで迫るまで爆破しないように指示する。

クリューガー少佐が橋に赴くと、書類上では1600名の兵員が実際はほとんどおらず、
爆破のための爆薬すら無い逼迫した状況であった。
少佐は、爆破の準備や橋の防衛陣地の構築とともに増援部隊の派遣を要請するが、
いくら要請しても生返事ばかりで一向に援軍が来る気配はない。

そうしているうちに米軍のバーンズ少佐指揮の機甲歩兵大隊に所属する
先遣隊が橋の間近まで迫り、橋をめぐる攻防戦が始まる。

ブロック将軍も処刑されておしまいになったんでしょうか。
それとももしや捕虜になって助かった?のはこの人?

それからこの映画で「ハートマン少尉」という(軍曹じゃないよ)
登場人物のモデルになったアメリカ軍人がいます。

Karl H. Timmermann.jpg

カール・ハインリヒ・ティンマーマン(Karl Heinrich Timmermann)1922-1951

という、名前からドイツ系アメリカ人のこの人物は、ルードルフ橋攻略後
ライン川を最初に渡ったアメリカ軍将校となりました。

アメリカ軍侵攻時、鉄道トンネルの中には300人ほどのドイツ兵とともに
アメリカ軍の砲爆撃を逃れ避難してきた民間人が閉じ込められていました。

トンネル内に残ったドイツ軍は最後の一兵まで戦えとの命令を受けており、
将兵の多くはそれを受け入れていましたが、民間人は降伏しようとし、
(ドイツ軍人はそれを許した模様)英語を話せるカール・ブッシュという人物が

「Stop Firing!」

と映画で覚えていた言葉を叫んでトンネルを出ると、尋問してきたのが
このティンマーマン少尉だったのです。

ブッシュを通訳としてトンネル内のドイツ軍将兵たちと交渉が行われた結果、
200名ほどのドイツ兵と100名ほどの市民が投降することになりました。

降伏のために最初にトンネルを出て射殺された民間人一人がこのときの死亡者となりました。

トンネルからの撤退交渉が成功したあとのことです。
ブッシュは自分に応対していたアメリカ人将校が完璧なドイツ語の発音で

「よくやった」

と言ったのに驚きました。

ティンマーマンの父はドイツ系アメリカ人、母親は
アメリカ軍人として第一次世界大戦後の占領任務に携わっていた父が
現地で見つけたいわゆる戦争花嫁のドイツ人でした。

ヨーロッパでの戦争の拡大に伴い米国内の反独感情が高まると、
「ティンマーマン」というドイツ系の姓を嘲笑されるようになりますが、
彼を筆頭にティンマーマン家の3人兄弟は、祖国に忠誠を示し
名誉を挽回するべく、全員がアメリカ軍に入隊したのでした。

日系人部隊に入隊した日系アメリカ人もそうでしたが、軍隊に入ることが
当時のドイツ系にとって最も手っ取り早い愛国の「方法」だったのです。

ティンマーマンはその後朝鮮戦争にも中尉として参戦しましたが、
そのころから体調の不調を感じ、わずか29歳で精巣腫瘍のため命を落としました。

新聞はこの「ラインの英雄」の死を、

「戦争という癌は彼の命を奪う事に2度も失敗した」
(the cancer called war had failed to take his life in two tries.)

と報じました。

彼は自分の軍人生を奪ったガンを憎みながら亡くなりました。
死ぬ前に妻に言い遺したことばは、

「葬儀の前に階級章とボタン、勲章を磨き、
胸にすべての勲章を正しく飾ってくれ」

であったということです。

続く。

 

 


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