しばらくエントリーをアップできなくて申し訳ありません。
この間、また家庭の事情によりピッツバーグに来ることになり、
飛行機で移動している間全くPCにさわることができませんでした。
着くなり今年最初の「スノウストーム」の中、現地の人ですら
事故を起こしまくりの大雪にもかかわらず、車を運転して食料品などを買い込んで、
帰ってきてから久しぶりの食事を作ってやっとお腹に入れたばかりです。
そしてここからこの博物館の情報を最初に発信するのも何かの縁に違いありません。
さて、そのピッツバーグ兵士と水兵のための記念博物館の展示は
いつの間にか第二次世界大戦関係のものに移りました。
開館当初からの装飾であるラーメン鉢の縁の中華模様、
あるいは少しだけギリシャ風の連続模様は、ところどころ改装のため
切れていますが、
1862年結成され南北戦争に参加した、
「第159ペンシルバニア志願大隊」「第14騎兵連隊」
の在籍者の名前を余すことなく記した銘板と、そして
ステンドグラスの周りを飾っている部分は今も健在です。
両隊は有名なところではバンカーヒルの戦いにも参加した部隊で、
任務中2人の将校と97人の下士官兵が戦死、また
296人の入隊した男性が病気で死亡し合計395名が戦死となっています。
生存者がまだ生きていた頃は銘板の前に展示を置くことなど
しなかったのだと思われるのですが、今ではこの通り。
ジープは1953年製4分の1トン(こんな表示をするんですね)
ウィリーズM38A1海兵隊モデル四駆多目的トラック
で、朝鮮戦争の間朝鮮半島の地形を考慮した足廻りを備えていました。
この車そのものは、一旦民間人の所有になっていたのが寄贈されたものです。
アメリカだとこんなのが走っていても全く違和感なさそうですが。
雰囲気を出すために、Canteen、食堂の方向の下に、
マニラ、東京、沖縄、チュニジア、サンフランシスコ、
ノルマンディ、ニューヨーク、ロンドン、モスクワ、
そしてローマの方向と距離が書き込まれた道標があります。
朝鮮戦争時代という設定なのになぜ半島の地名が一つもないのか。
それは誰もかの地の都市名を知らなかったせいではないでしょうか(棒)
ステンドグラスの意匠は教会のものとはずいぶん趣が違います。
しかもこれステンドグラスじゃなくてシール貼ってないか?
続いてのブースを見てわたしはちょっと胸がときめきました。
南北戦争から始まって陸軍関係の展示ばかりが続いたところに、
初めて船の模型とセーラー服が登場したのです。
これはアメリカ沿岸警備隊の初期の制服です。
沿岸警備隊のルーツは、170年前の合衆国税関監視局にまで遡ります。
1812年の米英戦争から今日の重要な国土安全保障の最前線まで、
アメリカの紛争において切れ目ない多様な任務を遂行してきました。
ラテン語の
「Semper Paratis」=「Always Ready」(常に備えあり)
をモットーとして常に任務にあたってきた沿岸警備隊は、
21世紀においてもその任務を海洋安全、海洋警備、海上交通、
国際警備、そして海洋資源の保護としています。
水兵の足元に置かれた模型は、沿岸警備隊のカッターです。
わたしは以前コネチカット州にある沿岸警備隊の士官学校で
併設されている博物館を見学したことがあり、そのときに
沿岸警備隊について調べて初めて知ったのですが、沿岸警備隊は
出発点が、
合衆国税関監視局=United States Revenue Cutter Service
つまりカッターに税収をかけて歳入を維持するシステムから生まれたため、
今でも沿岸警備隊の船は大きさに関係なく、「カッター」と称するのです。
この模型は
LST-280
というカッターで、1943年に認可されました。
第二次世界大戦中はランドタンカーとして、
あるいは重量のある装備などを戦地に輸送する役目を行いました。
また、模型の後ろに時鐘と国旗っぽいリボンがあります。
