しばらくお休みしていましたが、再びピッツバーグにある
兵士と水兵の記念博物館の展示をご紹介しています。
もう一度時間を戻して?第一次世界大戦関係の展示です。
第一次世界大戦中の陸軍航空隊パイロットが使用した航空ジャケットです。
人類史上初めて空中戦が行われることになったこの戦争ですが、
アメリカ航空隊は一足先に航空戦を体験していた英仏軍から
当時の吹き曝しのオープンコクピットでは皮が一番いいという結論を得ました。
その後の基本となるパイロット用のゴーグルと毛皮を裏に貼った帽子も
このころに開発されその後受け継がれていったものです。
これが当時ヨーロッパに展開していた航空部隊のパイロットとその乗機です。
機体に備え付けられているのはコネチカットのハートフォード社製、
ヴィッカーズ 航空機関銃
で、1分間に最大600発まで発射可能、俗に
「バルーン・バスター」
偵察用の気球を簡単に撃ち落とすことからこう呼ばれていました。
写真で銃の横に見える長い棒と歯車状のものは、弾丸がプロペラに
当たらないように、発射とプロペラの回転を同期させる仕組みです。
「エアクラフト・アーモラー」、航空弾薬係の制服です。
空戦用の航空機搭載マシンガンの準備をするのが任務で、
制服の襟には火を噴いている爆弾を表す飾りボタンがあしらわれています。
こちらは第一次世界大戦当時の歩兵銃です。
どんな戦争も同時に武器の製造技術が大幅に革新しますが、
第一次世界大戦時
は歩兵にとっての新しい武器とされたライフルが
フランスの戦場で初めて導入されました。
上から
1903年製 スプリングフィールド・ライフル
1917年製 マガジンライフル
ロス(Ross)ライフル Mark II
スプリングフィールド銃の使用期間は長く、製造は1937年まででしたが
第二次世界大戦の太平洋戦線でも使われていたそうです。
第一次世界大戦当時のアメリカ陸軍歩兵。
彼らは塹壕戦に備えて必ずトレンチナイフを持っていました。
この度の戦争で進化したテクノロジーの一つは、たとえば、
正確に照準を合わせるためのこのような仕組みでしょう。
「Aiming circle」(照準サークル)
という1918年製作のこのガジェットは、
方位角による角度の測定、および地形学的作業に使用されました。
上が陸軍の軍靴、そして右下アフリカ民族工芸品のようなものは、
当時のカモフラージュ塗装を施したヘルメットです。
いったいどんなところで戦えばこんな模様になるんでしょうか。
タンクの前に立ってポーズをしている長身の男性は
戦車部隊のエドガー・トーマス・トゥレーさんです。
撮影場所はフランス、当時アメリカ陸軍は2種類の戦車、
Mark V(重戦車)、そして
フランスのルノー製FT17軽戦車を使用していました。
トゥレーさんと写っているのはルノーの軽戦車のようです。
陸軍航空隊のパイロット用制服です。
制服の右袖にあるのがウィングマーク袖章です。
軍航空部隊が生まれると同時に世界でウィングマークも生まれました。
このことは「第一次世界大戦のレガシー」でお話ししましたね。
第一次世界大戦でヨーロッパに派遣されたアメリカ陸軍兵士の制服あれこれ。
右上に海軍少尉の制服がありますが、海軍の制服は基本的に世界中が
同じ感じのデザインで移行していたように思えます。
イギリスも日本もこの頃は詰襟前立てでした。
砲兵、歩兵の制服です。
制服の下にそれぞれの持ち主の写真が置かれていました。
2番は「ブルーリッジ」と渾名された第80歩兵連隊のジョセフ・レック上等兵のもの、
という具合です。
一番右のヘルメットはフランスに出征したアフリカ系アメリカ人部隊、
第93分隊のものです。
彼らを率いていたのは白人の将校でしたが、当時にしてすでに
黒人将校が率いる第351砲兵隊というのも存在していました。
1番のパープルハート付き将校用制服は、
このラルフ・ハーテンバック(多分ドイツ系)中尉のものです。
ハーテンバック中尉は第一次世界大戦が起こったとき、
ペンシルバニア州立大学の学生で、予備士官として訓練を受け参戦しました。
戦争が終わり、帰還してきたハーテンバックは、
ビーバー郡にあった自分の農場を母校ペンシルバニア州立大に寄付しました。
今でもそれは「ビーバーキャンパス」として残されています。
後ろにあるのは当時有名だった「公債を買いましょう」ポスターです。
アメリカの兵士が手榴弾をドイツ軍の塹壕に投げ込んでいるところで、
塹壕のドイツ兵が驚きと恐怖に目を大きく見開いています。
1918年のリバティローンの宣伝のために制作されたもので、
このローンは4.5%の利息で30億ドルの債券を販売することになりました。
次の展示ケースも第一次世界大戦です。
冒頭画像にその一部をあげた中央のポスターは、説明に
Death "Over There" Memorialization at Home
とありました。
「そこ」とはフランスのベローウッドの戦いのことです。
ここで最初に三人のアメリカ人が戦死したのです。
彼らのことは
「ザ・ファースト・スリー」(最初の三人)
として報道でも大きくその存在が取り上げられました。
ベローウッドの戦いは、第一次世界大戦のドイツの「春の大攻勢」中に、
フランスのマルヌ川の近くで発生した戦闘で、フランスおよびイギリス軍とともに、
米国海兵隊の第2、第3師団が参加し、戦死者1,811 名、負傷者7,966名という犠牲を出しました。
その中で最初に戦死したのが
左・トーマス・フランシス・エンライト上等兵
中・ジェームズ・ベテル・グレシャム伍長
右・メール・ヘイ上等兵
でした。
彼らは「ドイツに殺された最初の三人のアメリカ軍人」として喧伝されました。
3名の遺体は現地に葬られ、その後墓碑が建てられましたが、
戦後1921年になって彼らの遺骨は帰国を果たしています。
左写真のエンライト上等兵はピッツバーグ出身だったので、
当ソルジャーズ&セイラーズメモリアルのホールに運ばれ、
ステージに安置されてで一連の儀礼が行われました。
そして国旗をかけられた棺はオナーガードの見守る中、
地元出身の第一次世界大戦のヴェテランたちの肩に担がれて
SSMMの正面通路を退出してのち墓地に葬られました。
これは第一次世界大戦で戦死したデイビッド・バートン・フォンター曹長に
国から与えられた「証明書」ですが、この図柄で
無名の兵士の肩に剣を乗せている女性はレディ・コロンビアです。
コロンビア映画の冒頭に出てくることでよく知られているこの女性は、
「アンクル・サム」の女性版、つまり「アメリカの象徴」です。
米国政府が発行したこの「負傷証明書」は、寓意的な人物「コロンビア」が
頭の上に名誉の巻物を持ちながら象徴的に剣で跪く兵士に祝福を与えており、
画像の上部には
「コロンビアは彼女の息子に新しい『人道の騎士』の栄誉を与える」
という言葉が刻まれています。
第一次世界大戦の戦闘で負傷、または戦死したアメリカ人兵士のために
発行された各プリントには、手書きで受信者の名前が記されていました。
こちらはフランス政府から第一次世界大戦で戦死した
アメリカ軍兵士の家族に向けて発行された「証明書」です。
フランス語と英語で、
「彼らは祖国の正義のために戦って死に、その棺は埋葬された」
と記されています。
フランスで戦死した海兵隊伍長デビッド・バートン・フォスターの写真です。
額縁の右側に釘付けされた金属製のバンドは、遺体の身元を証明するための印で、
ヨーロッパから送り返される棺に打ち付けられていたものです。
この「遺体身元証明バンド」は、彼の遺体が故郷に帰宅したときに
棺から回収されて遺族が遺影に取り付けたものと考えられます。
ケース右下にひっそりと置かれたこの木箱には、今も未開封のシャンパンが入っています。
ピッツバーグのブルームフィールド駐在の第275師団出身のヴェテランたちが
おそらくここで行われたリユニオンの時に、
「我々のなかで最後に残った者がこれを飲み干す」
(トースト・トゥ・ザ・ラスト・メンバー)
と決めて、木のボトルケースにそう記したのですが、残念なことに
「最後のメンバー」はシャンパンを開けることなく世を去ってしまい、
未開封のシャンパンだけが今もここに残されています。
どうしてこの約束が果たされたなかったかについてはわかっていません。
最後に生き残った人に自分がそうであるという自覚がなかったのか。
あるいは、日々の生活の中で彼はこのシャンパンのことを忘れたっきり、
ある日突然、この世を去ってしまったのでしょうか。
続く。