この時鐘はカッターLST-73 で使われていたもの。
LST-73は、ここピッツバーグからオハイオ川を数マイル下ったところにある
Dravo Corporationによって建設され、144年9月2日に進水を行いました。
この造船会社は1998年に買収されて消失しました。
太平洋戦線に投入され、なんと、
1945年3月から4月にかけての沖縄群島の急襲と占領
に参加し、任務中の実績に対し二つのバトルスターを獲得しています。
(沖縄群島のことをOkinawa Guntamと間違えている)
沿岸警備隊の女性隊員のことをSPARと称します。
正確には「米国沿岸警備隊婦人予備隊員」なのですが、
なぜSPARかというとモットーのラテン語「Senper Paratis」を省略したものなのです。
そして沿岸警備隊の女性の歴史は実は沿岸警備隊結成前から始まっていました。
以前も当ブログでお話ししたことがある、女性灯台守、
「アメリカで最も勇気のある女性」
アイダ・ルイス(1842−1911)。
沿岸警備隊が組織される前に灯台守りとして多くの人々を救出し、
栄誉メダルを授与されています。
ロードアイランド州ニューポートに生まれた彼女は、16歳の時
ライムロック灯台の灯台守だった父が発作のために倒れた後、仕事を継ぎ、
1858年、近隣の家族4人の船が転覆した時に彼らを救出しました。
彼女はこの英雄的な救助劇のその後も、ライムロックで灯台守を一生の仕事として、
その生涯には少なくとも18人の市民を救ったとも言われ、その最後の救助は、
彼女が63歳の時であったとされます。
これがアイダにも授与されたコーストガードに対するシルバーメダルですが、
授与された人の名前を見てびっくり、
Robert Kennedy
あのRFKか?と思ったら、ミドルネームがC。
調べたのですがテロリストのロバート・コブ・ケネディと、
ロイヤルネイビーの士官、ウィリアム・ロバート・ケネディしかでてきませんでした。
たまたまそういう名前の人が人命救助で表彰されたようです。
2つの視認可能な物体間の距離を測定するために用いられる道具、
セクスタント、六分儀。
六分儀の使い方が分かりやすいのでこちらも2度目ですが貼っておきます。
さて、コーストガードがでてきたので期待していたら、そこに
巨大な軍艦の模型が登場。
重巡洋艦USS「ピッツバーグ」CA-72です。
第二次世界大戦時のアメリカ海軍の軍艦の命名規則は、戦艦が州名、
巡洋艦は都市名となっており、建造された造船所のある都市などが選ばれました。
ちなみに正規空母は南北戦争の戦場(レキシントン、バンカーヒル、ヨークタウン)、
駆逐艦は戦死した士官将官、下士官兵の名前、そして潜水艦は魚の名前です。
「ピッツバーグ」は「ボルチモア」級重巡洋艦の5番艦で、建造は、
わたしが何年か前見学に行った重巡洋艦「セーラム」を展示してある
フォアリバー造船所を買収したベスレヘム鐵工所が行いました。
造船所の場所もまったくピッツバーグと関係ないはずなのに、
なぜその名前になったかというと、同社がこの頃、列車製造のジャンルに手を伸ばし、
ペンシルバニア州の会社を買収して事業を展開していたからです。
「ピッツバーグ」の進水式を行ったのがマサチューセッツであったにもかかわらず、
式を主宰(つまりシャンパン瓶を割る儀式を)したのは、当時のピッツバーグ市長の妻だった、
というのも、ベスレヘム社が当時ピッツバーグ市といろいろ結びついていたという
政治的な裏事情が見える気がします。
ベスレヘム鐵工所はその後アメリカ工業生産の落日を象徴するかのように
1950年代をピークに凋落していくことになり、2001年には破産申し立てを行いましたが、
前にも触れたビリー・ジョエルの「アレンタウン」という曲は、
まさにその経緯を歌っていたのでした。
(ということをわたしは今初めて知ったことを告白しておきます)
Billy Joel - Allentown (Official Video)
ちなみにその歌詞ですが。
僕らはここ アレンタウンに住んでいる工場はみんな閉鎖されていってる
ベスレヘム郊外じゃ暇をもてあまして求人票に記入をし
みんな列を作っている 親父達は第二次世界大戦にいった
週末はジャージー海岸で過ごしUSOで母親達と知り合い
スローダンスを踊って結ばれ、だから僕らはいまアレンタウンに住んでいる
しかし不安が次第に伝わってきた
ここにいることがだんだん大変になってきた そう、僕らはアレンタウンに住んで
ペンシルバニアじゃ決して見つからないものをいまだに待っている
もし一生懸命働いて品行方正にしていれば手に入ると先生が約束したものを
壁にかかっている卒業証書は僕たちを何も助けてくれない
学校は何が本当か教えてくれなかった
鉄、コークス、クロム鋼・・ 僕らはここアレンタウンで待っている
でも地面から全ての石炭は掘り出された
そして労働組合はどこかに逃げてしまった
自分で翻訳してみてこんな内容だったとは、と改めて驚きました。
「ピッツバーグ」の就役は1944年10月10日。
カリブ海での慣熟訓練のあと、最初に投入された任務は硫黄島攻撃でした。
「ピッツバーグ」は硫黄島における激しい日本軍の抵抗に対抗する
海兵隊への直接支援を開始、その最後の攻撃は
1945年2月25日と3月1日の南西諸島に対してのものでした。
3月18日、「ピッツバーグ」は九州の飛行場と軍事施設を砲撃しますが、
翌19日、日本軍は夜明けに空襲を行い、逆に空母「フランクリン」に火災を起こさせました。
「ピッツバーグ」は時速30ノットで救助に駆けつけ、海上にいた
三十四名の「フランクリン」乗員を救出したのち、軽巡洋艦の「サンタフェ」と共同で
絶賛炎上中の「フランクリン」を牽引するためのラインに乗せるという
『卓越した操船技術』を発揮しています。
このあと「ピッツバーグ」が「フランクリンを牽引する苦痛に満ちた仕事を行い」ました。
牽引中
この作業中、「ピッツバーグ」艦長のギングリッチ大尉は48時間の間
操舵室にずっと詰めていたということです。(もちろん寝てません)
その後「ピッツバーグ」は沖縄侵攻に参加、
撃墜された味方パイロット救出のために水上機を派出するなどしています。
そして、6月4日に例の台風と遭遇。
時速130キロの風と高さ30mの波によって、まず右舷にあった偵察機が
カタパルトから持ち上げられ、風によって第二艦橋に打ち付けられ、
第二艦橋は座屈しました。
第二艦橋というとこれですか。
偵察機のカタパルトと第二艦橋はずいぶん離れている気がするのですが。
さらに、艦首が上に向かって押し上げられたようになり、
前部はなんと脱落してしまったのでした。
幸いこの台風で人が被害に遭うことはありませんでした。
「ピッツバーグ」は自分が落とした艦首の一部にぶつからないように避けながら
操舵を行いました。
エンジンの操作によって浮力を保ちながら、7時間格闘しているうちに、
嵐はなんとか収まり、「ピッツバーグ」はグアムに向かいました。
艦首がない
艦首部分(『マッキーズポート』(ピッツバーグ郊外の街)と呼ばれていた)は、
タグボートが拾いに行き、グアムに運ばれました。
「ピッツバーグ」は仮の艦首をつけて海軍工廠に向かい修理をしていましたが
修理中に終戦になったため、修理終了後も予備役を経て退役しました。
この後は模型のアップを掲載しておきます。
煙突は二本、わずかに後傾しています。
武装は9× 8インチ(203 mm)/ 55口径銃、
12× 5インチ(127 mm)/ 38口径砲、
48×ボフォース40mm砲、
22×エリコン20mm大砲です。
最後にちょっと心温まる逸話を。
修理の際、艦首と艦尾が数千マイル離れることになったため、彼女には
"Longest Ship in the World"
というニックネームがつけられたそうです。
続く。